第9話 伝えられない思い
司令官を連れて屋敷に戻ったスノウは、玄関広間で不安げに行ったり来たりしていたヒメルを捕まえて司令官を引き渡した。
司令官は口では大丈夫だと言っていたが、身体が冷え切っているのか真っ白な顔をしていたので、部屋に戻ったらすぐに風呂に放り込むようにとヒメルに指示を出した。
サイファスは、スノウとは別働隊として部下に屋敷周辺の捜索をさせていたらしく、司令官が無事戻った事が分かると、何事もなくて良かったと頬を緩めた。
玄関広間には他にも不服そうに成り行きを見ているソールがいた。しかしスノウはソールには声を掛けずに、代わりに柱に隠れてこちらの様子を覗き見ているセグレトに詰め寄った。
何か言いたそうなソールの話を聞いてやる前に、済ませておかなければならないことがある。
まずはこの頭のおかしい薬師を叩きのめしてやらなければ。
胸倉を掴み上げて柱の陰から引き摺り出すと、セグレトは何かごちゃごちゃ喚いたが、スノウは一切無視して殴りつけ、それから絞め落としておいた。
これでしばらくは大人しくなるだろう。
「セグレトはスノウの事が好きなのよ」
イカレ薬師をのして、少しだけ憂さを晴らしていたら、それまで黙っていたソールがとんでもないことを呟いた。
「だから気を引きたくて仕方がないの…」
その言葉を聞いた途端、先程まで吹雪の中で感じていた悪寒に再び襲われた。
「…勘弁してくれ。冗談にも程があるだろう」
「ホントのことよ。セグレトだけじゃないわ。シュウもサンダースも、みんなあなたの事が好きなのよ。だから……、ちゃんと教えてスノウ。わざわざあんな世間知らずのお嬢ちゃんを助けに行ったりして、どうしちゃったの? まさか本気でお姫様の騎士になるつもりなの?」
ソールは不安げな表情で言った。彼女の静止を振り切って司令官を探しに行ったことを、やはり気にしているのだ。
だが何と答えれば良いのか、スノウは少し迷った。
騎士については、自分もよく分かっていない。いま確実に言える事は、司令官の側を離れたくないと、自分自身が強く思っていること──。
だがそれを説明する事が上手くできない。
「お前の言いたいことは分かる。報酬も貰わずに、何を馬鹿なことをやってるんだって言いたいんだろ? 俺もそう思っていたさ。でも、違うんだ。彼女は……」
彼女は魔女で、自分はその騎士で。
生まれるよりももっと前。前世からの絆があって。
だがそれを説明しようにも、上手く言葉にできなかった。
魔女の事はサイファスから少しは聞いているだろうが、心のどこかで繋がっている気がするなんて説明したところで、曖昧すぎて変な顔をされるに決まっているじゃないか。
「…上手く言えないが、これだけは言える。俺は、司令官を信じているんだ」
ただの殺し屋の自分を、彼女が信じてくれたように……。
信じられる要素なんてどこにも無いのに、そう断言している自分が可笑しくて、スノウは少しはにかんだ。
「ソールには理解できないかもしれないな。仲間でもない人間を信用するなんて…。でも、そういう存在がひとつぐらいあってもいいだろ?」
そう言うと、ソールは何処か悲しげに俯いて「そうね」とだけ答えた。
◆◇◆
男でも女でも、例え道端で誰かがのたれ死んでいようとも、今までスノウが特定の誰かに対して特別な感情を抱くことはなかった。
それがゴルダの仲間であれば助けはするが、仲間であっても既に息がなければさっさと遺体を埋葬し、次の仕事に向かうだろう。
彼はそういう男だ。
だがソールは、スノウがただ冷徹なだけの男だとは思っていなかった。
彼の性格が冷めているのは、常に冷静沈着でいることが殺し屋として必要なことだからで、感情が欠落している訳では決してない。むしろ本当の彼は情に厚い方だと思う。
だがその事を知ったのは、ソールがゴルダ村で暮らすようになってしばらく経ってからだった。
初めて彼に出会った時の印象は、無機質で機械的。
およそ人間らしくは見えなかった──。
ソールはゴルダ村の住人になる以前、とある娼館で下働きをしていた。
別に好き好んで働いていた訳ではない。
借金のカタに親に売られたのだ。娼館なんかにいる子供は大抵みんな売られた子供だ。
中には自分の意志で金を稼ぎに来た子もいたかもしれないが、そんなのはごく少数。ほとんどの子供は自分が借りたわけでもない借金を背負わされ、雀の涙ほどの賃金で朝から晩まで働かされていた。
だが下働きだけで借金を完済できるほど売春ビジネスは人情深くない。
食費や衣服、生活必需品に至るまで何かにつけて借金に上乗せされ、元金は減るどころか増える一方だった。
娼妓として客を取るようになれば借金なんかすぐに返せる。楼主のそんな甘い言葉に騙され、売り出すことが決まったばかりだったある日のこと──。
それは、スノウにとってはいつもと変わらない殺しの仕事に過ぎなかったと思う。
ターゲットは娼館の客で、週末になると決まって一人でやって来て派手に遊んでいく男だった。男はその日いつも以上に酒をあおり、酔いに任せて娼妓の姐さんたちを追いかけ回していた。
娼館で暴れる酒癖の悪い客は時たまいる。そういう時、ソールはいつも遠くから見ているだけにしていた。だがその日は自分がお世話をする姐さんにまで危害が及びそうになり、黙って見ていられなかった。
客の男は不意に割り込んできた邪魔者に始めこそ逆上したが、しこたま酒を飲んで気分が高揚していたからか、急に態度を変え、突然ソールを担ぎ上げそのまま寝室に連れ込んだのだ。
ソールは力一杯暴れた。だがどんなに暴れても男の腕はびくともしない。ソールを寝台の上に放り投げ、男は寝室の扉を後ろ手に閉めた。
その子は勘弁してください、と慌てた様子で叫ぶ姐さんの声が扉の向こうから聞こえる。しかし客の男は一向に構わず、不気味な笑みを浮かべながら、荒い息を繰り返してにじり寄って来た。
怖い、こわい。助けて。
そう叫びたいのに、ソールはうまく声が出せなかった。
自分と同じ人間のはずなのに、何もかもが違うこの生き物が、心の底から恐ろしいと感じた。
しかしそう思ったのは束の間だった。
何の前触れもなく、客の男がどうっと倒れ込んできたからだ。
何が起きたのかすぐには理解できなかった。ただ先程まで化け物のように恐ろしかった男が、突然うつぶせに倒れ、そのまま一言も発することなく動かなくなってしまったのは確かだった。
ふと気付くと、男の後ろに誰かが立っている。
頭のてっぺんから足の先まで、真っ黒い衣服に身を包んだ……子供?
