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第20話 鏡の向こう

 ヒメルは身体の奥がカッと熱くなるのを感じた。

 と同時に言いしれぬ恐怖を感じ、お腹の奥に痛みにも似た感覚を覚える。


「ヘルミナさんッ‼」


 呼び掛けると、彼女は微かな呻き声を発した。

 だが、通り抜け鏡に叩きつけられた衝撃で起き上がることができないのか、横向きに倒れたまま動かない。その背中には鏡の破片が刺さり、痛々しく血がにじんでいた。


(……どっ、どうしよう。ヘルミナさんをあんなに簡単に投げ飛ばしちゃうなんて……‼)


 ヒメルはたった今見た光景が信じられなかった。


 ヘルミナさんだって、そんなに弱いわけじゃないはずだ。料理長の護衛をするため、幼い頃から格闘術を身に付けているという話をヒメルは聞いた。

 だからこそ、彼女は万が一のための戦力としてアジトに待機していたのだ。


 そんなヘルミナさんを、あの人はあっという間に沈めてしまった。


 ジール総督の屋敷で遭遇した、あの親衛隊の女──


 女は今、肩に階級章が付いた長い外套を羽織っている。おそらく軍の支給品なのだろう。その外套の下にリュックでも背負っているのか、背中が盛り上がって見えた。


 ヒメルはその盛り上がった肩越しに、砕け散った姿見の鏡を見やる。


 状況は非常にまずい。大事な通り抜け鏡が割れてしまったのだ。

 副官たちが通って戻ってくるはずだった脱出経路が、完全に破壊されてしまった。これでは王宮に潜入している彼らがアジトに戻ってこられない。


 だが、ヒメルはそれよりも、目の前の親衛隊の女に狙いを付けられてしまった事に焦りを感じた。

 女が真っ直ぐ見つめる先には、ヒメルがいま背中で庇っている、ハインロット司令官がいるのだ。



 副官たちが王宮に潜入する日となっていた今日、ヒメルは司令官とヘルミナと共に、応接間の通り抜け鏡の前に待機していた。

 全員が無事に戻ってきますようにと祈りつつ、待っていたのだ。


 だが、鏡を通り抜けて最初に現れたのは、副官たちではなかった──。


 ぬっと現れた親衛隊員の女は、無言のまま司令官に近付いて来た。

 咄嗟にヘルミナさんが間に入ったが、敵の俊敏な動きに手も足も出ないまま後方に投げ飛ばされた彼女は、そのまま宙を舞って通り抜け鏡に激突してしまったのだ。



「逃げてください司令官‼」


 肩越しにそう言っても、司令官は動かなかった。

 じっと敵を見据えたまま、声も挙げずに立っている。


「何してるんですかッ⁉ 早く‼」


 もう一度ヒメルは叫ぶ。だが司令官は動こうとしない。


(もうッ‼ なんで逃げないの⁉)


 司令官が何故逃げようとしないのか、ヒメルには分からなかった。

 恐怖で足が動かないという感じではない。

 ただじっと、敵の動きを見定めている。


 不思議なほど冷静なのだ。


 まるでこうなることが、わかっていたかのように……。


 

 親衛隊の女はゆっくりと近付いてくる。


 正直、他人の心配なんかしていられないくらい怖い。

 相手の女は、一般兵士のヒメルとは比べようもないくらい、鍛え抜かれたエリート軍人だろう。闇雲に挑んだところで、この危機的状況が好転するとは思えない。

 でも、だからと言って──……、



(ここで怯むわけにはいかない‼)


