第8話 少女との絆2
外套掛けにかかった誰のものか分からないコートを掴むと、そのままスノウは外に飛び出した。
屋敷の外はいつの間にか雪が降っていて、風も強くなっている。
彼女はどの方向へ向かって歩いて行ったのだろう。
ぐるりとまわりを見渡すが、吹き付ける雪で見通しが悪く、残っていたであろう少女の足跡も見付ることが出来なかった。
何故一人で行ってしまったんだ。
本当に誰の助けも必要ないと思っていたのだろうか。
ほんのわずかでも、副官の顔は脳裏に浮かばなかったのだろうか──。
チリッとした痛みが胸に走る。
(いや、そんな事は考えるな。今は彼女を探すことだけに集中するんだ……!)
自分自身にそう言い聞かすと、スノウは積もったばかりの雪の中を進み屋敷の裏手に向かった。
屋敷の裏には広大な針葉樹の森が広がっている。
今は雪の下に隠れてうっすら筋だけしか確認できないが、屋敷から森へ向かって細い小道が延びていたはずだ。司令官が森に足を踏み入れるとすればおそらくここからだろう。
屋敷の窓から漏れる照明の光でこの辺りは辛うじて明るいが、まだ目も慣れていないせいか小道の奥の方を見透す事はできない。
もともと静養の為の別荘であったこの屋敷のまわりには、屋敷の持ち主であるローゼス侯爵家所有の小さな湖や庭園などが広がっている。だがここも屋敷と同じく管理が行き届いていないせいか、かなり風化していた。
ある意味で自然のままの状態と言えなくもないが、ひとたび人間の手の入ったものは手付かずの自然とは違う。
暗い森の入り口にそのまま放置された薪や木材、崩れた納屋の残骸が、森全体に言い知れぬ気味の悪さを醸し出していた。
ソールはああ言ったが、この状況で明日の朝まで捜索を待っている訳にはいかない。
セグレトが司令官に接触したのが玄関広間での紹介のすぐあとだとすると、あれから既に数時間が経過しているのだ。
司令官がどの程度の備えをして出て行ったのかは不明だが、ソールのような殺し屋ならともかく、普通の人間がこの天候の下で長時間過ごせば、凍死する危険性は十分にある。
スノウは森に向かって歩き出した。
あては無い。
だが今はとにかく動かなければ、寒さで自分自身の身体まで固まってしまうだろう。
凍り付くような雪混じりの冷たい風に顔をしかめながら、スノウは黙々と足を動かした。
森の中をしばらく進み、青白く浮かび上がる木々の先に向かって何度か大きく呼び掛けた。風の音は途切れることなく聞こえるが、その声に答える者はいない。
森の中の雪はひざ下あたりまで積もっていて、まるで侵入者を阻むように歩みを妨げる。
「司令官ッ! ハインロット司令官ッ!」
きっとこの声も、雪に吸収されてそう遠くまでは届いていないだろう。
今更ながら、明かりのひとつでも持って来れば良かったと悔やんだ。声は届かなくても、光があれば少女の方がこちらに気付く可能性だってある。
(何をやってるんだ俺は……)
いつもならこんな失態は絶対にしない。
今の自分は、それだけ冷静さを失っているということだろうか。
(そう言えばあの時も……)
以前、司令官と二人で演習場を抜け出して、廃墟となった遺伝子研究所に忍び込んだ事があった──。
あの時、明かりぐらい持って来ていないのかと彼女を責めたのは自分だったっけ。
まさか言った本人が同じ過ちをするとは…。
おかしくて、一人で乾いた笑いを吐いてしまった。
随分と昔の出来事のように感じるが、実際にはそれほど時間は経っていない。
まさかイルムガード国内でさえないこんな地で、レジスタンスに匿ってもらいながら彼女と共に生活する事になるとは、あの時の自分からはとても想像出来ない。
──不思議だ……。
あの時の彼女は自分にとってただの監視対象者で、その予測不可能な行動から、油断のならない相手だとしか思っていなかったはずだった……。
それがいつの間にか、自分でも気が付かない内に彼女の存在は心の中で成長していて、今やそれは無視できないほどの大きさとなってその場を占有しているのだ。
目を閉じれば、自動的に彼女の顔が浮かんでくるほどに──。
(これは俺自身の感情なのか? それともレイの……?)
