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11.同じことをやられた

 

 鼻先がくすぐったい。


 葉の擦れる、さわさわという音が聞こえていた。


 顔に手をやると、サイドの髪が束になって被さっていた。


 髪を払って手のひらをぎゅっと握り締めると、ぽきぽきと音がなった。少し、むくんでいた。


 急に強い風が下から上に舞って、わたしの髪をぐしゃぐしゃにして、葉を掻き分けて、道路のほうへ逃げていった。


 顔に髪を貼り付けたまま、ぼんやりと上空に目を凝らすと、夕日に照らされた丸い雲がひとつオレンジ色に染まっていて、薄紫色の空にぽつんと寂しげに浮かんでいた。


 ん? と思って首を傾けると、父の姿はなかった。ああ夢か、と納得して身体を起こす。


 春とはいえ、何もかけずに眠り込んでしまうと、さすがに寒い。


 両腕で冷えた身体をさすると、いろんなところからぽきぽきと音がなった。


 わたしの身体は、なまりすぎている。


 東京タワーは、まだ点灯していなかった。変わらずに前方をじっと見据えている。朱色は少し、くすんでいた。


 携帯を取り出して時間を見ると、五時を過ぎていた。


 留守電が入っている。二件だ。


 むくんだ指先でボタンを押し、耳に運ぶと、肩甲骨あたりが痛かった。首筋も張っている。肩までこったらしい。



『――ピー……「あ、俺。布団、ちゃんと干したか? 取り込んだか? あと皿。洗った? 出かけてもいいけど、遅くなるなよ。今学校終わったから、これからバイト。洗濯物も取り込めよ。夜、雨になるみたいだからな。じゃ」――ピー…』

 


 敦司だった。やっぱり、マメな男だ。


 二件目を聞こうとして思い出した。


 そういえば洗濯物は出しっぱなしだった。


 空を見上げる。雨の降る様子は伺えない。まあ、大丈夫だろうと次のメッセージを確認する。



『――ピー……「忘れてた。もう一個。ひじき、乾燥ひじき、ちゃんと買っとけよ。できたら戻しといて。水に付けとけばいいから。じゃーな」――ピー…』



 敦司は、頭の休まることってあるんだろうかと思ってしまう。


 常に、いろんなことを覚えている。過去のことまで抱えて、先のことまで気にかけている。


 それが普通なのだろうか。そうだとしたら、どうしてわたしには、その能力がないんだろう。数時間前に干した洗濯物のことさえ、すぐに忘れてしまう。


 自分で自分に呆れる。そして敦司を、少し、頼もしいと思ってしまう。


 しかしマメすぎるのもどうかと思う。


 敦司からの留守電は、いつも大体、二件、納まっている。


 わたしは滅多に携帯を使うことがない。時計代わりに使っているようなものだ。


 なので、電話に気づかないことが多い。気づいたときには、留守電が入っている。


 といってもわたしの知り合いなど父か敦司しかいないので、納まっている声といえば、ほとんど敦司のものだ。


 父は、わたしがこっちに出てきてから、まだ一回しか電話を寄越していない。話下手なのだ。わたしも、父も。


 

 道路を走る車のヘッドライトがちらちらと点き始めた。


 木々の間を、相変わらず忙しそうに走り去っていく。


 枕にしていた本の表紙は、真ん中が少し窪んでいる。鞄にしまおうと手に取り、裏表紙の砂を払った。


 

「あれ?」



 ベンチの上に視線を這わせる。


 無い。


 座ったまま腰を屈めて、ベンチの下を覗き込む。


 無かった。


 

「あれあれあれあれ」



 立ち上がって周りを見渡した。後ろの側溝、前の土手、隣の水道の陰。


 

「ない、ないないない、ない」



 肩掛けの鞄が消えていた。


 どこを見渡してもみつからない。在るのは、のり弁の空き容器が入ったビニール袋だけだった。


 ここに座ったときに、肩から外した。たぶん。そして、どこに置いただろう。足元だっただろうか。尻の下だっただろうか。いや、尻の下なら、潰れることはあっても無くなることはないはずだ。


 東京タワーと弁当に、気を取られていた。鞄のことなど、何も考えていなかった。


 洗濯物どころの話ではない。わたしは、自分で身につけていた鞄のことさえ、すっかり忘れている。


 注意力がなさ過ぎる。あの猫でさえ、次に取る行動がわかっているのに。


 

