第19話 拳の勝負
王宮内のトイレは一般家庭のそれよりはだいぶ広いが、それでも男二人が睨み合って向き合うにはかなり狭い。
「そこをどけ、スエサキ──‼」
低く唸るようにスノウが言葉を吐くと、トーマは頭をぽりぽりと掻きながら、やはり緊張感のない顔でへらっと笑った。
「さーせん。俺にも色々事情がありまして、ここを通す訳にはいかないんすよ〜」
その締まりの無い顔を鋭く睨みあげて、スノウは両拳をつくって身体を斜めに身構えた。
「だったらお前を排除するだけだ」
顔の表情を消し去ると、構えたままトーマの目前に飛び込んで一気に間合いを詰める。
相手の顎に向けて右拳を打ち出すが、トーマはすんでのところで後ろに飛び退いて避けた。
「うわっ、こっっわーッ‼ らしくないっすね副官。いきなりアンガーゲージMAXじゃないっすか!」
「お前と喋ってるヒマはない」
トーマがここに一人で立っているということは、ルディアは既に鏡の向こう側だろう。
向こう側にも万が一の場合の要員としてサイファスが幾人か配置しているようだが、戦力としては心許ない。さっさとトーマを叩き伏せ、アジトに行かなければ司令官の身が危ないのだ。
「その無表情マジで怖いわ〜。ま、気持ちは分かりますよ。ハインロット司令官が心配っすもんね」
軽口を叩きながら、トーマも拳を握って顔の近くに構える。
「でも、こっちも仕事なんすよ」
トーマはそう言い終わらぬうちに踏み出して、何個も拳を打ち出してくる。スノウはそのすべてを両腕を使って顔の前でガードする。
なかなかに重い拳だ。
そう思った次の瞬間、トーマが身体を大きく振り、強烈な右フックを繰り出した。強烈ではあるが、振りが大きい分スキが生じやすくもある。
スノウはトーマの右腕を片手で払うと、その場で身体を一回転させ、遠心力を乗せた肘鉄をトーマの横っ面めがけて打ち出した。
「──ぅぐッ‼」
まともに食らい振らつくトーマ。その脇腹に、スノウは今度こそ握拳をねじ込んだ。
堪らずトーマがよろよろと数歩後退する。
「ってぇ〜…… 、やっぱMAX状態の副官はハンパないっすね」
口の端に血をにじませながら、トーマがにいっと白い歯を見せた。
その狂気じみた顔。
今のこの状況を、まるでゲームをして楽しんでいるかのような不気味な笑み。
(厄介だな……)
本当は素手でやり合うよりも銃器を使いたいし、懐にその用意もある。しかしこの狭い室内で間違って流れ弾が鏡に当たって割れてしまう危険性を考えると、出すことが出来ない。
それよりも厄介なのはトーマ自身だ。
痛みすら快楽に感じているかのようなあの顔。
何がそうさせるのかは分からないが、既に正気ではないのかも知れない。
「……お前、ヘンリーク国王が瀕死の状態なのは知っているのか?」
じりじりと相手との間合いを取りながらスノウが問い掛けると、トーマが顔を歪め薄く笑う。
「……ええ、知ってますよ。俺はね」
──『俺は』?
スノウが眉をひそめると、トーマは続けた。
「すべての親衛隊員が知っている訳じゃないが、俺は知ってるっすよ。こう見えて優秀なんで……」
そう言って両手を広げて見せるトーマに、スノウは鋭く聞き返した。
「知っていながら、なぜこんなことをする!」
「そりゃあ勿論、全部国王陛下のためっすよ。なんたって国王親衛隊なんでね。ガンデルクに潜入したのも、司令官を誘拐しようとしたのも、全部あの気味悪い婆さんの命令だった。婆さんが完全なる『身体』を手に入れさえすれば、陛下の病を治すことができる──」
やはりルディアが親衛隊を操っていたんだ。
国王の身体を人質に取って──
「──……けど、本気でそう思ってるのは先輩だけ。俺にとっては国王なんて、どうなろうと知ったことじゃない……!」
まるで唾を吐くようにそう言うと、トーマは少し肩の緊張を解いて続けた。
「むしろさっさと死んでくれた方がいい。国王さえいなければ、先輩はあんな婆さんの言いなりになる必要もなかった……」
(どういうことだ。何のことを言っている……?)
