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15.思わず、見惚れる

 こうしてわたしのバイトは始まった。


 働くなんて勿論初めてのことで、最初こそいろいろ戸惑ったけれど、ヨウコさんにあれこれ教えてもらって日にちが経つにつれて、次第に慣れていった。


 弁当用の発泡スチロール容器を準備したり、鍋を洗ったり、お茶とコーヒー牛乳を補充したり、消毒をしたり、初めはそんなところから入ったけれど、最近ではカウンターで注文を受けることも出来るようになった。


 これは結構緊張する。相手はおじさんやまとめて頼まれてきたらしい若い人などさまざまだけれど、ビジネス街なので男の人の割合が圧倒的に多い。


 お金を受け取る手に触れないように慎重になってしまうので、ただでさえたどたどしいわたしの動きと口調はロボットみたいになる。


 

「見ない顔だね、新入りさんか」


「はい、新入り、です」



 なんていう当たり障りのない会話を交わしていると、「可愛い子でしょ、覚えてやってね」ヨウコさんの合いの手が入って、おじさんの意識がわたしから外れるので助かる。


 若い男性客なんかは、わたしのことを意外にもじろじろと見る。目が合うと、わたしよりも先に向こうが視線を逸らす。相手のほうが弱いと、それを楽しんだりする余裕がある。


 たまにピンク色やグレーの制服に身を包んだOLさんもやってくる。


 毛先がしっかりカールされて、程よい感じの茶色の髪をくるくると指先で丸めながら「のり弁とぉ」なんて言われると、可笑しくなって少し笑う。向こうも笑う。つられてもう一度笑うとOLさんもさらに笑う。きっと、わたしたちは別の意味で笑いあっている。


 電話にもたまに出るようになった。


 かけてくるのはほぼ常連さんで、注文の弁当も大体決まっている。


 メモにとって、小窓を覗き込んで、カズくんに声をかける。


 それが、一番の緊張ごとだったりする。



 バイトを決めた二週間前、敦司にそれを報告すると、シャツのボタンを三番目まで外していた指の動きが止まり、大きな目を丸くさせて驚いていた。



「大丈夫なの?」



 その日はおじさんみたいな顔でずっと心配していた。中野からわざわざ芝公園近くの弁当屋に通うことに対しても、わたしより敦司のほうが不安がっていた。


 朝ちゃんと起きれるのか、サボり癖が出ないか、失敗ばかりしないか、「バイトでもみつけたら」と言っていたくせに、かなり心配して質問攻めだった。


 一番の心配事は、歌舞伎町で起こったわたしの発作だったらしく、「絶対無理はすんなよ」と何度も頭を撫でられた。敦司の手のひらの温度を感じながら、外れたボタンを見ながら、「大丈夫だって」と笑ってみせた。


 朝は敦司と一緒にアパートを出る。戸締りは敦司がしっかりやるのでわたしはその姿を後ろから眺めているだけだ。


 並んで駅までゆっくり歩いて、改札で別れる。


 

「がんばれよ」



 敦司の手が頭に置かれる。敦司は、田舎にいたころよりずっと、渋い顔が多くなった。




 弁当屋は、午前中と昼下がりまでが忙しさのピークだ。


 それ以降は、立地にもよるのか、人が来るのも電話が鳴るのもぽつりぽつりとなる。


 人が途切れたころを見計らって、カウンターの丸いパイプ椅子に腰掛けて休憩する。


 おばちゃんから貰ったコーヒー牛乳を両手で包みながら、ほっと息を吐いて、小窓の向こうを眺める。


 カズくんは、一日の大半を厨房のなかで過ごしている。


 わたしは滅多に厨房に入らないので、二週間が経つ今も、カズくんとはほとんど会話がない。


 メモを渡すときに「お願いします」と言って、「了解」とカズくんがそれを受け取るまでの僅かな時間がわたしたちの接点だ。


 なので、カズくんと言う人がどんな人なのかイマイチよくわからない。


 わたしがお金と傘を返しにきたあの日も、「なんだ、別によかったのに」とぼそりと受け取って、わたしが「ありがとうございました」と頭をかきながら言うと、思い出したみたいに「頭、大丈夫だった?」と細い目をさらに細くして、くくくと笑っていた。


 怖いのか、そうでないのか、掴めない。ま、わたしが頭を打ったことに対してあれだけ笑えるのだから、若いのだろう、とは思う。


 厨房で働くカズ君はいつも青いエプロンに半袖のTシャツだ。


 キャベツの千切りなんて、びっくりするくらい早い。肉の塊も、あっというまに小さくなる。


 その度に腕の筋肉が綺麗に動く。コーヒー牛乳を持ったまま、思わず、見惚れる。


 

「由佳ちゃん、口、開いてるよ」



 高い声がして振り向くと、美月みづきちゃんが立っていた。


 

「あ、おかえり」


「ただいまー」



 美月ちゃんはおもむろに保冷器を開けて、中からお茶のペットボトルを取り出すとコクコクと小さな咽を動かして美味しそうにそれを飲んだ。


 美月ちゃんがここからコーヒー牛乳を取り出したところを見たことがない。いつも、お茶だ。なかなか渋い子だ。



「今日学校でさー、リョウくんに告られてさー」


「告られた?」


「うん、好きなんだけど、だって」


「へえ」


「面倒くさいんだよねー」


「…へえ」



 美月ちゃんは、ヨウコさんの娘さんだ。小学校五年生で、まだ赤いランドセルを背負った子供だ。しっとりとした肩までの癖のない黒髪は、まだ何にも手を加えていない瑞々しさで溢れている。


 

