13.わかんねーんだろうな
中野に着いたときには七時を過ぎていて、雨も、男の人が言ったとおり本降りになっていた。
ビニール傘に落ちてくる雨の音が、耳元でばらばらばらと不安定なリズムを刻んでいる。
風は大したことなくて、雨だけが真っ直ぐに空から降ってくるので、傘にバウンドした雨粒は、地面に素直に落ちていった。足元に跳ね返るけれど、全身に当たる量としては、少なかった。
八時まで営業のスーパーに駆け込んで、乾燥ひじきを買った。
洗濯物のことが気になっていたので、必然的に敦司の顔が浮かんで、ひじきのことも忘れずにすんだ。お金も、千円札のおつりがあったので、足りた。
男の人の青いエプロンを思い浮かべながら清算するレジで、他に忘れ物は無かっただろうかとぼんやり考えた。
ぼうっとしていたのでそのまま雨の中に出てしまい、「あ、傘」と、濡れてから気がついた。わたしは、少し前のことから忘れていくらしい。
サンプラザ前の広場にはさすがに人の気配は無くて、けれど相変わらずバスの匂いが漂っていた。雨に濡れた、シートっぽい匂いだ。
洗濯物、洗濯物、頭の中で繰り返しながら急いでアパートに戻った。
「あ」
玄関の前に立って気がついた。鍵が、無い。
鞄の中に入れていたのだ。
「嘘でしょ」
何なのだろう、今日は。
終日晴れると思っていた天気には裏切られ、鞄を取られ、人に金を借り、頭を打ち付けて、濡れて、部屋にまで入れない。
「はあ…」
洗濯物が気になったので、傘をさし直して、窓のある砂利道に出た。
びしょ濡れになった服たちが、泣いてるみたいにぶら下がっている。
手を伸ばして、敦司のグレーのシャツの袖を掴んだ。腕の手ごたえがないと、当たり前だがただのシャツだ。着る人がいないと、ぱっとしない。濡れているから余計に頼りなく見えた。
敦司が帰ってくるまで、まだ二時間以上ある。
シャツの袖を掴んだまま雨の中で立ち尽くした。ビニール傘に当たる雨の音は、さっきと変わらずばらばらばらと不安定に鳴っている。
とりあえず玄関先まで洗濯物を移動しようと竿に手を伸ばしたときに、もしかして…と気づいた。
窓枠に手をかけて、恐る恐る引いてみた。
「あ。開いた」
からからと、か弱い音を立てて窓が開いた。鍵を、かけていなかったのだ。
自分の忘れっぽさに、このときばかりは感謝した。声には出さなかったけれど、心の底から喜んだ。
きょろきょろと周りを見渡して、柵に手をかけた。もう一度振り返って、誰も見ていないか確認した。人影はない。錆びた茶色の柵は体重をかけると少しきしんで、きいっと音を上げたけれど、構わずに急いでまたいで乗り越えた。
靴のまま上がりこんだ部屋のフローリングがきゅっと音を立てた。靴を脱ぎ、部屋の電気をつける。
洗濯物を取り込みながら、誰も見ていなかったか確認した。前の家の側溝に光る点が見えてぎょっとした。目を凝らすと猫がいた。朝の、白猫だ。両手を揃えて、わたしを見ていた。脅かすなよ、と舌打ちして窓を閉めた。
傘とスニーカーを玄関に運び、洗濯物を洗いなおした。洗っている最中で気がついて、乾燥ひじきを水に浸しておいた。
洗いあがった洗濯物をカーテンレールに引っ掛けて、ほうっと息を吐く。
完全に疲れきっていて、群青色の長座布団に腰掛けると、一気に力が抜けた。
そのまま寝転がって天井を眺める。壁掛けの時計を見ると十時少し前だった。
弁当屋での出来事を思い浮かべた。
態度のでかい、青いエプロンの男の人。けれど意外に気がきいて、傘まで貸してくれた。
千円札は、どこから出てきたものなんだろう。まさか店のお金を出すわけもないし、あの人の財布から出たものなんだろうか。
くくく、と笑う顔を思い出して、また少し腹が立った。けれどすぐにふんわりと垂れた前髪を思い出して、治まった。
敦司とは対照的な、やわらかそうな茶色い髪の毛。切れ長の腫れぼったいまぶた。
優しいのか優しくないのかよく分からないあの応対。
お金、返さなきゃな、と思って寝返りを打とうとしたときに、玄関から鍵の音が聞こえた。
「ただいまー」
間延びした、敦司の少し高い声がする。
わたしは身体を起こして、正座をして、敦司を出迎えた。
「おかえり」
「ただいま。何だよ、正座なんかして」
敦司のベージュのシャツは、両腕の部分がぽちぽちと濡れていた。真っ直ぐな黒髪は、しっとりしている。
「水もしたたるイイ男」
「は?」
思ったままを口にしたら、敦司は、何言ってんだこいつ、といういつもの顔をして、鞄を下ろして流しに消えた。
「お、由佳、ちゃんとひじき戻しておいたんだ」
嬉しそうな声を出して、かちゃかちゃと何かやっている。
わたしは小さく「うん」と言って、正座していた足を崩した。
テレビをつけて、テーブルに頬杖をついて、敦司のかちゃかちゃが鳴り止むまでそうしていた。
流れていたのは洋画で、途中からだったから状況がわからなくて、ただぼんやりと見ていた。見ながら、別のことを考えていた。なんて言おうか、困っていた。
狭い六畳部屋に、いい匂いが充満し始めた。甘じょっぱい感じの、腹をくすぐる懐かしい感じの匂いだ。
「由佳、飯食ったの?」