怪訝な表情でスノウが黙っていると、トーマは顔の笑みを消し去り、スノウの顔を見ずに一人で喋りだした。
「あんな状態でいつまでも生き続けているから、先輩はあいつに縛られ続けなきゃならないんだ……あんな奴、何もしてくれなかったくせに──‼」
何に怒りをぶつけているのか、それとも怒りの矛先自体を見失っているのか、トーマは独り言のように虚空を見つめて言葉を投げつけた。
「国王さえいなければ、こんなことにはならなかった!」
(こんなこと……?)
何が起きているんだ?
トーマは心底悔しそうに「あんな奴いなければ」と先程と同じ言葉を繰り返した。だが急に下を向いて押し黙ると、
「……お喋りは終わりだ。本気でいく」
そう言って真っ直ぐこちらに顔を向けてきた。その顔に、先程までの笑みはない。
言葉通り、次は本気で来る。
スノウは、身を引き締めて構えた。
狭い手洗い場には大きく動き回るようなスペースはない。お互いに間合いのギリギリで睨み合いが暫く続いた。
こちらから仕掛けるか。
悠長にしている時間はない。
そう思いながらトーマの立ち姿を見ていたとき、スノウはあることに気付いた。
(──こいつ、なんで丸腰なんだ……?)
例えナイフ一本だけだったとしても、あれば格段に勝率は上がるはず。だがトーマはいま、何一つ持っていなかった。
スノウがやってくることを想定し、脱出口の前で待ち構えていたはずなのに。
敵が何かしら武器を持っていることは、十分想定できるはずなのに……。
トーマは自身が言うように、親衛隊の中でも特殊な任務を与えられる優秀な隊員のはず。でなければベラード伯爵があそこまで隠したかったヘンリーク国王の現状を、トーマが知っているはずがない。
そんな優秀な隊員が、大事な場面で武器を忘れるなんて失態をするとは考えられない。
だとすると──
(敢えて武器を持っていないのか……?)
俺と、拳の勝負をする為に……。
微かにトーマが動いた。次の瞬間、奴とそのまわりの空気までもがグンッと迫って来る。
もともと狭い室内で一気に距離が縮まった。
連続で目の前に飛び込んでくる拳。それを両腕でガードしたが、今度は蹴りが側頭部に襲い掛かってくる。それをスノウは身体をのけ反らせ紙一重でかわし、後ろにでんぐり返って距離を取った。
流れるような連続攻撃。
今度のトーマは軽口を言わない。
ピリピリとした小気味いい緊張感。
(できれば、ガンデルクの格闘技競技会でお目にかかりたかったな……)
何となく惜しい感じがしてスノウは僅かに笑った。
そして何となく、この男の気持ちが理解できた気がした。
トーマはあえて素手で挑んできている。
自分が丸腰なら相手も武器を使わないだろうと見越した上で。
相手との力量差も、十分わかった上で──。
(そこまでして、俺に叩きのめして欲しいって事なのか…)
理由は分からないが、そうまでして望んでいると言うんだったら、自分がしてやれることは一つだろう。
(一切、手加減無しだ──‼)
スノウはぐっと足を踏み出して仕掛けた。
一気に間合いを詰める。
しかし目前でトーマが拳を繰り出してきた。
これを腕でガードしたら次は蹴りが飛んでくるだろう。
トーマの蹴りは強烈だ。さっきも危なかった。まともに喰らってしまったら、ガードしていたとしてもふっ飛ばされるだろう。
スノウは咄嗟に動きを変え、高く飛び上がって背中を丸めた。ぐるっと空中で前転し、トーマの頭頂部に向かって踵を打ち下ろす。
「ぐはッ──‼」
脳天に凄まじい一撃を食らったトーマはそのまま床に突っ伏した。
これでどうだ。
スノウは少し後ろにさがってトーマの動きを待つ。
かなりの衝撃だったはずだ。これで落ちないようなら、次は確実に急所を狙わなければならない。
トーマは額にダラダラと血を流しながら、ゆっくりと立ち上がった。だがその両の目は、既に焦点を結んでいない。それでもトーマは構え直し、猛然と突進してくる。
とっくに狂人化している──
(だったら動かなくなるまで殴るまでだッ‼)
真っ直ぐに打ち出したトーマの握りこぶしが、スノウの顔を狙って飛んでくる。しかしその先端は、顔の表面の皮一枚を裂きながら掠めた。
引き付けろ。ギリギリまで──‼
顔をすり抜けたトーマの腕が耳朶に触れるか触れないかの一瞬。スノウは目を見開いて渾身の力を拳に込める。
相手の腕の外側から回した拳を、スノウはトーマの顎に打ち込んだ。
クロスカウンター。
手応えは十分だ。
