12.霧雨は避けにくい
「はい?」
泡だらけのスポンジを持ったままの手で窓を引いて、身体を屈めて顔を覗かせたのは、男の人だった。
背が高いんだろう。窓枠の向こうで、顔が真横になっている。
円形の水色の帽子の下に、切れ長だけれど腫れぼったい感じの目が見えた。
蛍光灯のせいだろうか、顔色が悪く見えて、そして少し、怖そうな感じがした。
「弁当? もう終わったよ。悪いけど」
男の人は、窮屈そうに窓枠に納まりながら、構えて立っているわたしに面倒そうに言った。
それだけを言うと身体を起こして、また泡だらけの手で窓を閉めそうになったので、わたしは慌てて身を乗り出した。
「あの! 違うんです」
半分叫んでそう言うと、閉まりかけた窓が再び開いた。自分の声にびっくりした。男の人が顔を見せて、さっきみたいに真横になっている。
窓枠を、洗剤の泡がゆっくり滑り落ちていく。
男の人は、わたしをほんの気持ち見たけれど、窓枠を伝う泡に視線が移って、その泡が下にたどり着くまでゆっくりと目で追ってから後ろを振り返った。
布巾を取り出したと思ったらしゃわしゃわと泡をぬぐって、なぜか、窓を閉めて姿を消してしまった。
「あ」
あからさまに無視されたと思った。唖然として窓の向こうを眺めた。
そのまま立ち尽くしていたら、しばらくして窓の左側にある扉が開いて、男の人がふらりと出てきた。
手の泡は無くなっていて、代わりに白いタオルが握られている。
丸まったタオルで手を拭いていた男の人は、それをふぁさりと肩に掛けて、カウンターに手をついて「なに?」という顔をした。腫れぼったいまぶたが、くっと持ち上がっている。
店の人なんだろうか。帽子を被ってエプロンをしているし、きっとそうなんだろう。なのにこの威圧的な態度は何なんだろうと思いながら、わたしは少し、後ずさりした。
のけぞって、ビニール袋をきつく握り締めた。なのに手から本が滑り落ちて、赤いマットの足元にぼそりと落ちた。
慌ててしゃがんで本を拾って、急いで腰を浮かせたらカウンターに頭を打ち付けた。焦りで勢いづいていた。ごん、と鈍い音が店先に響いた。
「あててて」
後頭部を摩ると、髪にはまだ寝癖がついて盛り上がっていて、奥のほうが、じんじんと痛かった。
「ぶっ」
目の前で、男の人が吹き出した。
切れ長の目じりが下がっている。笑う顔を見ると、さほど怖い感じもしなかった。
青白く見えていた顔はなんてこと無い普通の肌色で、唇の色だけが少し、薄い。
わたしと敦司より、少しだけ年上って感じだ。落ち着いて見えるけれど、笑う顔を見ると少年っぽい。同世代に感じる独特の匂いみたいなものがする。
ずんずんと頭が痛んだ。ぶつけたところを指で押すと、首筋にじんと響いた。
恥ずかしくて情けなくて痛くて、わたしは頭を抱えたままうつむいていたけれど、くくくと、男の人があまりにも長く笑うので、なんだか頭にきた。
「あの」
声を強くして、上目遣いでにらんでみせた。かなり、勇気が要った。
「大丈夫?」
男の人は目じりに涙を溜めたまま、そんなわたしを無視して拳を口に当てて笑っている。ひとしきり笑って、肩にかけたタオルの端で顔全体を軽くぬぐってから、男の人は被っていた帽子を無造作に脱いだ。
帽子で癖のついた前髪がふんわりとおでこに垂れて、表情がぐっとやわらかくなった。
どきり、とした。
上半身を引いて、わたしは構えた。
「弁当じゃないなら、何?」
低い声だ。こもっていて、聞き取りにくい。
さっきまで全然興味無さ気だったくせに、急に珍しいものを見るような目つきでわたしを見始めた。涙が、目の端に残っている。
「おばさん、いますか」
「は?」
「おばさん、あの、赤いエプロンの」
「赤いエプロン? ああ、ヨウコさん?」
「ヨウコさん?」
「違うの?」
切れ長の目が、少し大きくなって、わたしをじっと見ている。
「いや、名前、知らなくて。その、赤いエプロンの、こう、太った、おばさんです」
「やっぱりヨウコさんだろ。何? ヨウコさんになんか用?」
「あの、ちょっと、お話が」
「話?」
「はい、話」
「今、居ないよ」
「え?」
男の人は、不思議そうに首をかしげている。どうしてわたしみたいな若い女が、おばちゃんに用があるんだろう…って顔つきをしている。
「ヨウコさんに何の用? 弁当の予約? なら俺が変わりに聞いとくけど」
「あの、お金が無くて」
「は?」
「いや、その、うたた寝をしてたら、持っていかれちゃって。鞄。その中に全財産が入ってて、お金が無いんです、今」
わたしの話に、男の人はますます首をかしげた。眉間に皺がよっている。
「それで?」
「それで…その、おばちゃんにお願いして、お金を貸してもらおうかと思って、来たんです。帰りの電車賃がないんです」
語尾は殆んど切れかけていた。
男の人はカウンターに手をつけたままじっとわたしを見ているので、なんだか怒られてる子供みたいな気分になっていた。
幼稚園のころの裕子先生みたいに相手が女の人ならいいけれど、目の前にいるのは男の人だ。尖らせていた唇も、萎えた。