匂いの先から敦司の声がした。「まだ」と言うと敦司がやってきて、テーブルの上にこつんと皿が置かれた。ほやほやの、ひじきが入っていた。きゅうっと腹が鳴った。
「ほれ。自信作」
「美味そう」
「飯も食わないで何してたんだ、お前」
「…洗濯」
「洗濯? 洗濯なんて一日中やってないだろが。飯、食うなら運べ。俺も腹へった」
敦司のベージュのシャツはすっかり乾いていた。
後ろ姿を見送ってから、わたしも立ち上がる。
即席のインスタント味噌汁を入れて、冷蔵していたご飯をチンして…を敦司がすでに終えていたのでそれをテーブルに運んだ。敦司は、フライパンで茄子を焼いていた。生姜のいい匂いがした。
二人で向かい合って遅い夕飯を食べた。
敦司の作る料理はいつも美味い。ひじきは初めて食べたけれど、これもびっくりするくらい美味かった。父とたまに食べた、スーパーのお惣菜なんかよりもずっと美味かった。
ニュース番組を見ながら味噌汁をすする敦司の横顔を何度かちらちら見た。
味噌汁をすすりながら、まだ口の中にはご飯がいっぱい詰まってるらしく、ほっぺたが膨らんでいる。
わたしの茶碗にはまだ半分以上ご飯が残っているけれど、敦司はもう、全部食べていた。
右の口元に、ご飯粒がくっついている。
そんな姿を、少し可愛いと思ってしまうわたしは何なんだろう。ちょっとだけ、和む。
お小言を言わなきゃ完璧なのに、そんなことを思いながらテレビを見ている敦司を眺めていたけれど、気象予報士が明日は雨でしょうと言ったところでふと我に返った。雨で思い出した。傘、そしてお金、返しに行かなきゃならない。
敦司の頬がへこむのを見計らってから、おずおずと声を出した。
「敦司、あのさ」
「んん?」
「お小遣い、千円…いや、二千円くらい、貰えるかな」
「二千円?」
敦司の大きな黒い目がこちらを向いて、ぴくりと眉が動いた。
ああ、来るな、とわたしはいつものように身構えた。
「別にいいけど、何で?」
「使っちゃったから」
「ペース早くね?」
「先週、東京タワーに二回…えと、今日も行ったから。弁当も買ったし。あと本も」
「また行ったの? 好きだなお前も」
眉はつり上がったけれど、なんだそんなことかみたいな感じで、敦司はテレビに目を戻した。口元にまだ、ご飯粒がくっついている。
「あと、もう一個あるんだけど」
「もう一個? 何?」
「鍵なんだけど」
「鍵?」と言って敦司はわたしを見た。雲行きが、怪しくなってきた。
「無くしました」
「は?」
「部屋の鍵ね、無くしちゃったの。ごめん」
「無くしたって……じゃ、どうやって入ったんだよ、ここに」
「窓から、入った」
「はあ? 窓から? 何だよそれ……」
言って敦司はカーテンレールに下がった洗濯物を見た。やけにしんなりして、洗い立て感がありありと残っていることに気づいたのだろう、その後、敦司の尋問が始まった。
結局、わたしは今日の出来事をすっかり全部話すはめになった。
話している間、敦司の顔はまた、おじさんみたいになっていた。
わたしは怒られながらも、敦司の口元のご飯粒が気になってそこばかりを見ていた。
「ちゃんとお礼言ってこいよ。しかし何でお前は…」
ふうっと息をついて、敦司が顔をぬぐうと、ご飯粒がぽとりとテーブルに落ちた。
「あれ」
「やっと落ちた」
「由佳、気づいてたの?」
「気づいてるもなにも、ずっとついてるんだもん、分かるでしょ」
「だったら言えよ。っていうか、ちゃんと話聞いてた?」
「聞いてました。すみません」
何だかおかしくて、わたしは笑ってしまった。そんなわたしを、敦司は頬杖をついて眺めている。呆れているというか、呆けているというか、どちらかと言えば感心しているに近い顔だ。
「由佳」
「ん?」
「ホントに気をつけろよ」
「ん? うん」
妙に落ち着いた口調だった。いつもより、声のトーンが低かった。
わたしが食べ終わるのを待って、敦司はテーブルの上を片付け始めた。わたしも手伝った。
敦司が洗い物をしている間、わたしはお風呂のお湯を張った。
洗濯物のところに行って触ってみたけれど、敦司のシャツもわたしの靴下も、まだしっとりしていた。
窓際の空気はそこだけがじっとりしている。
カーテン越しに外の雨音が聞こえていた。少しカーテンを引いて、外を見た。窓を、いくつもの雨粒が伝って、落ちていく。
部屋の明かりが砂利道に差して、前の家の側溝まで届いている。白猫はどこかに帰ったらしく、いなかった。
敦司のシャツをピンチからはずしてハンガーにかけた。メタルラックの端に吊るして、ぱんぱんと叩いて皺を伸ばした。
ちょっといい事をした気分になって、流しに立つ敦司の隣に行って、鼻歌を歌いながら敦司の洗った皿を拭いた。
斜め上で、ぼそぼそと敦司が何か言っている感じがしたので鼻歌を止めて、見上げた。
ベージュのシャツの、ボタンの上の敦司の顔についた黒い目とぶつかった。しばらく見つめ合った形になっていたけれど、敦司は何も言わなかった。
きちんとたたまれた棚の上の白いタオルを手にとった敦司は、ゆっくりと手を拭いて、「わかんねーんだろうな」と呟いた。