トーマの身体が勢い良く吹っ飛び、床の上を跳ねた。
国王なんて、さっさとくたばってくれた方がどれだけ良かったか──。
トーマは薄れゆく意識の中で思った。
国王があんな状態で生きながらえているから、先輩はそばを離れられないんだ。
ただ父親だと言うだけで、先輩があの男にしてもらったことなど何一つ無いのに──…
「魔女の依り代になる⁉ なんでそんなことしないといけないんだよ⁉」
そう問いただすと、彼女は何も言わずに顔を背けた。
「何か言ってくれニイナ‼」
「名前で呼ぶのは止めろ。私はお前の上官だ!」
目も合わせてくれないまま、いつもと変わらない声色で返され、トーマはぐっと言葉を飲み込む。
いつからだろう。彼女が、幼馴染のトーマにさえ名前を呼ばせなくなってしまったのは。
「依り代なら、あのユリヤのクローンがいるじゃないっすか。なんで先輩が代わらないといけないんすか⁉」
「あれはもう間もなく使い物にならなくなる」
「だからって、先輩が代わる必要はない‼ そんなことをして、無事で済むのか? あのクローンみたいになったらどうする──⁉」
「少しの間だけだ。問題はないとルディア様も──」
「あんな女の言う事なんて信じられるもんか‼」
「トーマ!」
咎めるような顔で、先輩が自分の名前を呼んだ。
何故だろう。
昔と変わらない呼び方のはずなのに、込められた感情が変わってしまったのは……。
「先輩は、国王を憎んでたんじゃないのか……?」
ヘンリークは国王に即位した途端に、それまで共に暮らしていた妻と子供を捨てた。
その子供が先輩だ。
それ以来、彼女はずっと苦労してきた。
血の滲むような努力をして、今の地位を手に入れたのだ。
その姿をそばで見続けてきたトーマには分かる。
自分を捨てた国王に対する憎しみの感情が彼女の原動力だった。
見返してやる。その思いだけで彼女は走り続けてきた。
怒りと憎しみでギラギラしていた瞳。トーマはその瞳に、いつしか畏怖にも似た恋慕の念を抱いていた──。
その瞳が、ある日を境に変わってしまったのだ。
憎むべき存在だった国王は偽物で、本当の国王は機械に繋がれてやっと生き永らえているだけの、死に損ないだったことを知ったあの日を境に──
「今も憎んでいるさ。母はあの男のせいで死んだんだ…」
言葉とは裏腹に、彼女の口調は柔らかかった。
「──だが、このまま陛下が目覚めないままでは、今までやってきた事がすべて無駄になってしまう…」
──なんで止められなかったんだろう。
「あなたが捨てた娘はここにいるぞと、あの男に面と向かって言ってやるまで、私は諦めることができないんだ…!」
俺が一番許せないのは…
真っ直ぐな瞳で言う君を前にすると、何も言えなくなってしまう、臆病な自分自身──……
「──ちッ、……しょう‼ ちくしょう……‼」
気を失っていたはずのトーマが、不意に苦しげに喚き出した。
床に仰向けになったまま、手で顔を覆い、何度も何度も悔しそうに。
「結局、俺は……何の役にもたってない……‼」
スノウには、トーマの心の中までは分からなかった。
だが、いつも余裕たっぷりに軽口を叩く男が、これほど感情をさらけ出して嗚咽を漏らしている。
無謀とわかっていながら、自分に戦いを挑んできている。
まるで殴ってくれとでも言うように──。
だからスノウは本気でそれに答えた。
トーマは敵だ。それは間違いない。
だがこの男の敵は、最初から別のところにいたのかもしれない。
「──早く、行けよ。間に合わなくなる……」
誰に対して言ったのか、トーマが天井を見上げたまま独りごちた。
起き上がる気配はない。
先程までの狂ったような闘争心は完全に消え失せていた。
スノウはトーマに声を掛けずに、白い壁に掲げられた大きな鏡の前に立った。
鏡面は本来は硬質だが、この鏡はセシリアの魔術によって、触れると液状に変わるようになっている。
サンダースはなんの迷いもなくここを抜けてきたが、スノウは束の間躊躇した。
だが、それもほんの一瞬だけ。
意を決し、スノウはそっと鏡に手を伸ばした──
次の瞬間だった。
バシィィッ‼
鏡に大きな亀裂が走ったかと思うと、弾けるように鏡面が粉々に砕けた。
「──!?」
パラパラと破片が床に散らばる。
一体どういうことだ?
ひとりでに鏡が割れたのか──⁉
いや、違う。ひとりでに割れた訳ではない。この鏡は向こう側と連動しているはずだ。
だとしたら、向こう側から割られたのだ。
その事実に、スノウの頭の中は真っ白になった。