答える者はいない。
森の中を進むうち、空の様相は更に激しさを増した。
氷の粒のような固い雪が容赦なく横から飛んできて、あっという間に生き物たちの体温を奪っていく。
森に入っていくらも経っていない自分でもこれだ。司令官には一刻の猶予もない。
「司令官ーーッ‼」
スノウは大きく息をして力の限りに叫んだ。
これ以上雪が激しくなってしまったら、このまま引き返せざるを得ない。
焦りと苛立ちが更にスノウの平常心を乱した。
早く見付けなければ、彼女に二度と会えなくなってしまうかもしれない。そう思うと、今まで感じたことのない恐怖が足下から沸き上がってくる。
「司令官ーーッ‼ 返事をしてくれーーッ‼」
どこだ。
どこにいるんだ。
焦るあまり足がもつれ、スノウは雪の中に崩れるように両手をついた。大分寒さにやられている。
すぐに立ち上がろうとするものの、上手く力が入らない。
「──くそッ……‼」
一言でいい。
たった一言声を上げてくれさえすれば、絶対に聞き逃したりしない。
今なら、自信を持ってそう言えるのに…。
やはり俺は、何も出来ないのか──?
なんの力も無いのか──……。
──スノウ。
「──ッ!」
一瞬、少女に呼ばれたような気がしてスノウは顔を上げた。
「し……?」
司令官?
そう呟きそうになって、凍てつく木々の合間に見えた光景に言葉を失った。
少し離れた闇の中に、小さな灯りが点っているのが見えたのだ。
その光はローソクの火のように弱々しく揺らめいていて、今にも消えてしまいそうだ。
しかし火ではない。
例えるなら、まるで蛍の光のような、小さな白い光。
あれは……
「──警告灯か!」
何日か前にシュウと共に屋敷周辺に設置した侵入者を知らせるための電球だった。
瞬いているように見えるのは、降ってくる雪に見え隠れするからだ。
(司令官が足を引っ掻けたか、それとも本当に侵入者か……)
この際どっちでもいい。
スノウはともすれば見失ってしまいそうな小さな光をしっかりと見つめたまま、力強く足を踏み出した。
それから、膝を抱えてうずくまる司令官を見付けたのは、警告灯が灯っていた場所からいくらも離れていない太い木の根元だった。
冷たい風を避けるようにくぼみに身をひそめる少女の肩や髪には、うっすらと雪が積もっている。
防寒として彼女が身に付けていたのは、ミトンの手袋と分厚い毛皮のコート。それ以外には見当たらなかった。
「司令官ッ‼」
少女の側に膝を付き肩を揺らすと、それに抵抗する力が全くと言っていいほど感じられない。
ぞくり、と冷たい感覚が背中を走った。
まさか、遅すぎたか──
「司令官ッ‼ しっかりしてください司令官ッ‼」
(そんなはずはない! 絶対にそんなはずは──!)
