16.じっとして、息を止めて
バイトを始めて、わたしの生活は規則正しくなった。
店は基本的に日曜が定休日だ。それ以外の日はほぼ毎日出勤して、精力的に働いている。真面目な勤労者だ。だいたい八時間働いて、帰してもらう。
美月ちゃんとはかなり仲良くなった。年齢の差はあれど、そこは女同士だ。そこそこ話は合うし、美月ちゃんの恋愛話も、わたしの小学生時代とまるで異なるので、嘘みたいで面白い。
ヨウコさんと美月ちゃんの会話に混ざるようにして、わたしとカズくんもそれなりに距離が縮まった。もう、顔を見ただけで緊張するようなことはなくなったけれど、腕の筋肉とかふんわり垂れる茶色の髪を見ると、軽く動揺する。
一ヶ月が過ぎて初めての給料日、わたしは中野サンモールをあちこち物色してまわり、ジャガイモやニンジンや、イチゴジャムや食パンなんかを買いあさって部屋に戻った。
敦司はバイトがあってもなくても、大抵わたしよりも遅く帰宅する。それでもちゃんとご飯を作る。
包丁も鍋も水道も食材も、計算されているような速さで見事にそれぞれの役割を果たしていく。
敦司にしてもカズくんにしても、女のわたしよりもそれらしい。
料理をするふたりの後姿を見ていると、たまに台所に立つ父のことを思い出す。
可愛らしいお弁当を作ってくれはしたけれど、父の、包丁使いは何年経っても危なかしかった。大きな手の太い指で握り締める包丁は、おもちゃみたいに小さく見えた。
父は今夜なにを食べるんだろう、と思いながら冷蔵庫に食材を詰め込んで、わたしはカレー作りに取りかかった。
給料日で気分が良かった。自分が稼いだ金で、敦司に手料理でも作ってやろうと思い立ったのだ。
それでカレーだ。カレー程度ならわたしにも作れる。田舎にいたころも、カレーは何度か作った。父にはそれなりに好評だった。
念には念を入れて、作り方の手順を見ながら慎重に進めた。
包丁をがっちりと握り締め、カズくんみたいに適度な大きさに材料を切り刻み、敦司のようにそつなくことを運んだつもりでいたけれど、途中、まな板から数回ジャガイモが転げ落ちた。
部屋のなかがカレーの匂いで充満し始めるころ、テーブルの上で携帯が震えていることに珍しく気づいた。
手に取り、出てみるとヨウコさんからだった。
『あ、由佳ちゃん?』
「はい」
悪いんだけどね、と鼻息も荒く始まったヨウコさんの話によると、あさっての午前中納品でかなりまとまった数の弁当の注文が入ったらしい。イベント会場の昼食に配るのだそうだ。
業者が午前十時半までに引き取りにくるので、それまでに仕上げないといけないらしく、どうやら明日の営業が終わって、明け方から…ともすると夜通しの仕込み、詰め込み作業になりそうだという。
『明日さ、由佳ちゃんにも残っててもらいたんだけど大丈夫かね』
一度帰宅して、始発でまた出勤してもそれじゃ遅いだろう。第一、一度寝てしまったら始発に乗れるように起きれるかどうかも分からない。
「はい、大丈夫です」
『いやー、助かるよ。助っ人も探しておくからさ、悪いけど頼むね、由佳ちゃん』
ヨウコさんはその後、まだ興奮した様子で何か話していた。
大変だなぁ、とは思ったけれど、なんだか緊急事態みたいで、わたしはヨウコさんの声を聞きながらわくわくしていた。一端の、働く人間みたいな気分になっていた。
電話を切ってからもそわそわしていたので、火にかけたままのカレーのことをすっかり忘れていた。気づいたときには、底のほうがだいぶ焦げていた。
働く人間を気どる前に、身につけなければならないことがわたしにはまだまだありそうだ。
落ち込んだままカレーをかき混ぜていると、敦司が帰ってきた。
