うんこ死
基本的に汚い話ですので、お食事中の方はご遠慮ください。
あ、便所でご飯を食べている方は問題ありません。
「快眠快便快調げんき~」
即興の鼻歌を鳴らしながら通いなれた自宅トイレのドアを開ける。ラッシュアワーの早朝と違い、すでに寝る間際となった現在のトイレは、笑顔でウェルカム状態だ。私はいつも以上にリラックスしてスリッパを履き、鍵を閉めて指差し確認してからパジャマをズルリと下ろすなり便座にどっかりと腰を下ろした。
この偉そうな体勢が、踏ん張るには実に都合が良い。
一昨日の夜に友達の家でプチパーティを開いて、一ヶ月前のダイエットなんて忘れてたくさん食べた。学生の特権とばかりに深夜まで騒いで、自宅に戻ってきた時には空が白んでいて、そこからぐっすり昼過ぎまで布団の中に沈んでいた。それからケータイに叩き起こされたと思ったら、前の晩のメンバーに呼び出されて二次会とも言うべきカラオケ三昧、帰ってきたのは午前様だ。
問題なのはここから、今日の午前中に起きるなり家族の買い物に付き合わされたということだ。買い物、というより小旅行みたいになっちゃったけど、単身赴任中の父が久方ぶりに戻ってきていたから、さすがに嫌とも言えなかった。まぁ邪険にして小遣いが貰えないのも癪だし、一日振り回されるだけで一万貰えるのは大きいから、それなりにありがたいんだけどさ。
というワケで、しっかり食べてしっかり眠った私にとって、しっかりと便が出ていないというのが唯一の不満なのである。一日一回の快便は私の小さな自慢だっただけに、昨日一日トイレに来ていないというのは許し難い。しかもあれだけ食べたのに。
まぁ、便秘とか縁がないから問題ないっしょ。
「さぁ出てきなさい、うんこちゃん!」
両手を広げて天井に掲げ、意識して背筋を伸ばす。こうして身体を真っ直ぐにするとスルッて出るように思えるってこともあるけど、あんまり過剰に力まないためっていうこともある。
実は私、どうやら痔があるらしいのだ。
らしいってのは医者に行って確認していないって意味である。時折、特に力んだりすると血が出る。でも痛くない。これは痔だ。間違いない。最初は生理の血かなーと思ったりもしたんだけど、どうやら違う。
生理の血は驚かなかったんだけど、お尻から血が出たとわかった時は青くなったな。何と言うか、知らない内に鼻血が出てたみたいな感覚に近い。正直怖いよね。
そんな理由から、私は普段から快便に努めているということなのですよ。
「さぁ来い!」
息を止め、鳩尾の下辺りに力をこめる。便意はあったから待つ必要はない。
何かが下に下りる感覚、そして肛門に押し寄せる圧迫感、間違いない。彼がうんこちゃんだ。
きたきたきたきたきたきたぁああっ!
「……あれ?」
出ない。
いつもならずるっと爽快に落ちるハズのタイミングで、一向に出てこない。かといって、括約筋の力で押し戻されたという感覚もない。もう出そう。でも出ない。変なとこで止まったぞ、おい。
どうする。どうしよう。
ちょっと待って。ここは一旦冷静になろう。とにかく一回切ってからもう一回出直そう。それがいい。
そう思って括約筋を締めるものの、戻らない。大きな何かが居座って、出ようとしているが何かに引っかかって出られないみたいになってる。
「あががががが」
マズい。これはマズい。
まさかひょっとして、大きいのか。大きすぎるのか。
一昨日から結構食べてたし、よく寝て新陳代謝も活発だったし、丸一日溜め込んでたし、ひょっとしてそれが重なって成長しちゃったってことですかっ?