抜け殻のような身体を抱き起こすと、伏せられていた顔がかくんと上を向いた。
薔薇色の艶があるはずの唇には、驚くほど色が無い。
いつも以上に白い頬に恐る恐る触れると、まるで本物の陶器のような冷たさが肌を伝わってきた。
嘘だ。
そんなことがあるものか。
「司令官ッ!! 目を開けてください司令官ッ!!」
ただふざけているだけに決まっている。
いつものように相手の反応を見て、楽しんでいるだけなんだ。
「頼むッ! 嘘だと言ってくれ! ツルギ、ツルギ──……!」
少女の小さな身体を自分の胸に押し付け、スノウは何度も名前を呼んだ。
これだけ一緒に過ごしていながら、こんな風に彼女のことを名前で呼んだのは初めてだった。
司令官でもなく、魔女でもなく、
ただツルギという名の一人の少女。
殺し屋という生き方を選び、誰にも執着せずに生きてきたはずの自分を、掻き回すだけ掻き回していく、嵐のような少女。
なのにどういうわけか、いなくなった途端どうしようもない虚無感に襲われる自分がいる──。
そんなことに、今になって気付くなんて……。
「……ん」
不意に腕の中の少女がわずかに身動ぎするのがわかった。
はっとして身体を離すと、ゆっくりと重たそうにまぶたを開けるところだった。
「あ、れ……? あたし……寝て、た?」
うたた寝していたところを揺り起こされたかのような、気の抜けた反応。
思わずカッと身体が熱くなった。
「あなたという人はッ! 何故こんな夜にひとりで外に出たりしたんですッ! 死にたいのですかッ⁉」
一体どれだけ心配したと思っているんだ。
「ごめん、ね……。でもあたし、どうしてもキノコ、スノウに食べて欲しくて、ずっと探してて……」
「そんなものセグレトの適当な作り話に決まってるじゃないですか! アイツはいつもそうやって他人を利用するんです。全部嘘なんですよ‼」
「え……ウ、ソ……?」
「惚れ薬の材料になるキノコなんて、あるわけないでしょう!」
「ないの? 全部、ウソ……?」
騙されていたことに気付いたからなのか、それともまだ意識がはっきりしないのか、呆然とした表情で見上げてくる少女。
その顔をもう一度胸に埋めてしまいたいという衝動をなんとか押し込め、スノウは立ち上がった。
「そんなことより、すぐに屋敷に戻りましょう。こんな所にいては凍死してしまいます」
司令官の手を掴み、引っ張って立ち上がらせる。だが少女はまだ納得できないのか、その場を動こうとしない。
「嘘? 惚れ薬も? そんな……、絶対スノウに食べてもらおうと思ったのに……」
(誰が食べるかそんな毒キノコ!)
はあ、とスノウは肩を落とした。
「お願いですから、これ以上軽率な行動は控えてください。貴方だって、たかがキノコで命を落としたくはないでしょう?」
その言葉が気に障ったのか、司令官はむっとした表情をして見せた。
「たかがじゃないよ! そのキノコがホントにあれば、好きな人を虜にする事ができたかもしれないんだよ?」
「だからって命を懸けてまでする事ですかッ⁉」
「するよ! あたしはする! だってあたしは、本気でスノウを振り向かせたいんだもん! その為だったら、命だって懸けるよ!」
なんだそれは。
じゃあ振り向かせる為だったら、死んだっていいって言うのか?
「あんた馬鹿かッ⁉ それじゃあ意味がないだろッ‼」
「意味なくないよッ! それがあたしのやりたい事だもんッ! その為に軍も辞めた! あたしの夢は、司令官と副官なんて関係を無しにして、スノウとずーっと一緒にいることだよッ!」
何を言っているんだこの少女は。
ずっと一緒にいる?
それだけの為に軍を辞めたのか?
「その夢を叶える為だったら、あたしは命を懸けてでもキノコを採りに行く!」
だから何でそこでキノコ狩りになるんだ。
嘘っぱちだって言ってるだろう。
ああ、イライラする!
そんな存在もしないキノコに命を懸けるなんて、簡単に言わないでくれ。
それで本当にあなたを失ったら、俺はどうしたらいいんだ──!