「いい匂いすると思ったらまさかここからとは。何? どうしたの?」
「カレー作った」
「いや、それは匂いでわかるけど」
「給料入ったんだ、今日。あたしのおごりであたしのお手製カレー」
「すごいな」
「すごいよ、いろんな意味で」
「由佳が、作ったんだよな」
が、の部分を強調して、敦司は言った。
靴を脱いでわたしの後ろに立った敦司は、へえ、へえ、へえ、へえ、繰り返している。焦げ臭いことに、気づかないんだろうか。
すごく嬉しそうな敦司は、部屋で鞄を下ろしてからシャツの腕をぐいと捲くり、レタスをちぎってサラダを作った。あっというまだった。
「なんかいいよな」
同じセリフを独り言みたいに何度も言いながら、敦司はひたすらスプーンを口に運んだ。
勢いがいいので、敦司のグレーのシャツにカレーが飛んでくっ付いてしまわないか、心配になってしまうほどの食いっぷりだ。焦げなんて、まるっきり気にしていない様子だった。
わたしはそんな敦司の男の子らしい姿を眺めながら、思いのほかパンチの効いてしまった辛口カレーをちびちびと口に運んだ。何度も牛乳を飲んだ。
失敗作とはいえ、相手のために作ったものを喜んで食べてもらえるということがこんなにも気分のいいものだとは知らなかった。
わたしは、父や敦司の作った料理を、こんなにも満足げに充実した顔で食べたことがあったろうか。
作ってもらうことがあたりまえで、淡々と口を動かしていただけだろう。美味いときは「美味い」と言葉が自然に出るけれど、嫌いなものにはまず手が出ない。
美味しくない場合には素直に「まずい」と文句をつけ、与えられたものを腹に流し込むという行為を繰り返していただけの気がする。餌のように。食べたくないものを目の前にした猫が、ぷいとそっぽを向くように。
「作ってもらえるっていいよな」
敦司はまだ言っている。今日は口元にご飯粒はくっついていないけれど、鼻の頭にぽつんぽつんと細かい汗が浮かんでいる。
「良かったよ。そんなにがつがつ食べてもらえるなんてさ。焦げてるけど」
「いや、なかなかイケル」
「カレーだからね、そうそう失敗もしないでしょ。…焦げてるけど」
「好きなやつに作ってもらうっていうのがいいよな、やっぱり」
「は?」
「あ」
スプーンをくわえてわたしを上目遣いで見た敦司は、そのまま一瞬止まって、「なんでもない」と妙に焦って口走り、スプーンの音をやけに高く鳴らしながら、皿に広がったルーをかき集めた。
よほど辛いのか、それとも暑いのか。
おでこにまで汗をにじませ始めた敦司は、シャツの襟元をつかんでぱさぱさと胸に空気を送り込んでいる。皿を持ち上げてわたしから顔を隠すようにして、集めた最後の一口を飲み込んだ。
結局、敦司は三杯もおかわりした。
わたしは、一皿たいらげるのがやっとで、がぶがぶと飲んだ牛乳で腹が張っていた。次に作るときには、中辛と甘口のルーを混ぜてみようと思った。いつ作ろうかな、と考えたけれど、そう遠くない未来のような気がした。
敦司と流しを綺麗にしてから、窓際に体育座りをして二人で涼んだ。ときどき、柔らかな夜風が前髪をかすめる。
茶色の柵にもたれると、錆びた鉄の匂いがした。鼻先にかかった髪の毛からは、玉葱の匂いがする。
右の空に傾いた丸い月が、白白と浮かんでいた。濃いめの藍色の空に、金属用のペンキを一滴垂らしたみたいなクリアな月だ。身体に染み入るような月明かりで、気持ちまでまっさらになりそうだった。
この光が、余分なものや凝り固まったものや、そういう不必要なものを浄化してくれればいいのに、と思った。
胸につっかえているものはしぶとくて、いつまでも取れない。いつのまにか沈着している。
