記憶の螺旋階段
「な、何だこれは・・・?」
俺の目の前に広がっていたのは、まるで天国と地獄の曲に出てくる階段をそのまま表したかのような、そんな激しい螺旋階段だった。それはサグラダファミリアのその階段に見えて、少し違っていた。それには階段と階段をつなぐ踊り場がきちんと存在し、俺に休憩する場所を与えてくれていたからだ。
そもそも俺はいつこの場所に来たのだろう。気付いたらここにいた、という表現の方が正しいのだが、なぜこんなところにいるのかはこの場にいる俺自身にすらよく分からなかった。
「とにかく、上るしかないのか……」
俺は覚悟を決め、一段一段上り始めた。しかし、年老いてきたこの体ではとてもこんな階段を登れるはずもない。俺はもう50歳も半ば、定年退職も近づいている体なのだ。そう諦めながら階段を上り始めて俺はハッと気付く。
(あれ、上れる……?)
今までなら自宅の二階に上がることすら困難だったこの体であるにもかかわらず、今は何の抵抗もなしにすいすい上れていた。体が疲れる様子も全くない。
「これなら……いける」
俺はそう思い、そのまま階段を上り続けた。もちろん根拠なんてものはあるはずがない。ただ、不思議と不可能という感じはしなかった。その予想はそのまま的中し、俺は疲労する様子もなく最初の踊り場にたどり着いた。俺がそこに辿り着くと、上からスクリーンが下りてきた。
「何だ……?」
それが何かはすぐに分かった。そのスクリーンに映し出されたのは小学校低学年くらいの体格の小さな子供だった。そして、その子が体格の大きな子供にいじめられている。
「これは、俺じゃないか!」
そう、それは間違いなく小さな頃の俺だった。あの頃の俺はあまり体の強い方ではなく、よくああやって同級生にいじめられていたのだ。しかし、これは俺の黒歴史と言っては過言でもないもので、正直思い出したくもない。
「何だってこんなものを見せるんだ全く!」
俺は怒りに身を任せて次の階段を上り始めた。どんどんどんどんと上っていくと、再び次の踊り場に着いた。先ほどと同じように、上からスクリーンが下りてくる。
「今度は何を映す気だ?」
程なくして映像が再び投映された。今度は俺が教壇に立って全員で学級討論をしているのが分かった。どうやらこれは小学校高学年の頃のものらしい。この頃が一番いろいろ頑張っていた時期だ。こんな映像が映るのも俺としては納得というか、むしろ当然と言っても過言ではない。
「また上るとするか」
上機嫌になった俺は、階段を一段飛ばしで駆け上がる。そのまま踊り場にジャンプで着地した。そのままスクリーンが下りてきたのでまた見ると、今度は中学生の頃のものが映った。それも3年生の最後の大会の時のものだ。この時は確か……。
「お前があんなところでミスしたから負けたんだ!」
「お前だって最初のサーブの時に二回連続でミスしやがって!」
やはりそうだった。この時の俺はテニス部に所属していたのだが、一回戦で敗退してペアに八つ当たりしてしまったんだった。本当は明らかに俺のせいだったのだが、それを認めたくなかった俺は自分のミスを棚に上げてペアに文句をつけたんだった。結局そいつとはそのまま話す機会もなく別れたが、一回謝っておきたかった。だが、昔の記憶というのは恐ろしいもので、それ以上の罪悪感はこみ上げては来なかった。
少し落ち込んだ俺が重い足取りのまま次の踊り場に着くと、すでにスクリーンは下りてきていて、次の映像を再生し始めていた。今度の映像は……。
「これは、センター試験か……」
今度は大学受験の時だから、おそらく高校生の時のものだろう。必死に問題を解いているのがよく分かる。だが、俺はここであることを思い出した。
「……やっぱりか」