「仮にそのキノコが実在したからって何になるって言うんだッ! 大体、そんな物なくても俺はとっくに──‼」
怒りにまかせつい思い付いたまま口走ってしまったスノウは、はっとして残りの言葉を飲み込んだ。
どうやら自分は今、相当余裕が無いらしい。
司令官の顔をちらりと見ると、キョトンとした表情で目を丸くしている。
スノウは一旦落ち着こうと大きく息を吐いた。
「……とにかく。いつまでもこんな所にいては本当に死んでしまいます。さあ、行きましょう」
司令官が何か質問をしてくる前にと、スノウは彼女を強引に引きずり、来た道を戻り始めた。
「えっ、あ、ちょ、ちょっと待ってスノウ! いま何か、言いかけてなかった?」
「何のことですか?」
「俺はとっくに、の続きは? とっくに、なに?」
「さあ? そんなこと言いましたか?」
「言ったよッ! 絶対いま言ったッ!」
「おそらく幻聴でしょう」
「ウソ! しっかりはっきり聞こえたんだけど!」
「記憶にありません」
「もう! いじわるー‼」
これ以上答えてやるものかという思いで、スノウはぐいぐい少女の腕を引いて歩いた。
司令官は多少食い下がったものの諦めたのか、腑に落ちないような顔をしたまま黙る。
まったく。普段は鈍感なクセに、何故こんな時だけよく気が付くんだ。
「それよりも司令官。こんな吹雪の中でよく一人で森に入ろうと思いましたね。魔女の二人は止めなかったんですか?」
追及をうやむやにする効果を狙ってスノウは尋ねた。
だが目的はそれだけではなく、本当に疑問には思っていたのだ。
誰が見ても危険な行為を、セシリアとユリヤという魔女が二人も付いていながら止めないはずがない。
だが身体の主導権を譲らない限り二人は表に出て来られないはずだから、司令官自身が二人の制止を振り切って強行したという可能性も考えられる。
「え? うーん、ユリヤは分からないけど、セシリアは止めなかったよ? それどころか、すぐに出掛けた方がいいって言ってくれたぐらいだし」
「なッ──」
スノウは思わず歩みを止めて司令官の方に振り返った。
どういうことだ。
セシリアは司令官を止めるどころか、自ら彼女に無謀な行動を勧めたというのか。
「セシリアは一体どういうつもりでそんなことを……?」
「うーん……。あたしはキノコが欲しかったから行くって言ったけど、セシリアは……、そう言われると何でだろう」
それにユリヤはどうしたんだ。
彼女がセグレトの嘘を見抜けないとは思えない。
「この辺りは狼も出ます。いくらセシリアが良いと言っても、危険である事に変わりはない。現に先程は本当に危なかったんですよ?」
「さっき? ああ。ちょっと休憩してた時?」
「休憩?」
「セシリアが、ここで待ってればそのうちスノウが迎えに来るって言うから、そこでちょっと休憩してたの。寝ちゃってたけど」
「しかし、あれは休憩と言えるような状態ではなかったですよ? 脈も感じなかったし──」
そう言いながら、スノウはある事を思い出した。
セシリアによって封印されたはずの魔女ルディアが、深い穴の底から生きたまま発見されている。という事実を──
そうだった。
司令官もセシリアと同じ魔女だ。
低体温ぐらいでは死ぬ事はないのかも知れない。
(セシリアはそれを分かった上でわざと司令官を危険な目に……?)
がくっという音でも聞こえて来そうな勢いでスノウは片ひざを雪の地面にめり込ませた。
(また謀られた。あの性悪魔女に……!)
それに、もしかしたらユリヤも共謀……?
いや、そこまではいかないか。
だが黙認はしているのかも知れない。
何故だろう。一気に身体が疲れたように感じる。
「スノウ? どうしたの? 大丈夫?」
性悪魔女に何の疑いも持たない司令官(それがまず問題)が、ひざを付いたまましばらく動けずにいるスノウを心配そうにのぞき込んだ。
その、純粋にこちらの身を案じる少女の顔を見ていたら、人外な存在にいちいち腹を立てているのも馬鹿らしく思えてきてしまった。
まあいい。
いくら魔女は死ぬことがないとは言っても仮死状態くらいにはなるはずだ。そうなれば身動きはとれない。
その状態で雪に埋もれてしまったら、日中とて見付けるのは困難だ。下手をすれば春まで待つことになったかもしれない。まったく無駄だった訳じゃないんだ。
「……いえ、何でもありません。行きましょう」
スノウは両足にもう一度力を込めて立ち上がると、また少女の手を引いて歩き出した。
先程まではただされるがままだった少女の方も、今度はしっかりとした足取りで着いて来る。
それからしばらく、無言で歩いた。
少女の手袋越しに感じる細い指の感触。
後ろから聞こえる息づかい。
二人だけの空間。
雪はいっこうに止みそうにないが、何故か今はこの時間が出来るだけ長く続けばいいと思えた。
気付いたばかりのこの感情が、前世の記憶に引きずられているだけだったとしても……、
いまはそれでもいい。
胸の中にほっと灯りがともったようなこの感覚が、とても心地が良いから──。