「最悪」



 誰かに、持っていかれたのだろうか。


 この辺は、散歩のおじいさんくらいしか通らなかったはずなのに。


 散歩する犬がくわえていったのかもしれないなんて思ってみて、いや、犬が持っていくとすれば弁当の空容器のほうだろうなんて考えて、馬鹿馬鹿しくて、ため息が出た。


 でも確かに無いのだ。わたしでなければ、誰かが持って行ってしまったと思うしか、ない。


 自分が歌舞伎町でやったことと、同じことをやられたのだ。



「どうしよう」



 しばらく途方に暮れた。あの中に、崩した一万円札のおつりが全部入っていた。


 頼まれた乾燥ひじき、買って帰れないな、と思ってみた。敦司にまた、お小言を言われる。生徒指導室の、先生みたいなあの格好で。


 けれど問題はそこではなかった。帰ることすら出来ないようだ。尻ポケットをあさってみても、今日に限って小銭のひとつも入っていなかった。



「こっから歩いたら、何時間かかるんだろう」



 言ってみて、唖然とする。そして、途方に暮れた。


 いろいろ帰る方法を考えてみたけれど、結局浮かんでくるのは「どうしよう」しかなくて、ベンチに腰掛けてただ時間だけが過ぎるうちに、空の色が陰り、怪しくなってきた。


 後ろを振り返る。東京タワーは点灯していない。夜はまだ、少し先だ。


 ぽつんと浮かんでいたオレンジ色の雲は消えていて、薄いけれど低い雲が広がり始めていた。



 握り締めていた携帯を見る。


 やっぱり、敦司しかいないだろう。


 開いて名前を表示させ、指をボタンに這わせたけれど、どうしても押せなかった。


 朝、確かに聞いたのだ。「今日やったら、もう知らね」と、敦司は言っていた。


 けれど電話をすれば敦司は、昨日みたいに飛んできてくれるだろう。首筋に汗を光らせて。


 しかし連日だ。そしてバイト中だ。迷惑をかけるのが、さすがに躊躇ためらわれた。



「参ったな」



 言いながら頭をかくと、ボブカットの後頭部の髪が盛り上がっていた。


 ため息をついて足元を見る。木の影も、わたしの影も、無くなっていた。


 ふと、スニーカーの横の、空容器の入ったビニール袋が目に付いた。


 弁当屋の名前の裏に、味噌汁の容器の「わかめ」の文字が写っている。


 おばちゃんの顔が浮かんだ。ほうれい線が深く入った、えくぼのおまけ付きの人の良さそうな笑顔。


 

「行ってみようか」



 ビニール袋を取り上げて、膝の上に置いた。縛ったところから、割り箸が飛び出している。


 迷ったけれど、わたしは立ち上がり、本を小脇に挟んでビニール袋を両手で持って、歩き出した。


 芝公園を後にする。


 さっきとは違う学生たちが、やっぱりロードワークをしていた。


 ダッシュの練習だろうか。ものすごい勢いでこちらに向かって走ってくる。


 日が陰っているので、シルエットがぼやけていて、なんだか怖かった。歩道と車道の境の柵に寄り添って、学生を巧みにかわした。


 道路の交通量は増えていた。塊になった車が、イライラとわたしの傍を過ぎていく。


 学生と車に急かされて、わたしもいつしか小走りになっていた。


 薄紫色だった空は、灰色に変わっている。


 空気がもんやりとしてきた。本当に雨が降るかもしれない。急に心細くなった。


 敦司の顔が浮かんで、それに負けて、携帯をポケットから取り出してボタンを押しかけたけれど、傍で鳴った車のクラクションに驚いて、はっとして、やめた。


 学生たちと離れると、若い人やおじさんたちとすれ違った。昼間とは微妙に違う面子めんつだ。


 ビニール袋を持つ手に力が入った。割り箸は、ますます長く顔を出した。


 走り出したら、小脇に挟んでいた本が黒いアスファルトにばさりと落ちた。


 本より先に進んでしまい、慌てて戻ってしゃがみこみ、拾い上げた。もう一度小脇に挟んだけれど、安定しないのでビニール袋と一緒に抱え込み、立ち上がった。


 小道に逸れる。


 弁当屋の明かりが、薄暗くなった狭い通りを照らしていた。緑色ののぼりは、片付けられていた。


 少し進んで、緊張してきて、足が止まった。



「どうしよう」



 どうしよう、どうしよう。


 思いついて来たのはいいけれど、そんなことしていいのだろうか。


 客として通っているだけで、しかもまだ四回しか弁当を買っていないのに、言えるだろうか。


 わたしは、おばちゃんに金を借りようとしていた。


 大きな胸と、気前よく張った腹と、感じのいい笑顔。事情を話せば、きっと貸してくれるだろう。


 そう思ったのだけれど、なかなか前に進めなかった。


 緊張する。汗で湿った手のひらがビニール袋に張り付いて、梅雨どきのテーブルの上を撫でたときみたいになっていた。


 ぼわりと強い風が吹いて、どこか遠くの方から運ばれてきた、雨の匂いがした。


 アスファルトとオイルの匂いが強い、手のひらと同じように湿った風だ。


 意を決して、右足を踏み出した。


 明かりの前に立つと、シャッターが四分の一ほど下りていた。


 店先に、おばちゃんの姿はなかった。何だか、しんとしている。


 背伸びをして、後ろの壁に付けられた窓から奥の方を覗き込んだ。半分開いている。


 青いエプロンの誰かが動いているのがわかった。


 窓は低い位置にあるので、胸から上が見えなくて、顔がわからなかった。


 よく見ると、胸も腹も出ていない。おばちゃんでは無いのは確かだ。


 しばらくその場でそわそわと身体を動かして、つま先とかかとを上げ下げしながら、動く青いエプロンを見つめて、うじうじしていた。時間を稼いでみても、おばちゃんが現れる気配はなかった。


 よし、よしよしよし、と心で言い聞かせ、おもいっきって青いエプロンに声をかけた。



「あの、すみません」



 思っていた以上に、小声だった。


 緊張で咽が渇いていた。唾を飲み込んで、もう一度呼びかけた。



「あの、すみません」



 窓の向こうの、青いエプロンの人の動きが止まる。


 スポンジを持った手がこちらを向いて、窓のほうに近寄ってきた。


 ほっとしたけれど更に緊張して、その人が窓から顔を出すのまでの僅かな時間、わたしは身を硬くして両肩を上げて、ビニール袋と本を握り締めて、お祈りをしているような格好で、待ち構えた。


 カウンターの脇の保冷器が、うんうんうんうんうなっていた。






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春企画「はじめてのxxx。」

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