第17話 王の真実
「ご無沙汰しております兄上」
ヘンリーク国王の影武者ルーファスは、壇上から降りてくるなりサイファスに向けて軽く会釈をして見せた。
そんなルーファスに、兄サイファスは懐かしそうに目を細める。
「久しいなルーファス。息災のようでなにより。こちらはローゼス侯爵ホルガルド様。そしてこの方が──」
サイファスはジェイスをホルガルドの従者としてではなく、王子として弟に紹介しようとしたようだが、それは叶わなかった。
目を血走らせたベラード伯爵が、紅潮を通り越した赤黒い顔で割って入ったからだ。
「何をしている⁉ 己の使命を忘れたのか‼」
烈火の如く憤慨する伯爵とは対照的に、ルーファスは怒鳴られてもなお冷静な表情で答える。
「もちろん忘れてはおりません。ですが、グラールの民である兄の目はどうやっても欺けません。故に、これ以上陛下のふりをしても無駄だと申し上げたまで──」
「ふざけるな‼ 影の分際で意見するなど‼ 貴様は命令に従っていれば良いのだ‼」
「ふざけているのはどちらですかな、ベラード伯爵!」
そう迫るような声を響かせたのはホルガルドだった。
ホルガルドはベラード伯爵の目をひたと見据え、ゆっくりと伯爵に近付きながら続ける。
「ここにおられるのは本物の国王陛下ではないと、お認めになるのですね?」
「そ、それは…──!」
「そちらから我らを王宮に呼び付けておいて、偽物で済まそうとなさったのですか…? 侯爵の位を持つ私に…?」
「ヒッ…──」
一歩一歩近付きながら発せられる凄みのあるホルガルドの声は、階級至上主義のベラード伯爵を震え上がらせるには十分だった。加えて侯爵として完璧なまでに整えられた容姿が、その迫力に拍車をかける。
以前のような無精ったらしい姿だったならこうはいかないだろう。
ホルガルドはベラードのような人間には、権力を振りかざすのが一番効果があるということを分かった上で、気勢を殺ごうとしていた。
「このような恥辱を私に強いるなど、国王陛下は何をお考えか。……それとも、別の誰かの差し金か……?」
一転して血の気が失せ青白い顔になったベラード伯爵に、ホルガルドが追い打ちをかける。
伯爵は完全に腰が引けてしまい、崩れるように膝をついた。
「だッ、断じて私ではございません‼ 私はただ、あの方に言われて──」
「あの方? 誰のことだ?」
ベラード伯爵は言葉を詰まらせた。口にしてはいけないことだったのだろう。代わりに肯定とも否定とも取れない唸り声を漏らした。
「言えッ‼ ベラード‼」
ホルガルドが怒声を浴びせる。先刻の高圧的な態度など見る影もなく、ベラード伯爵は縮こまった。
誰のことだろう。
名前を言うのも憚られる、あの方とは……。
「ルディア…」
スノウは直感で浮かんできた言葉を吐いた。
「──ヒッ‼」
ベラード伯爵がびくっと身体を跳ねさせこちらを見た。その反応だけでスノウは確信を持つ。
「魔女ルディアだな?」
伯爵は青ざめた表情のまま口を閉ざした。唇は引きつったように震えている。
「……ルーファス。そなたルディアという名を知らんか」
サイファスが弟に尋ねた。震えているベラードにこれ以上詰問しても無駄だろうとの判断だ。
ルーファスは何かを考えているのか少しの間沈黙したが、コクリと頷き喋りだした。
「はい、存じております。ルディア様は陛下の治療にあたられている方です」
「治療? 医者なのか?」
「いえ、祈祷師さまです」
「祈祷師……?」
兄弟の会話を聞いたスノウは深く眉間にしわを刻んだ。
確かにいるのだ。ルディアは。
ここに……。
「本日あなた方をここにお呼びしたのは、陛下ではなくルディア様です。何故なら陛下はもうずっと──」
「やめろ‼ それ以上言うな‼」
ベラードは悲鳴の様な声を上げてルーファスの言葉を遮ろうとした。だがルーファスは声の方を一瞥しただけで、またサイファスに向き直り、構わず続けた。
「国王陛下はもう何年も、ずっと寝台に臥せたまま、意識がありませんので……」
ルーファスの告白に、ベラードは一気に身体を脱力させその場にへたり込んだ。
勝手に動き回るなと随分とうるさく言っていたのは、これを隠したかったからなのだろう。
もしかしたら王宮内に人の姿が見えないのも、秘密を漏らさないよう、都合の悪い人間を排除していった結果なのかも知れない。
「やはり、影人を使っていたのはその為であったか……」
「おい、国王の意識がないって、だったらどうすんだ?」
突然サイファスに詰め寄ったジェイスを、ルーファスは上から下まで怪訝な表情で眺めた。
「兄上、この方は?」
「おお、そうであった。この方は、今はお姿を替えておられるが、先代国王陛下のご令孫、ジェラルド・イルーク王子だ」
「なんと──‼ イルーク王子……。生きておられたのですね」
ルーファスは答えを聞きひどく驚いたようだったが、すぐに目を細めて微笑んだ。その目が潤んでいるように見えたのは見間違いではない。
ルーファスの顔には、はっきりと安堵の色が浮かんでいた。
「お目にかかれて光栄ですイルーク王子」
国王ヘンリークの姿のままでルーファスが恭しく礼をする。しかしジェイスはいつまでも進行しない事態に痺れを切らしたのか、早口でまくし立てた。