 ヒメルは敵に向かって飛びかかった。なんとか足止めをして、司令官に逃げるチャンスを与えなければ。


 しかし親衛隊の女は殴りかかったヒメルの腕をいとも簡単に掴むと、流れるような動きでその腕を背中に回し、表情を一切変えることなくギリギリと締め上げた。


「きゃあッ‼」


 ヒメルは堪らず悲鳴を上げた。


 やっぱりだめだ。かないっこない。

 この人、動きに全く無駄がない。


 本物の、特殊部隊員だ──。


 だが、彼女が自分に対応しているこのスキに、なんとか司令官を逃がすことができれば──



 祈るような気持ちで上官の方を見る。


 司令官は酷く辛そうな表情をしていた。今にも泣き出しそうに、琥珀色の瞳が揺れている。


「逃げてッ、司令か…──」


 ゴキッ──‼



 一瞬、何の音かヒメルには分からなかった。

 すぐ近くで聞こえたが、今まで聞いたことのない音だったのだ。


 だが、何なのかは直ぐに分かった。


 自分の肩に焼けるような激痛が走ったから──



「ぎゃああッ‼」


 ヒメルは肩を押さえてその場にうずくまった。

 痛みで上手く呼吸ができない。


「かッ…、はあッ……あッ……‼」


 音の正体は自分だ。

 肩の骨が外れたのだ。


 外した本人は冷たい表情のまま、息も乱さずヒメルを見下ろす。


 その、なんの感情も見えない顔。


(私、殺されるの……?)


 ヒメルの脳裏に、恐ろしい情景が浮かぶ。



「ヒメルッ‼」


 司令官の叫ぶ声が聞こえた。


 何をやっているんですか司令官。

 早く逃げてください。

 貴方が捕まってしまったら、元も子もない。


 そう言いたかったが、ヒメルにはもう声を出すどころか、指の先も動かすことができなかった。


 とどめをさされる、と思わず身を竦めたが、親衛隊の女はヒメルがこれ以上動けないと分かると、急に興味を無くしたようにそばを離れた。


 今度こそ司令官に迫っていく。


 ああ、駄目。そっちへ行っちゃだめ……。

 叫びたい気持ちはあったが、声が出せない。


 もうだめだ。


 ヒメルはぎゅっと目を閉じた。



 だがその直後、ううッという呻き声が耳に届いた。


(司令官──⁉)


 反射的に顔を上げ司令官を探す。


 しかし司令官は無事だった。

 驚いた表情のまま、自身の斜め前に視線を向けている。

 そしてそこには、親衛隊の女に向かって何かを投げつけたような格好で、一人の男が立ち塞がっていた。


 薄汚れた白衣に、すだれのように顔を隠した、白髪まじりの頭髪。



(セグレトッ──⁉)



 ゴルダの殺し屋の一人、セグレトだった。


 セグレトは手に持った小瓶の口を敵に向け、いつもの薄気味悪い笑みを浮かべている。



「どうだ、この私が作った痺れ薬を全身に浴びた感想はッ!」


 ヒッヒッヒ、と肩を上下させてセグレトが笑った。


(あれって、副官に飲ませてやるって言ってたヤツ⁉)


 ヒメルに売りつけようとしていた、怪しさ満載のあの薬だ。


 あの時は勘弁してくれと思ったが、今はよくやったと拍手喝采を送ってやりたい。

 親衛隊の女が両手で顔を覆い、目に見えて動きを鈍らせたのだ。


(きいてる──‼)


 セグレトの浴びせた薬品が効いているのだ。


(飲ませるだけじゃなくて、浴びせるだけでも効果があるなんて、どれだけ強力な痺れ薬なんだろう‼)


 希望の光が差してきたような気がして、ヒメルは顔を紅潮させた。

 しかし、直後に聞こえてきた声に、再び恐怖を感じることになった。



『なにをしている。これをのけろ‼』


(──…えッ?)