「ヨウコさん、しばらく帰ってこないと思うよ」
「え?」
「今夜は友達とカラオケ教室だから」
「カラオケ教室」
「そ。終わったら絶対飲んでくるし、遅くなるよ」
言って、男の人はようやく身体を起こした。
もう一度前髪をかきあげて、首を回している。わたしの首みたいに、ぽきぽきなんて音は聞こえなかった。
「そうですか」
おばちゃん…ヨウコさんを待っていたら、ひょっとしたら夜中になるかもしれない。
待ってるうちに敦司から電話が入って、結局は迎えに来てもらうことになるだろう。
立っている赤いマットの上の、自分のスニーカーを見つめて落ち込んだ。自然とため息が漏れる。せっかく勇気を出して来たのに、拍子抜けした気分だった。
「どっから来たの」
男の人の声に反応して顔を上げる。エプロンのポケットに両手を突っ込んだ男の人は、左足を前に出して休めのポーズをとっていた。
「東京タワーです」
「は? 家だよ、家。場所、どこ?」
「あ、中野、です」
「ふーん。歩いては、帰れないよな」
「…はい」
「ちょっと待ってな」
そう言って出てきた扉から中に戻ってしまった。
言われたとおりちょっとだけ待っていると、戻ってきた男の人はカウンターにぽんと手を置いて、離した。離したカウンターの上に、皺だらけの千円札がのっていた。
「足りるだろ」
わたしはカウンターにのった皺だらけの千円札に少し身を乗り出して、見つめた。それから男の人を見て、また千円札に視線を移して「あの」と言った。
「とりあえずそれで帰りな」
「え?」
「傘、持ってんの?」
「へ?」
「傘。雨、降ってきたけど」
男の人は、わたしの後ろを顎でしゃくった。
振り返ると、細かい霧みたいな煙った雨が狭い通りを覆っていた。
道路と電柱はまだら模様になっていて、風に運ばれなくてもアスファルトとオイルの匂いはもう、この街にたどり着いていた。
真っ暗だった。夜はいつのまにかやって来ていて、二メートル先の街灯がちかちかと眠そうに点滅を繰り返している。
そのまま向かいのビルを見上げると、東京タワーの頭が見えた。明かりがついている。暗い空にそれだけが赤く滲んでいて、静止した金魚みたいだ。
「本降りになるかもな」
本当にそう思っているのかいないのか、どっちでもいいような口調で男の人は言った。
「そうですね」
タワーのてっぺんを見ながら、わたしもどっちでもいい感じにつぶやいた。
東京の街は雨を交わして歩くことなんて容易い。田舎と違って、屋根代わりになるものが、いっぱいある。
けれど、問題は洗濯物だ。洗い直しは確実だろう。まずいな、と思っていると、後ろでぱたんと扉の閉まる音がした。
振り返ると、男の人の手に傘が握られていた。
「一応持っていったら?」
カウンター越しに渡されたのは透明のビニール傘で、無色だけれど古びていて、茶色っぽく見える。
「じゃ俺、仕事に戻るから」
男の人は、あっさりそう言うと、振り返って扉の向こうに行ってしまった。
え? え? と思っているうちに、窓枠に青いエプロンが納まった。顔がまた、見えなくなった。
とりあえずお礼を、と思って青いエプロンに向かって「ありがとう、ございます」と声をかけると、左手だけが軽く持ち上がって、手のひらが見えた。やっぱり、顔は見えなかった。
手にした傘は、ただの棒みたいに固まっている。
窓枠の向こうに目を凝らしたけれど、男の人がわたしの相手をする様子はもうなかった。ありがとうございます、もう一度つぶやいた。小声は、湿った空気に溶けるだけだった。
小刻みに動く青いエプロンをちらちらと見ながら、カウンターの上の千円札をかさりと握って、尻ポケットの中に、そそそとしまった。
割り箸の飛び出したビニール袋は、店先にあるゴミ箱に、そっと捨てた。
何だか、一連の動きがこそこそしてしまった。
ビニール傘と本を抱えて、大通りまで小走りで出た。
霧雨が顔に張り付いた。
棒みたいなビニール傘は、ひだ同士がしっかりとくっついていて、開くのに手こずった。
ばりばりばりと音を立ててようやく開いた傘を肩にのせて、身体の力を抜いて、駅までの道をゆっくり歩く。
雨の中で、ビルの明かりと信号と、ヘッドライトの明かりと街灯の明かりが、入り混じって揺れている。
晴れの日よりもずっと眩しくて、目を閉じながら深呼吸をした。
まとまった、塊みたいな空気が肺に流れ込んだ。水槽の中みたいだ。エラ呼吸ってどんなだろう、と思った。
まだ、どきどきしていた。
横断歩道で立ち止まり後ろを振り返ると、傘に、東京タワーが透けている。
雨に濡れたビニール越しのその姿は、ぼんやり滲んで、さっきよりも大きな金魚になっていた。
抱えた本が落ちないように、濡れないように、わたしは傘の中で身を縮めて、ひっそりと歩いた。
霧雨は、大粒の雨よりも避けるのが大変だ。
駅についたころには全身がしっとりとしていた。
やっぱり濡れるんだな、と思って、傘があってよかったとしみじみ感じながら、やわらかくなったビニール傘を閉じた。
雨の匂いが、そこらじゅうに満ちていた。