「由佳ちゃんさ、いつも見てるよね、カズくんのこと」


「へ?」


「ぼうっと見てるよ、あたしが帰ってくるといっつも」



 にきびもなんにもないつるつるの顔に、からかうような笑顔が浮かんでいる。ぱつんと切りそろえられた前髪の下の目がくるくると踊っている。



「カズくん、よーく見ると、あ、よーく見ると、だよ、結構カッコいいもんねー」



 小窓の向こうを覗く美月ちゃんのつま先が立っている。



「カズくんね、彼女いないみたいだよ、由佳ちゃん、立候補してみたら。あたしも目、つけてたんだけどさー、でもすんごい年上でしょー。あたしが大人になるころ、カズくん、もうおじさんだもん」


 

 美月ちゃんは、まるでヨウコさんのようにわたしの返事もまたずにぺらぺらと一人でしゃべっている。ああ、親子なんだなと思いながら、スリムなジーンズに包まれた、ヨウコさんに似た引き締まった尻を眺めた。


 ぴょんぴょんと飛び跳ねる美月ちゃんに気づいた小窓の奥のカズくんがこちらを見た。美月ちゃんがひらひらと手を振って、それに答えるようにカズくんも手を振った。肉を抑えていた左手のひらが、ぴかぴかしている。薄い色の唇の端がきゅっと上がった。


 窓を開けて、背伸びをした美月ちゃんが「カズくん、由佳ちゃんが好きなんだってー」と中に向かって大声を張り上げた。


 わたしはびっくりしてパイプ椅子から腰を浮かせた。


 美月ちゃんを静止しようと口元に手を伸ばすと、「あはは、冗談冗談」とけらけらと笑って、「あたしお菓子買ってくるー」とランドセルを揺らしてカウンターの外に走り去っていった。


 台風みたいな子だ。


 わたしは呆然とその姿を見送って、パイプ椅子に腰掛けた。両手で包んでいたコーヒー牛乳は生ぬるくなっていて、手のひらが汗ばんでいる。


 

「ませた子だろ」



 今度は直ぐ傍でする声に驚いた。「うわっ」とまた腰を浮かせると、小窓からカズくんが顔を出していた。真横になりながら、くすくすと笑っている。


 ぼっ、と自分の顔が赤くなるのが分かった。意識していないのに、美月ちゃんの言葉を思い出して焦った。


 

「俺がここで働き始めたころから、ああなんだよ、美月ちゃん。最近の小学生って、すごいのな。電車に乗ってても笑えるぞ、芸能人の否定話なんて、テレビとか雑誌なんかよりすごいからな」



 くくくと笑う目と視線がぶつかる。わたしは口をぱくぱくと動かして、今の美月ちゃんの言葉を否定しようと必死だった。



「好きなの?」



 笑いながらカズくんが言った。美月ちゃんみたいな、悪戯っぽい目だ。



「は、いや、違くて、美月ちゃんが勝手に」


「分かってるって」


「は…」


「あんた、入ったときからよそよそしいもんな、苦手なんだろ、俺のこと」



 片手を窓枠にかけて、まだ真横になったままわたしを見るカズくんに見下ろされて、わたしは口を半開きにさせたまま固まった。



「よく怖いって言われるからな。別に脅してるわけじゃねーんだけど」


「…そうじゃなくて」


「目つきが悪いからかな」


「いや、そうじゃなくて」


「そうじゃなくて?」


「あたしが、苦手なんです」



 カズくんは、は? という顔で私を見ている。



「ぶ。やっぱり苦手なんじゃん、俺のこと」


「あ、そういう意味じゃなくて、その、男の人が、苦手で」


「あ? そなの?」


「そうなんです」



 わたしはうつむいた。瓶を持つ手は、さっきよりも汗ばんでいた。


 

「ただいまー。あれ、なんだい、若いもん二人で。お邪魔かしら。深刻そうだね」



 ヨウコさんが配達から帰ってきた。


 小窓で横になるカズくんの顔と、パイプ椅子でうつむくわたしの様子を見てなにか勘違いしたのか、ちょっと声が低かった。けれど、表情は興味津々といった感じで、楽しそうだ。


 

「いいねー、若いって。うん、いい、いい」



 面白そうにそう言うと、「カズくん、あんまり由佳ちゃんをからかうんじゃないよ」とにやにやと笑ってどこかへ電話をかけ始めた。



「あ、あたしだけどね、今日のダンス教室にさ、娘もつれて行こうかと思ってるんだけど平気かね、いやね、カッコいいお兄ちゃんがいるんだって話したらさ、あの子興味持っちゃってね。え? そうなんだよ、参ったね、ませガキで。あはは。友達もつれていきたいっていうんだけどね……」



 大きな声がカウンターに響く。


 おばちゃん、ダンスもやってたんだ…思いながら尻を見た。どうりで引き締まっているわけだ。


 カズくんのほうを振り向くと、カズくんもおばちゃんの背中を見たまま黙っていた。


 ふと目が合った。どちらからともなく、わたしたちはくすりと笑った。自然にそうなったことに、わたし自身が驚いた。


 怖い人じゃないのかもしれない。初めて会話らしい会話ができたことと、笑うと下がる目じりをまじまじと見たことで、抱えていた緊張も多少ほぐれた。


 美月ちゃんが帰ってきた。ぶら下げたコンビニ袋の中に、ちっちゃくてカラフルなお菓子がいくつも入っている。「あー、なに二人で笑ってんのー」と興味津々だ。


 カウンターの外でランドセルごとぴょんと跳ねる美月ちゃんと、大きな声で電話を続けるヨウコさんの姿を眺めて、わたしとカズくんは、声を出して笑った。


 



  

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