映像の俺も眼が得ていた通りのことをした。俺の過去をなぞっているのなら、こうなることは分かっていたのだが、それにしても自分で見るのはなかなか気が滅入る。その光景というのはいたって簡単、カンニングである。一題だけ分からない問題があったので隣の人の答えを写したのだ。結果俺は大学にも受かったのだが、その一問のせいなのかと思うと少しやりきれない点がなくもない。それにそんな不正をしなくとも俺はきっと志望校に受かっていたのだ。何故あんなことをしたのだろう。今考えてもよく分からない。それほど必死だったのだろうか。
そんな後悔の念に苛まれながら俺は次の階段を上る。踊り場に映し出された次の映像は大学生の頃のものだった。俺はこの時初恋をして、その女の子に告白して付き合うことになったのだ。結局その女の子は俺と結婚し、今の俺の生涯の伴侶となったのだが、今流れているのはその時の告白シーンだった。
「俺と、付き合って下さい!」
今見るとなんと情けないのだろう。俺は土下座をして彼女に頼み込んでいる。先ほどとは別の意味で必死だったのは間違いない。すると彼女は俺に顔を上げるように言った後、こう言ったのだ。
「私で良かったら、こちらこそお願いします」
何て気恥ずかしいのだろう! この場に人がいなかったからいいようなものの、他の人に見られたら俺はこの先生きてはいけないだろう。
(ん、生きてはいけない……?)
そう考えたとき、一瞬俺の頭に何かがよぎった。だが、一体なぜよぎったのかも分からない。俺はこのまま階段を上り続けることにした。
次の踊り場にはスクリーンがなかった。代わりに机が置いてあり、その上にあったのは何かの書類だった。
「これは確か……」
間違いない、これは俺が会社に入った時に最初に任された仕事の書類だ。しかし、何故これがここにあるのだ?
「あの時この書類は川に落として上司にこっぴどく怒られたはずなのに……」
この書類はどこかでコピーでもとったものであるかのように寸分違わずコピーされていた。これは一体どういうことだろう。あの後の書類は確かサイズがもっと小さくなったはずだから、それのコピーではない。だとするとこれは一体……?
その場でしばらく考えた俺だったが、結局分からなかったので先に進むことにした。最後の踊り場が見えてきているところを見ると、おそらく踊り場はあと二回から三回と言ったところだろう。
今度はスクリーンだった。今の一回しかスクリーンがなかったことはないはずなのに久しぶりだと感じてしまう以上、俺はすっかりスクリーン慣れしてしまったらしい。
「ああ、これは社員旅行か」
今度は社員旅行だった。俺の顔が今より少し若くなった辺りであるところを見ると、これは多分四十代後半の社員旅行だろう。
「あっ、これは!」
その映像を見ていた俺は声を上げる。そうだ、これは俺が部長になって最初の社員旅行だ。そう断言できるのは、そこに映し出されていたある人物が原因だった。
「牧村じゃないか!」
そう、こいつは牧村だ。確か社内で一人ぼっちだったやつだが、何でこいつが映るんだ? これは俺の映像を映してるんじゃ……、
「ああ、そうだ。俺は確かこいつと……」
その正体はすぐ明らかとなった。確か牧村が俺に社内の人間と打ち解ける方法を相談してきたんだった。それで俺は社員旅行で出し物をすることを提案して、二人でどじょうすくいをしたんだった。その出し物は大ウケし、牧村も結局すぐに社員と打ち解けることができた。結局社員同士の誤解が原因だったらしいが、俺にはよく分からないままだったな。とりあえず終わりよければすべてよしだと思ってそれ以上は何も聞かなかったんだった。
「次が……最後か?」
そんなことを考えながら上ると、今度もスクリーンだった。これは……、妻だ。妻とドライブに来たときの……、いや違う!
