14.じゃあやってみます
次の日は朝から雨だった。
この日ばかりは布団から抜け出して、着替えまでして、敦司の出発前のセリフを聞いた。
わたしがスペアキーを無くしてしまったので、敦司の鍵を預かった。敦司よりも、先に帰って来なきゃならない。
遅くなるな、というところに力を込めて、戸締りを強調して、二回ほど振り向いてから敦司は部屋を出て行った。今日は、細かいストライプの入った青いシャツを着ていた。
敦司から「しばらくこれでもたせろ」と五千円札を受け取ったわたしは、丁寧にそれを折りたたんで、小学生のころに父に買ってもらった赤くて丸いジッパー付きの小銭入れに閉まった。
ポイントでゲットしたトートバッグに、財布と携帯と、一応、昨日買った本も入れて、身支度を整えたところでロールパンをかじる。
テレビをつけて、天気予報を確認する。今日は、全国的に雨らしい。細い日本列島に、傘マークばかりが群がっている。
ロールパンをかじりながら窓の外を見ると、向かいの家の傾いた雨どいから、雨水が勢いよく飛び跳ねていた。
せっかく早起きした朝だというのに、空はどんより澱んでいて、低い。
出かけるのが億劫になってきてため息をついたら、窓が白く丸く、曇った。
天気が悪いと、どうも気分がのらない。
掃除機を持ち出してコードを引き、コンセントまで手を伸ばしたところですっかりやる気を失くした。
こういう日は危ない。やる気どころか何もする気が無くなる。
群青色の長座布団を、部屋の隅に追いやった。寝転がったが最後、一日中そうして過ごすことに成りかねない。
伸ばしたままの腕を強引にコンセントへ運び、掃除機を起動させた。
部屋中を歩き回り、掃除機をかけた。かけ始めると、ついさっきまでのやる気の無さは何だったのだろうと呆れるほど、夢中になった。
やってしまえばそれなりに楽しめるものだ。腰さえ上げれば、なるようになる。
ついでにフローリングを水拭きしてみた。ただでさえ雨で湿気る部屋の湿度はさらに上がった。歩くと、裸足の足に床が吸い付いてきた。
掃除を終えて、コーヒーを飲んで一息ついた。まだやる気のあるうちに、と思ったわたしはトートバッグを肩にかけ、窓の鍵をかけ、玄関へ向かった。
立てかけておいたビニール傘と、水色の自分の傘を手にして外に出る。
扉の外は生ゴミみたいな匂いが立ち込めていて、屋根から落ちる雨水で玄関先にいくつもの水溜りが出来ていた。
雨の匂いが違う。わたしが育ったところは草と土の匂いがした。
黄色いレインコートに身を包み、赤い長靴を履いて、どこからか現れる青蛙を眺めていた。水溜りをつま先で蹴って歩いた。
何でもないそんな行動が、結構楽しかった気がする。
なのにどうして、少しばかり大きくなった今、雨の日は好きじゃないんだろう。
灰色の空と真っ黒になる道路の色と、空気さえも重くなる雨の日の、けれど行き交う人たちのカラフルな傘の群れに感動していたときもあったのに、今じゃうっとうしさでいっぱいだ。
年を重ねるごとに、好きになれないものばかり増えていく気がする。
玄関の鍵をかけて、ドアノブを回して確認して、気になったので砂利道へ移動して窓に手をかけて引いた。
戸締りは完璧だった。傘を肩の上で回して、雨粒を振りまいて、駅までの道を歩いた。
新橋に着くと、雨の勢いは更に増していた。
広場にたまる人は少なくて、傘をさす人たちがうつむき加減で足早に過ぎていく。
SLは大きな身体をびっしょり濡らして照からせて、所在無げに佇んでいた。
いつもの路地を抜けて、弁当屋へむかう。
見えてきた東京タワーが、灰色で低い空を突き刺している。くっきりと見える雨足のなか、朱色の身体は相変わらず悠然とそこに居た。
タワーを眺めながら歩いていると、いつのまにか弁当屋へ折れる道の手前までやってきていた。
緑色ののぼりは、同じ色をした雨避けの下でひかえめに頭を垂れている。
やや上り坂気味の通りの向こうから、雨水がだらだらと下ってくる。
弁当屋の前でゆるくカーブして、わたしのスニーカーにぶつかって、後ろに流れさっていく…を繰り返していた。
雨水に逆らって店先まで移動すると、赤いエプロンのおばちゃん…ヨウコさんはカウンターで電話中だった。
「はい、三つですね。はい、ありがとうございます。ええ、はい」
忙しく、けれど注意深く、メモ帳にボールペンを走らせるおばちゃんの左手に握られた受話器が戻される。
小窓に振り返ったおばちゃんは、「カズくん、これお願い」と大きな声で中の人に呼びかけた。
窓の奥の青いエプロンの人が近づいてきて、メモを確認する手が見えて、小さく「了解」と声がした。
傘に落ちる雨の音でよく聞こえなかったけれど、たぶん、昨日の男の人だろう。顔の見えない青いエプロンが奥に引っ込むと、おばちゃんの赤いエプロンの、大きな胸と気前よく張った腹がこちらを向いた。
「お、また来たね、いらっしゃい」
