第27話 目覚め
ゆっくりと意識が浮上する。
水底から上へと上がっていく気泡のように、ゆらゆらと揺れながら浮かんでいく。
起きなければ。早く。
彼女を迎えに行くんだ──……
薄く開けた目が最初に映したのは、高い天井だった。
スノウはまどろんだ思考のまま、自分のおかれた状況を把握しようと視線だけを動かす。
どこかに寝かされているのだということはわかるが、一体どこだろう。
視界に広がるうぐいす色の天井。垂れ下がるシャンデリア。ベルベットのカーテン。
それらを一つ一つ脳内で処理していく。
随分と贅を尽くした部屋だ。それほど広くはないが、隅々まで整っている。
(ああ、そうか。俺はまだ王宮にいるのか……)
そう思い至り、もう一度目を閉じてゆっくりと深く呼吸をする。
──まるで夢を見ていたようだ。
いや、ようだ、ではない。実際、夢を見ていたのかもしれない。
意識が身体を離れて別の場所に移動していたなんて、証明するものは何もない。
今までのことが、すべてただの夢なのだと言われたとしても、それを否定することはできないのだ。
スノウは再び目を開けた。
次の瞬間。
不意に足元から黒い人影がぬうっと現れ、スノウの視界を黒く覆った。
「おおッ!! なんだよ、起きてんじゃねえか!!」
その人影は身を横たえたままのスノウの顔を遠慮もなく覗き込んで続ける。
「そうならそうと早く言えよー!!」
紺色のお仕着せを纏った声の主は、その一見清楚な姿とは裏腹に乱暴な口調で言った。
「いやー良かった良かった。お前ちっとも起きないから、俺は正直ホントに死んじまったのかと思ってたんだぜー?」
(あーうるさい……)
こちらに全く配慮しない大きい声が、いちいち頭に響く。
スノウはうんざりして、顔を歪ませ小さく舌打ちをした。
なんで起きぬけにコイツのアホ面を拝まなければいけないんだ。
ついさっきまでは確かにここにあった。
触れた指先に感じた少女の温もり。きゅっと締め付けられるような胸の奥の痛み。そして何より、身体の内側を満たしていく幸福感。
それから比べての今のこの状況は、いくらなんでも落差が酷い。
「気色悪い顔を近付けるなサンダース‼」
「ぐえッ‼」
ニヤニヤしながら覗き込んでくるサンダースのあごを下から打ち上げるように押しのけ、スノウはベッドの上に半身を起こした。
「なんだよ!! 人が心配してやってるっていうのに!!」
「お前に心配されたところでなにもなりはしない」
「ひっでえ!! こっちはお前が毒を飲んだって聞いてマジで焦ったんだぜ⁉ かわいそうに、ソールちゃんなんか真っ青な顔で──、あ、そうだソールちゃん呼んでこなきゃ!! すげー怖い顔で、起きたらすぐに教えろって言ってたんだ!!」
そう言いながら、サンダースはこちらが呼び止める間もなく部屋を出て行ってしまった。
ここはどこだとか、あれからどのくらいの時間がたったのかとか、聞きたいことはあったのだが、尋ねるいとまもなく姿を消してしまい、スノウは仕方なく自分で状況を把握することにする。
室内にはベッドが一つと、布張りのソファーとテーブルが一組。窓辺に設置された円卓には、同じ設えの椅子が向かい合って置かれている。
窓から差し込む陽光がかなり明るいので、日が高い時間のようだ。
ソファーとテーブル以外にめぼしい家具は何もなく、高級ホテルの一室といった印象の部屋だった。
どうやら来客用の居室のようだ。
自分が仮死状態になっている間に運ばれたのだろう。
(寝ている場合じゃない…!)