「これは、これはこないだ取れた休みで来た旅行……あっ!」
そこで俺は思い出した。そうだ、俺はここに来る前に妻と旅行をしていたじゃないか! 何でこんな大事なことを忘れていたというのだろう。
「じゃあ、百合子は、百合子はどこにいる!」
俺はスクリーンを最後まで見ることなく階段を駆け上がる。そこには最後の踊り場と、これまでスクリーンのあった場所にドアがあった。
「神崎照夫様、あなたのポイントは±0です。よって、これからあなたを天国と地獄の間、転生の間へと案内します」
そのドアの前に降りてきたのは、頭の上に白い輪を浮かべた天使だった。俺の知る天使と違うのは、そいつの着ていた服がゴスロリだったことである。だが、そんなことはどうでもいい。
「おい、どういうことだ! 俺は百合子とドライブ中だったんだぞ! 百合子と俺をここから出せ!」
俺はその天使に向かって叫ぶ。天使は俺を見てため息をつく。
「先ほどの動画を、最後までご覧になってはいただけなかったのですね?」
「どういう……ことだよ?」
俺のその言葉に対応するかのように、ドアには再びスクリーンが映し出された。
「あなたは……死んだのです。崖から落ちて」
「そんな……馬鹿な……」
俺は突然の宣告に言葉を失う。
「では、よくご覧なさい。あなた、神崎照夫の末路を」
天使は俺にそう声をかけると、スクリーンを再生し始めた。それは先ほど俺が見たドライブ中の俺と百合子だった。しばらくは二人で楽しく話しながら坂道を上る俺と百合子。だが、もうすぐで目的地というところで最後の急カーブを曲がろうとしたその時だった。俺はハンドルを切り損ね、そのまま崖から二人とも落ちてしまったのである。
「そ、そんな……」
実際自分の目で目の当たりにすると、俺も記憶が戻ってきた。確かに俺はあの時、ハンドルを切り損ねて崖から落ちたんだった。こんなにもあっさりした反応なのは
「じゃあ、今までのは……」
「あなたが今までどんな人生を送ってきたのか、あなたに確認していただくためです」
「そういうことだったのか……」
なるほど、それなら俺が経験したことが事細かにスクリーンに投影されていたことや落とした書類が残っていることも説明がつく。階段をすいすい上れたのも、これがもう自分の体として意味をなしていなかったからだろう。さっき頭をよぎった生きてはいけないというのは、こういうことだったのか。だが、この状況、理解はできても納得はできなかった。
「俺には、まだやり残したことがある! 百合子ともっと過ごす時間が欲しかった……」
そこまで言って俺はある重大なことを思い出す。
「そうだ、百合子、百合子はどうした!」
そうだ、俺と一緒に落ちたはずの百合子は……。天使は俺を見てこう言う。
「もう神崎百合子様はあなたと同じ転生の間へと向かっています。あなたと百合子様は、これから生まれ変わって人生をやり直すのです」
「百合子が……? 人生を、やり直す……?」
俺は聞き返す。それと同時に、俺の体が光輝いていることに気付く。そして俺の体は徐々に透けてしまっていた。
「時間です。あなたが望むと望まざるとにかかわらず、私はあなたをここから連れて行かねばならないのです。そうしないと、あなたの魂はこの空間に取り残され、消滅してしまいます」
「……じゃあ、最後に一つだけ聞かせてくれ」
俺は穏やかな口調で聞く。もう抵抗できないことは、薄れていく自分の体が証明してくれていた。俺は、やはり死んでしまっていたのだ。こうなってはどうしようもない。理解とか、納得とか、そんな言葉で説明できるレベルをはるかに超えている。
「何でしょう?」
天使は問いかけた。
「俺は……また百合子と一緒になれるんだろうか?」
俺の質問に天使は少し考える。
「……それは、分かりません。でも、もしあなたの願いが強ければ、きっとその願いは叶うはずですよ。あなたは、その思いで神崎百合子様への愛を勝ち取ったのでしょう?」
「……そうだったな」
そうだ、あの告白はポイントには関係なかったはずだ。それでも天使が俺にあの映像を見せたのは、きっとそういうことだったのだろう。
「では、行きましょうか、転生の間へ」
「……ああ」
俺は天使の開けたドアを通り、天使もその中へと入る。それと同時にドアが閉まると、そこにあるのはただ静かな静寂と、ひたすらに長い螺旋階段だけだった。