「……待って。ちょっと落ち着こう。まだ慌てるような時間じゃない」
とりあえず今が学校に行く直前とかじゃなくて良かった。むしろ運が良かったと考えましょう。うんこだけに。
それにしてもこれはマズいよ。大腸には大量の汚物、しかし大きくなったせいで出てこない。踏ん張れば痔が悪化、踏ん張らなければ出てこない。
出さないのは論外だとして、問題はどうやって被害を出さずに出すのかってことなんだけど……とりあえず体勢を変えてみようか。
便座の上にしゃがんでうんこ座りに変更、出ない。
更に後ろを向いてタンクを掴む、やっぱり出ない。
というより、いつもと体勢が違うとやっぱり落ち着かないというか、思うように力が入らない気がする。ここはやっぱりリラックスすることを優先すべきだそうしよう。
しかし、十分経過して焦り始め、二十分経過してイライラが募り、三十分経過する頃には呼吸が荒くなっていた。
「うがーっ、いつになったら出るのコレー!」
もうかれこれ一時間近くトイレに篭ってる気がする。
ひょっとしてこのまま、トイレで一晩明かすことになるんじゃないの?
いやそれどころか、もうトイレから出られないのかも。
このままトイレに住むとか、ご飯とか風呂とかどうすんのよ。
いやいや、それはさすがに無理か。明日の朝ラッシュが訪れたら、問答無用で追い出されるに違いない。出ないうんこなんて、トイレで踏ん張る意味もない。
こんな時、どうすればいいの?
薬? うんこが大きすぎて出ない時に飲む薬って何?
下剤とか? もしかして浣腸?
くそっ、こんなことから浣腸プレイとかもう少し興味持っとくんだった。というより、もうこの時間だと近所の薬局なんて閉まってるし、ウチに浣腸なんて置いてあるの?
駄目だ。そもそもすでに熟睡モードに入っている母親を叩き起こして聞けるようなことじゃない。
「こうなったら自分で……」
顔前に右手を持ち上げて、人差し指を立てる。
そう、この指で掻き出してやろうか。でもなー、爪とかで傷つけたら本末転倒だしなー。とはいえこのまま手をこまねいていても、出てくる気配はない。それどころか心なしか、下腹部の圧迫が強くなっているような気がする。
これはひょっとして、大腸が限界まで膨らんでいるとか、そういうことなの?
これはもうアレなの? ひょっとして手遅れなんじゃないの?
明日は学校休んで病院行って、うんこ出ないんですけどどうしましょうってお爺ちゃん先生に相談するんだ。きっとそうなんだ。
もうやだ泣きたい。
「……よし、もういいや」
覚悟は決まった。そんな情けない理由で病院に行くくらいなら、痔で病院に行った方が百倍マシだ。こうなったら限界を超えて全力全開の踏ん張りを見せてやろうじゃないか。この汚物に、私の生き様を見せてやろうじゃないか!
「うおおおおおおおおおっ!」
私は、うんこになど、絶対、負けないっ!
みりみりと軋む肛門、少しずつ顔を出す汚物、呼吸すら忘れて全ての力を下半身へと集中させていく。
そして、時は満ちた。
すべぼちゃっと激しい音を立てて、大きな何かが排出されていく。まるで内臓ごと出してしまったかのような喪失感と、十キロ完走してきたかのような疲労感が一度にお腹の底から湧き上がってくる。
私は餌と酸素を求める鯉のように口をパクパクさせて、真っ白い意識の底に転がった安堵を拾い上げた。最近は体育でだって肩で息をすることなんてなかったのに、荒い呼吸がなかなか整わない。
でも、とにかく私は――
「勝った!」
思わずガッツポーズ。
お尻がちょっとヒリヒリするけど、それはこの際気にしないことにする。今はただ、この勝利の充足感に浸っていたい。人生最大の敵との熱い勝負の余韻に酔っていたかった。
しかし現実というのは厳しいものである。
翌朝、私のお尻から噴出した鮮血で便器は真っ赤に染まった。
こうして私は意気揚々と、痔で病院に通っている次第である。