銀狼党のアジトに急いで戻らなければ。司令官を迎えに行くんだ。
スノウは自分の腕や足の動きを確認すると、やたらと大きなベッドから這い出た。
動けないほどではないが、身体はまだ重く感じる。
寝ている間に脱がされたのか、意識を失った時に着用していたはずのジャケットは着ていなかった。だがシャツとズボンはそのままだ。この格好なら出歩いても問題はないだろう。
ベッドの下を覗くと革靴があった。見覚えがある。自分が履いていたものだ。
急いでそれに足を突っ込むと、出入り口に向かう。
しかしスノウが出入り口の扉に手を掛けるよりも早く、勢いよく扉が開いて誰かが駆け込んできた。
「スノウッ!!」
駆け込んできたのはソールだった。サンダースが呼びに行くと言ってからほとんど時間が経っていない。呼ばれてすぐに飛んで来たようだ。
「大丈夫なの⁉ 起き上がって平気⁉ 気分は悪くない⁉ 身体はなんともないの⁉」
現れるなり、呼吸も忘れているんじゃないかという剣幕でソールがまくし立てるので、スノウは面食らってしまった。
「あなたが全然目を覚まさないから、本当に死んでしまったんじゃないかって…、私、私──!!」
冷静な彼女にしては珍しい。なんて思っていたら、ソールは急に目に涙を溜めだして、声を途切れさせる。
スノウは突然のことに困惑しながらも、ソールの震える肩に手を置いた。
「す、すまん。心配かけたな……」
正直焦った。こんなふうに泣くソールを目にするのは初めてだ。
「ホントよッ!! 一体どれだけ心配したと思ってるのッ⁉ 詳しいワケも話さずにあなたは毒を飲んじゃうし、解毒薬を飲ませても、一ヶ月も目を覚まさないし──!!」
「なんだって──ッ⁉」
耳を疑った。ソールの口から発せられた言葉は、全く予想外のものだったのだ。
「一ヶ月って……なに言ってるんだ。冗談だろ?」
「こんな時に冗談なんて言うわけ無いでしょ? 嘘じゃないわ。あなたがあの鏡の前で毒を飲んだのは、本当に一ヶ月前よ!」
「そんな、セグレトの解毒薬は──?」
「もちろんすぐに飲ませたわ。そのおかげであなたは息を吹き返した。でも、それから眠ったまま目を覚まさなかったのよ。一ヶ月も!!」
一ヶ月? まさか、そんなに時間が経ってる訳がない。
さっきまで、この手に確かにあったんだから。
あの人を抱きしめている感覚が……。
「と、とにかく、司令官に──…、アジトに戻らないと……!!」
スノウは独り言のようにそう呟くと、ソールから視線を外して出入り口の扉を見やった。
だが直後にソールは、再び信じられないことを言ってスノウの動きを止めさせた。
「あのアジトはもうないわ」
「──……は?」
「古ぼけたあの洋館でしょ? あんなのはもう引き払って来たもの。いま行っても誰もいないわよ」
「なにッ⁉」
どういうことだ? 引き払った?
何が起きているのか分からず、スノウは呆然とした。
「じゃあ司令官は……、彼女はどうなったんだ?」
自分の知らない間に起きた変化に、戸惑いを隠せない。
「スノウが眠っている間に、銀狼党が拠点をこの王宮に移したの。それに合わせて、お嬢ちゃんたちもここに移ってきたのよ。だからみんなここにいるわよ」
「それを早く言え!!」
肩からずり落ちそうになるところを耐えたスノウは、ソールに向かって声を張った。
「何よ、スノウったらさっきから司令官司令官って!! 私だってこんなに心配してるのに、どうだっていいって言うの⁉」
「い、いや、そんなつもりじゃ……」
ソールの目に再び涙が溢れ出す。スノウはいよいよ狼狽えてしまった。
するとどこから湧いて出てきたのかサンダースのバカが口をとがらせた。
「ああー!! スノウなにソールちゃん泣かせてるんだよ!! なんか酷いことでも言ったのかー⁉」
(こいつ余計なことを──!!)