「んなこたどうでもいい! それより、お前が偽物だっつーなら本物はどこにいんだよッ? オレらは本物のヘンリークに用があるんだ‼」
「落ち着きなさいな王子様。とりあえずこのおっさん縛り上げていい?」
と、ベラード伯爵を指さしてソールが言う。だが彼女が了解を取るよりも早くシュウは行動しており、ほどなく手足を縛られ猿ぐつわをされたベラード伯爵が床に転がった。
「ま、サイアク人質はこのおっさんでもいいもんね」
ぱんぱんと手を払いながらシュウが呟く。
「ルーファス、お前にもお役目がある事は重々承知している。だがこの国の未来のため、我らを国王の元へ案内してはくれまいか…」
改めて弟に向き直りサイファスが言った。
本来グラール人は簡単に職務を放棄することはない。サイファス自身が以前そう話していた。影武者のルーファスが主人である国王を危険に晒すような行動を取るはずがないのだ。
だが自ら偽物であることを明かし、熟慮しながらも真実を語ろうとするルーファスに、サイファスは説得の余地があると考えたようだった。
「……分かりました。兄上は、いずれグラールの族長となられるお方。知っておかなければならないでしょう」
ルーファスは長い沈黙の後、顔を上げてそう告げ、「こちらです」と先程自分が入室する際にくぐった扉に足を向けた。
木製の重厚な扉の反対側には長い廊下があった。
「この先は国王陛下のお住いです」
ルーファスはスノウたちを先導し、ワインレッドの絨毯が隙間なく敷かれた廊下を進む。
絨毯が分厚いためか足音はほとんど立たない。
「陛下はこちらにいらっしゃいます」
廊下をしばし歩いて立ち止まったルーファスは振り返って言った。
そこにはさっきと同じ木製の扉がある。
押して中に入ると、むわっと嗅いだことのないお香の匂いが鼻をついた。
部屋の中央には大きな天蓋の付いたベッドがある。光沢のあるカーテンがぐるっとベッドを覆っている為、寝ている人物の姿は見えない。
「なんかすげえ匂いだな。何だよこれ」
堪らずジェイスが鼻をつまんだ。
奴だけではなく、ルーファス以外の人間はみんな同じ感想を持ったことだろう。だがルーファスは匂いについては説明しようとはしなかった。
そのまま無言で寝台に近付き、カーテンを手で引いた。
「どうぞこちらに。これが国王陛下の現在のお姿です」
金糸の刺繍がふんだんに施されたカーテンの隙間からは、確かに誰かが横たわっているのが見えた。
胸の当たりまで上掛けが掛けられ、両腕はその上掛けの上に出ている。しかし顔は天井を向いたままで、動く気配はなかった。
あれが、国王ヘンリークなのだろうか。
もう少し近くで見ようと、ジェイスが寝台に近付いて寝ている国王の姿を覗いた時だった。
「なッ、なんだよこれッ⁉」
驚愕の声を上げ、ジェイスが後ずさる。
「これは……生きてるのか……?」
その声に、近くにいたサイファスとホルガルドが何事かと寝台に近付き、ジェイスと入れ替わるようにカーテンの中を覗いた。途端、二人とも同じように顔色を変える。
「──なッ‼」
スノウは顔を一層険しくした。
先程から匂っているお香の香りが、ルーファスが天蓋のカーテンを開けた事で更に強くなっている。
そしてお香に混じって漂ってくるこの匂い。
これは──…
「……腐ってるわ」
スノウの隣でソールがポツリと言った。
そう、これは腐敗臭だ。
腐敗しているのはおそらく──…
「ルーファス、国王は……まさか既に……」
サイファスが核心に触れる言葉を避けたまま尋ねる。だがルーファスは首を横に振った。
「いいえ、陛下は生きておられます。ですが、何故かお身体が徐々に腐敗してしまうのです。私が影人として召し上げられた時には既に、陛下はこのように臥せっておられました。何人もの侍医が診ましたが、原因はわかりません。治療ができるのは、ルディア様だけだと聞いております」
「おい待てよ‼ 治療って、できてねえだろこれ‼ こんな状態で生きてるなんて、どうなってんだよ‼」
「本日のご祈祷が、まだ終わっていないのでしょう。ご祈祷が終われば匂いは治まります」
ルーファスにとっては日常の出来事なのだろう。ひどく冷静に語る。だがその冷静さが、余計にこの部屋の中に異常さを漂わせているようにスノウには思えた。
「匂いが治まりゃいいってもんじゃねえだろ…」
ジェイスが青ざめた表情をしながら呟く。だが、ルーファスは聞こえていないのか何も答えないまま、鏡台の上の置き時計を見やり眉を寄せた。
「おかしい。いつもならこの時間にはご祈祷が始まっているはずなのに…」
その時、カタンッと微かな物音がしたかと思うと、次の瞬間、音もなくシュウが動いた。
入ってきた時とは別の、部屋の奥にある扉に足音を立てずに走り寄ると、シュウは扉に背を付けて息を潜める。
それを見てスノウも即座に体勢を取った。
シュウと一定の距離を保ったまま扉に近付く。
視線を向けるとシュウと目が合った。シュウは扉の向こうに一度視線を移すともう一度こちらを見る。
──扉の向こうに誰かいる。
唇の動きだけだったが、シュウがそう言っているのがスノウには分かった。