固まってしまうと取り除くのは容易でない。その上に溜まっていくものも流れていかないし、新鮮なものを詰め込んでごまかしてみても、古いものに邪魔されて、新しいものから零れていってしまう。
「綺麗だな」
「うん」
「盆踊りのときもいつも、満月だったよな」
「うん」
敦司となら、いくらでも昔話ができる。
丸い月を見上げながら、いつしか幼い頃の話になっていた。
順を追って中学生二年のころの話までたどり着いたときに、わたしたちの会話は途切れた。少し重い空気が漂って、何もしてくれない月明かりだけが窓際を照らしている。
「あのときは参ったよ」
沈黙を吹き飛ばそうとわざと明るく言ったわたしの顔を見て、敦司は苦い顔の口元を少しだけ上げて、頷いた。
なーお…なーお…
遠くのほうで猫の声がする。春特有の鳴き声だ。わたしはその声に耳を凝らしながら、体育座りのジーンズの膝をぎゅっと抱え込んだ。裸足の足先が冷えてきて、つま先を擦り合わせた。
「好きなんだよな」
ぼそりと敦司が言った。何のことか意味がわからなくて顔を上げると、敦司は、わたしの足先をじっと見ていた。
「なにが?」
「お前が」
驚いて足の動きが止まった。
それでも敦司は、わたしのつま先をまだ見ている。
「好きって、なにが」
「だからお前が」
「なに、急に」
「わかんね」
突然なにを言い出すのだろう、この男は。冗談にしては意味が深すぎる。からかいにしては性質が悪い。
「好きなんだよ、昔から。なぜか、ずっと」
わたしではなく月を見上げた敦司の横顔の、耳の後ろが陰っている。月明かりが、敦司の思考を狂わせたのだろうか。ぼんやりと、うわ言みたいな調子で呟いている。
「敦司、大丈夫?」
本気で聞くと、わたしに顔を向けた敦司と目が合った。黒い目がどことなく潤んで見える。ほんの少しどきりとして、言葉を繋いだ。
「どうしたの?」
「好きなんだよ、由佳が」
ぎゅっと何かが込み上げた。心臓を掴まれたような感じだ。敦司の言葉の意味がやっとわかって、わたしは何度もまばたきをした。すればするほど動揺して、何も言えなかった。
なーお…なーお…
遠くでまだ、猫が鳴いている。月の明かりが次第に弱まって、辺りの色のトーンが落ちる。
少し陰った敦司の大きな目が、真っ直ぐにこちらを向いている。
素直な、正直な視線だ。敦司がなにを思っているのか、すぐにわかった。
予感、というのは、こういうものなのだろうか。映画より、ドラマより、ずっとリアルだった。
敦司の顔が近づいた。わたしの気持ちを量ような少しの間があって、やがて躊躇いがちに静かに。
左肩にのせられた敦司の右手を、わたしは自然に受け入れた。唇が触れている間、わたしはじっとして、息を止めていた。
緊張していた。けれどさっきまでの動揺はなかった。
離れても、不思議とわたしは落ち着いていた。
敦司は全然おじさんみたいな顔なんてしてなくて、苦しいような切なそうな、反省しているみたいな顔で、ゆっくりと離れていった。
わたしがいつまでもぼんやりしていたので、敦司のほうが戸惑っていた。耳を真っ赤にさせて、「ごめん」と呟いた。
敦司がお風呂に入っている間、わたしはまだ柵に寄りかかったまま窓際で月を見上げていた。
どうしてかわからないけれど、泣きそうだった。
悲しいんだろうか、嬉しいんだろうか。よく、わからない。
つかえていたものが取れたというよりは、何かが溶け出して広がったような、複雑な気持ちだ。
けれど同時に、その気持ちを覆うようにして、透明で薄い、柔らかな膜がはったような感覚もあるのだった。
なーお…なーお…
猫の声が近づいている。それに応えるようにして、近いところで同じ鳴き声がした。
月は知らん顔で、わたしを見おろしている。