「サン!! ここはお前に任せた。ソールを慰めてやってくれ」
「え! 俺が⁉ いいの⁉」
「ああ、頼んだぞ。俺は司令官を探さないといけないんだ」
「スノウ!!」
不満顔で詰め寄ってくるソールの肩を掴んでくるりと反転させると、スノウはそのまま無理やりサンダースの方にソールを押しやる。
それを受け取ったサンダースは、ソールの背中に腕を回した。
「ソールちゃん疲れてるんだね。俺が癒してあげるよ。さあ、とりあえずベッドに──」
「死ねボケー!!」
ソールのドスの効いた声と共に聞こえた、ゴスッ、という鈍い音を、スノウは背中で聞いた。
揉み合うソールとサンダースに構わず、そのまま部屋を飛び出したからだ。
もたもたしている時間はない。司令官を探さなければ。
今すぐ会いたかった。
会って確かめたかった。
今までのことが、夢じゃないってことを──
部屋を出ると、そこには長い廊下があった。
見覚えのあるワインレッドの絨毯。
謁見の間を越えた先の、国王の居住区。どうやら自分はその一室に寝かされていたらしい。
あてもなく、スノウはしばらく廊下を進んだ。
床一面に敷かれたふかふかの絨毯に、廊下と同じく長く連なった窓から陽光が差し込む。
その上を足早に進みながら、スノウは早くも慌てて部屋を飛び出したことを後悔していた。
いくら国王の居住するプライベートな空間と言えども、一般的な住居とは桁違いの広さなのだ。闇雲に少女を探していても、簡単に見つかる訳がない。
せめてどの辺りにいるのかぐらい、ソールに聞いておけばよかった。
そう思い始めていたところで、廊下の先に見慣れた老人が現れ、こちらを認めて驚いた声を上げた。
「おおスノウ殿ッ!! お目覚めになったのですな!!」
「サイファス!!」
レジスタンス組織『銀狼党』の参謀役、サイファス翁だ。
サイファスはいつも通りのガチムチな肉体を窮屈そうな背広で包み、今となっては勲章とも言える傷を残した浅黒い顔に、輝くような笑みを浮かべている。
「いやはや。心配しておりましたぞ。ツルギ殿はそのうち目を覚ますと仰っておりましたが、一向にお目覚めになりませんのでな」
サイファスの口から少女の名前が飛び出し、スノウは眉を寄せた。
妙な気分だ。
彼女の姿は見えないのに、スノウの預かり知らぬところで彼女の影がちらつく。
「司令官はどこに?」
「ツルギ殿ですか? はて、今朝はまだお姿を拝見しておりませんが……」
そう言って、サイファスは視線を自身の後方に投げた。
誰かいるのかとスノウもそちらを覗くと、いつからそこにいたのか髭をはやした初老の男が立っている。
「ルーファス。そなた知らぬか?」
初老の男は控えめにたたずみ、柔和に微笑みを浮かべている。
ヘンリーク国王の影武者、ルーファス・オズバント。
だが今は国王のふりをしてはいないのか、存在感がまるで感じられなかった。
自分がいることすら気付かないくらいだ。徹底的に『個』を消している。これが本来の『影人』なのだろう。
「失礼ですが兄上、ツルギ殿とは?」
ルーファスは困ったような顔をして兄を見上げた。
「おおそうであったな、すまん。そなたには詳しく紹介しておらなんだ。ツルギ殿は、イルーク王子が亡命した際に、イルムガードで世話になったハインロット家の御息女だ」
「ああ、では、王子とともにいたあの方がそうなのですね」
王子とともに?
スノウにとって、それは聞き捨てならない内容だった。
司令官はいま、あのエセ王子と一緒にいるのか──?
「それなら、先程イルーク王子とご一緒におられるのをお見掛けしました。図書室に向かわれると仰っていましたが──」
ルーファスの言葉の最後を待たずにスノウは駆け出した。
「スノウ殿ッ? 何かあったのですかッ?」
気遣わしげなサイファスの声も無視して走る。
図書室の場所は、王宮潜入に際して見取り図を暗記しているので覚えている。
司令官はジェイスと一緒にいる。
反芻すると、チリっと身体の奥が焦げるような感覚がする。
いやそんなことよりも──
一体なんの用があって、二人は連れ立って図書室なんて向かったのだろう。
(俺だけ知らない──)
一ヶ月という時間、ここでどんなことがあったのか、どんなふうに時間が流れたのかを知らないのは。
自分だけ──。
スノウは焦った。
焦りとともに、確実に別の感情もあったのだが、それに気付かないくらい焦りながら、目的地を目指した。