ぼんやり立っていたわたしに気づいたおばちゃんは、あの笑顔でカウンターに手をのせた。
「こんにちは」
つられたわたしも笑顔で答えた。
「まさか今日も東京タワーかい? 好きだね、あんたも。今日なんて下から見てたらびしゃびしゃになっちまうよ」
「いや、今日は違うんです」
「そう。買い物か、なんか?」
「いや、今日はその、お金と、あとこれ、傘を返しに来たんです」
わたしは言いながら手にしていたビニール傘を差し出して見せた。トートバッグにぶら下げてきたビニール傘は、全体的に濡れていた。
「お金? 傘?」
おばちゃんは小首をかしげた。顎の肉が、軽く二段になっている。
「あの、昨日借りたんです。夜に。ここに来て。その、青いエプロンの男の人に」
「借りた? 青いエプロン?」
「はい。たぶん、今奥にいる、あの青いエプロンの男の人に」
「カズくんに?」
「カズくん…なのかどうか、わかんないんですけど、たぶん、その人に」
わたしは店先に立ったまま、昨日の出来事をぽつぽつとおばちゃんに話した。
雨の勢いは治まらなくて、話している自分の声さえ聞き取りにくい。
だんだんとつま先が冷たくなってきて、寒くなってきて、くしゃみが出た。
気をきかせてくれたおばちゃんが、カウンターのなかに入れてくれた。丸いパイプ椅子を差し出され、それに腰かけた。
話の途中でまた電話が入り、おばちゃんとの会話が途切れた。椅子に座った分、低くなった目線の先におばちゃんの尻がある。丸いけれど意外にも引き締まった尻に驚いた。
手持ち無沙汰から小窓に視線を移すと、青いエプロンの男の人が見えた。やっぱり昨日の人だ。まな板に肉のかたまりをのせて、適度な大きさに切り分けている。
黒い半袖から伸びた腕が、包丁を動かすたびに、筋張ったり緩んだりしている。
切れ長の目がついた横顔は真剣で、清閑だった。鍋から上がる湯気が時々その横顔を隠す。
ぼうっと眺めていると、横から肩をたたかれて、びくんと背筋が伸びた。
「いい男だろ」
おばちゃんはにやにやしながらわたしを見ていた。
男の人は、宮瀬一弥という名前らしい。
一応社員という形をとって雇って、もう三年が過ぎるという。わたしよりも三つ年上だった。ずっと厨房に立って何百何千という弁当を排出してきたんだ、と大袈裟に語るおばちゃんは、妙に誇らしげにカズくんを褒めちぎっていた。
へえ、とか、ほう、とか、短い返事をしながら、いつのまにかわたしの話からおばちゃんの話に切り替わっていた会話に飽きてくるころ、突然おばちゃんに顔を覗き込まれた。
「ところであんた、今なにか仕事してるの?」
至近距離のおばちゃんの顔にびっくりして、少しのけぞりながら「いえ。探してるんですけど」と呟いたら、おばちゃんは更に続けた。
「じゃあさ、うちでバイトしないかい? 若いんだから何もしてないなんて勿体ないだろ。先週一人辞めちまってね、ちょうどバイト募集しようかと思ってたところだったんだよ」
言いながらカウンターの下の棚に手を伸ばしたおばちゃんは、手書きのバイト募集のぺらぺらの黄色い紙を取り出した。
「これ、そこの壁に貼ろうと思ってたら電話が入ってね」
「はあ」
「あたしとカズくんと二人でしばらくやってみたけどやっぱり昼時なんかは手が回らないんだよ。配達だって入るだろ? 店番も必要だしやっぱりもう一人欲しいところなんだわ」
「はあ」
「ね。試しにやってみないかい? 難しいもんでもないし、すぐに慣れるさ」
肩に手をのせられた。軽い感じだったけれど、おばちゃんの重みでずんと肩が沈んだ。
おばちゃんの顔には、ほうれい線とえくぼがくっきりと食い込んでいる。ああ、やっぱり感じのいい笑顔だ、そう思って赤いエプロンの胸と腹を見た。ああ、やっぱり大きそうな人だ、そう感じて「じゃあやってみます」と頷いた。
おばちゃんの話は唐突で、自分の返事も早すぎるだろうと思ったけれど、断る理由なんてなかったのだ。面接の手間も緊張も省けるし、この東京で、顔を知ったおばちゃんのところで働けるなら、逆にありがたい。
良かった良かったと手を合わせるヨウコさんは、うんうん唸っている保冷器から瓶入りのコーヒー牛乳を取り出して、わたしにくれた。
また、電話が入った。「幕の内二個ね、いつもありがとね」ヨウコさんの引き締まった尻を見ながらコーヒー牛乳を飲んだ。給食の味を思い出した。コーヒー牛乳がここにある意味が、少し分かった気がした。
カウンターの外ではまだだらだらと雨が降り続いている。
電話を終えて振り返ったおばちゃんが開けた小窓から、ご飯の炊ける、いい匂いが流れてきて、雨の匂いを消し去った。
「カズくん、これ、お願いね。あと今日は木曜だからあの人来るかもね。マーボー用の豆腐、仕込んでおいたほうがいいかもね」
カズくんが振り向いてこちらに歩いてくる。
目が合った。お、という顔をしている。
コーヒー牛乳を持つ手に力が入った。
ぺこりと頭を下げてみたけれど、なんだかすごく、緊張していた。