1.不夜城とか歌舞伎町の女とか
この作品は「春の小説競作企画 はじめてのxxx。」参加作品です。
無気力気味な女の子の心の成長を軸にしています。
ごゆるりとお読みください。
もう戻ろうと思っていた。
くたくたで、ぐだぐただった。
ダルさがピークに達している足は前に踏み出すのもやっとなのに、すっかり張ってしまったふくらはぎがジーンズの隙間を埋めているから、歩行が余計にままならない。
地面に食い込むような脱力加減。
パン生地を踏みつけて歩いたらこんな感じなんだろうか…などと、こんな状態でもわたしはどうでもいいことを想像してしまう。
昼間おろしたばかりの黒いスニーカーを無理矢理ひっぺ返して靴底を見ると、実際ガムがへばり付いていた。
「はあ……最悪だ」
人の流れも気にせず立ち止まる。
しゃがみ込んでアスファルトにずりずりと靴底を擦り付けると、消しゴムカスみたいに丸まった、こ汚いガムが剥がれ落ちた。
頭の上で誰かの笑い声がする。
顔を上げる気にもなれなかった。
もうすっかり夜だった。
気がついたら歩道は人で溢れかえっていて、すっかり顔を変えた街は、日中のそれとはまるで違っていた。
溢れる人、人、人、靴音と話し声。
このまま寝転がってしまいたいという衝動に駆られて、慌てて頭をふり、立ち上がる。
軽くめまいがする。早く戻りたかった。
「何時間歩いたろう」
ポケットから携帯を取り出して時間を確認すると、八時を過ぎていた。
「あーと、三時からだから、四、五、六、七、八…って、五時間じゃん」
指折りした片手がグーになり、五時間もこうしてさまよっていただけの自分にため息が漏れる。
うつむいて眺めていたガムは、前から来た誰かの靴底に張り付いて、またどこかへ消えていった。
歌舞伎町に来ていた。
上京して初の、職探しのつもりだった。
はじめからまともな仕事を見つける気なんてなかった。
手っ取り早く、とりあえず、ぱぱっとこなせる仕事がどこかに転がってるんではないかと、知りもしないのに昔どこかで聞いた歌詞を思い出して乗り込んできただけだった。
コマ劇場前を過ぎ、メインストリートに戻り、また裏通りに入ってセントラルロードをぶらついて、一丁目周辺で同じことを繰り返しているうちに、何周目かで漠然と「なんか違うかも」と思ったけれど、戻るのも何となくシャクに触った。
コンビニに入り、ペットボトルのお茶を買い、飲みながら歩いて、しらみつぶしに看板を当たった。
「キャバ嬢」のところもあれば「可愛い子に限る」なんていうのもあり、「エステシャン」くらいの遠まわしにもならない表現もあれば「接客係」なんてソフトな書き方をしているものもあった。
ま、大差ないだろう。
そのどれかを探しに来たのだ。
けれど握り締めたペットボトルのお茶がだんだんと減ってくるにつれ、そのどれもが自分には係わりのないもののように思えてきて仕方なかった。
気持ちを立て直し、今度は時給を確認しながらまた歩く。
これも大差はなかった。
どれもこれも、コンビニの「時給750円〜」なんかと比べれば、ぐんと魅力的な報酬額だ。
男に酒を注ぎ、タバコに火をつけて、話を聞いて微笑んで、「すごーい」と言ってタッチして、普通より高い金がもらえるんなら、それでいい。
「飛び込み・日払い可」が欲しかったわたしは、今度はそれを探して、山手線みたいにひらすらぐるぐると歌舞伎町を歩き回った。
なのに収穫はゼロだった。
そのうち気づいたらぽちぽちと電飾看板が光り始めた。
やがてぽちぽちはぎらぎらになり、ピンクやら黄色やらブルーやらに照らされた人の顔が忙しなく通り過ぎるようになっていた。
三三七拍子の調子が外れたようなリズムで光る背の低いビルを見上げると、日中は全然目に入らなかったホストたちの顔写真がずらりと並んでいる。
たいして興味もないけれど、立ち止まって眺めてみた。
皆、一様に上目遣いで、何となく、挑発的だ。
必要以上にライトアップされている写真を一人ひとり確認し、「一番右かな」と品定めしたところできびすを返す。
数メートル先の引っ込んだ入り口の奥にあるピンク看板には、ソープ嬢の笑顔が敷き詰められていた。
立ち止まり、目を擦り、凝視する。
一歩二歩と足を進めたけれど、それ以上前に行くには好奇心より度胸のほうが足りなかった。
(あの女とあの女には勝ったな)
負け惜しみのようなセリフを胸の内で吐くと、何だか一気に疲れてしまって、あくびが出た。
口を開いたまま振り返ると、ニヤニヤした若い男がすぐ傍にいて、文字通り飛び上がったわたしは、慌ててその場を離れた。
あんなのに触れたら腐ってしまうかもしれない。
酔っ払い、学生、黒服、白いスーツ、たまに黄色い派手なスーツ、意味もなくサングラス。
挙句にこの電飾の海。
くたくたで、ぐだぐだだった。
戻りたかった。
けれどこのままでは帰れない気がした。
「だらだらしてないで、ちっとは仕事探してみるくらいしたら?」
敦司に言われてなければ、こんなところになんて来なかった。
不夜城とか、歌舞伎町の女とか、聞きかじりが膨張した想像を抱えて、足が吸盤になるまで歩くことなんてしなかったんだ。
居候の身としては金を持って帰りたかったのだ。少しでも。
ピンク色が身体にまとわり付く。
砂糖に群がるアリのように固まった若い男のグループが、立ち尽くすわたしの肩にぶつかって、大声で笑いながら過ぎていった。
グーになったままのわたしの手のひらは汗ばんでいた。
油の匂いと埃の混じった空気は生ぬるい。
地面に吸い付く足をなんとか持ち上げ、人ごみと電飾から逃れるように、わたしは裏通りへ身体を押し込めた。