 誰の声だろう。

 ヒメルは辺りを見回した。


 一瞬、親衛隊の女が喋ったのかと思った。

 だが彼女は、身体を掻き抱きながら唸り声を上げ続けている。


(違う……)


 親衛隊の女が喋ったのではない。


 しかし他に、誰かが喋ったようには思えなかった。

 ヒメルと親衛隊の女の他には、司令官とセグレト、ヘルミナさんしかいない。その誰とも違う声だったのだ。


 妙にくぐもった、聞き取りにくい声。


『早くしないか‼ 妙な液が掛かる‼』


 二度目に聞こえてきたその声に、親衛隊の女は顔を上げた。

 彼女の背中側にいたヒメルには、女がどんな表情をしているのかまでは見えない。だが動きにくい身体を必死に動かして、身に付けた服を脱ごうともがいてるように見えた。


『のけろ、早く‼』


 不気味な声に、ヒメルは身体を竦ませた。


 いま、声が、女の背中から……、聞こえなかったか──?



 とさっ、と脱いだ外套が床に落ちた。



「──なッ……、に?」



 あらわになった女の背中に、何かが張り付いている──。


 本当に、『張り付く』という表現のとおり、背中の皮膚に、別の生き物の皮膚が繋がっていたのだ。


 何なんだ、これは。

 何か…、おぞましい何かが、女の背中にくっついている──。


 彼女がずっと背負っていたのは、リュックサックなどではなく、これだったのだ。


 それは、ヒトの形をしていた。だが、形を成しているのは人間の身体の上半分だけで、人間だったらあるはずの下半身は、──無い。


 本当に、まったく無いのだ。


 上半身だけで親衛隊の女の背中に負ぶさり、まるで後ろから首を絞めるように、腕を絡ませている。

 血管のように背中に広がった長い髪は、そのまま宿ぬしである女親衛隊員の手足にまで広がって絡みついていた。


 そして──、


 その髪の毛の色は、青。

 不思議な色だった。

 さらにその隙間から覗く、不気味なほど白い肌──。


「……うぅッ‼」


 あまりの異様さに、ヒメルは吐き気を覚えて口を塞いだ。


(化け物……だ……)


 背筋にぞくっと悪寒が走る。

 

「小賢しいサルめ…」


 上半身だけの生き物が、吐き捨てるようにかすれた声を発する。


「目障りだ。排除せよ」


 親衛隊の女は身体を引きずりながら動いて、セグレトに近付いた。


「セグ…、逃げ、て…‼」


 副官が以前、セグレトに戦闘能力はないと言っていたのを思い出したヒメルは、やっとの思いで言葉を絞り出した。


 いくら薬液の効果で身体が痺れているとは言え、本物の特殊部隊員相手に、セグレトが立ち回れるとは思えなかったのだ。



「ヒヒッ、いいのか? 先程の薬はまだまだあるぞ?」


 セグレトは懐に手を突っ込みながら不敵に笑う。

 身体が半分の化け物を見た後だというのに、たいした度胸だ。それとも、セグレトの立つ位置からは化け物が見えないのだろうか。

 どちらにせよ、敵が怯んだのは確かだった。


「ヒャハッ、今日はついてるぞ。スノウに飲ませる前に、こいつで試すことができるんだから‼」


(マジでその為に割って入って来たの──⁉)


 助けようとして駆けつけた訳ではないのだろうか。


 こんな時でも実験しようとするとは、セグレトの行動は、ある意味で貫徹している。


「この際だ、他の薬もいろいろ試してやろ──…」


 セグレトは最後まで喋ることが出来なかった。

 敵の長い脚がみぞおちに決まってしまったから。


 親衛隊の女の蹴りを喰らったセグレトは、呻くこともないまま吹っ飛び、司令官の後ろでもんどり打った。

 もともと線の細い彼には、抗う力などない。


「セグレトッ──‼」


 セグレトは一撃で動かなくなった。

 ヒメルがそれに気を取られている間に、親衛隊の女、いや、女の身体を操る、身体が半分の化け物は、司令官の目前に迫る。


「やっとこの時がやってきた……」


 女の背から化け物が言葉を吐いた。

 両肩をがっしりと掴まれた司令官は、黙ったまま化け物の顔を見据えている。



「その身でしっかりと、味わうがいい……」


 ポツリと司令官がそう呟いたのが聞こえた。



 それを最後に、少女の身体はどっとその場に崩れ落ちた──。





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