確かにそれは子供だった。
娼館で見かける大人に比べ、四肢も伸び切っておらず、顔も幼い。
しかしここは娼館だ。子供の客がいるわけがない。もしかして死神だろうか。
ソールはじっとその子供の姿を見つめた。
年齢はそう自分と変わらないくらい。全身黒一色なのかと思ったが、瞳だけは目が覚めるほど綺麗なブルーで、その瞳で客の男を無言で見下ろしている。
その、ゾッとするほど冷たい視線。
何の感情も読み取れない瞳。
本当に、死神かもしれない。
その子供に気を取られていたソールは、急に暗がりから聞こえた何かを引き摺る音に、思いっきり飛び上がる事になった。
音の主は片足が義足の老人で、現れるなり「ほほう」と感嘆するような声を上げた。
「お前、そのかんざしでそいつの喉元を刺すつもりだったのか?」
言われて初めて、自分が金属製のかんざしを胸の前でぎゅっと握りしめていた事に気付いた。
それはいつも自分が髪に差している物で、先端が細くて鋭利ではあるが、それで人を傷付ける事が出来るかと言うと甚だ疑問が残る代物だ。だが今自分が身に付けている物で、武器になりそうなものと言えばそれ以外にはない。
一体それで何をしようと思ったのかは自分でもよく分からなかった。
老人の言うように相手を殺そうとしていたのか、それとも貞操を守って自害しようとしていたのか……。
ただ義足の老人はソールのその行動がいたく気に入ったようで、面白そうにこう言った。
「なかなか見所がある。どうだ、お前。殺し屋にならねえか……?」
これが、人生を変えた殺し屋たちとの出会いだ。
ソールはその日を境に親にもらった名前を捨てた。
通常殺しの仕事は2名一組で行う。一人は実行役、もう一人は監視役だ。
監視役は、実行役が仕損じたり、ターゲットと結託して逃がしたりしないように見届けるのが仕事だ。
ソールの運命を変えたその日、スノウの監視役は元締めだった。後で聞いた話だが、元締め自ら監視役を勤める事は当時でも珍しいことだったらしい。
どうせ仕事ついでに娼妓遊びをしようと考えただけだったのだと思うが、ソールにとってはそれが幸運だったと言える。
もしその場にいたのがスノウだけだったら、殺し屋にならないかと誘ったりはしなかったはずだから。
殺し屋になるか娼婦になるか。
結局選べる選択肢はそれしか無かったのだが、娼婦として男に媚びを売りながら生きるよりは、今の方が何倍も良いとソールは思う。
ゴルダ村の住人になってまず驚いたことは、出会った時はただただ人形のようで冷たい人だと思ったスノウが、殺し屋予備軍として修行に励む年少者たちの面倒を、よく見ていた事だ。
その時にはもう元締めが弟子たちに直接稽古をつける事はほとんど無く、みんな必要な技術はスノウから学んでいた──。
スノウは子供たちから信頼されていた。
誰にでも分け隔てがないのだ。でもそれは仲間のみんなに優しいという意味ではない。
スノウは誰に対しても厳しかった。もちろん自分自身にも厳しいのだが、特に年少者に稽古をつける時は鬼のようだった。
殺し屋組織という事を考えれば、それは当然だ。
いくら子供同士と言えども遊びでやっている訳ではないし、やっていることは殺人術の修得。なま易しいものであるはずがない。
みんな練習の段階から刃物や銃と言った武器の類いは本物を使い、本気で殺すつもりで組手をする。
当然修行の過程で大怪我をする者や、時には命を落とす者もいるし、無事に修行を終え殺し屋として仕事をするようになっても、意気揚々と村を出て行ったきり帰ってこない仲間だって何人も見てきた。
気の合う仲間だったりすると最初は悲しいと思ったが、だがそれも最初だけだ。自分は同じ轍を踏まないようにと、更に必死で修行に打ち込んだ。
そんな時もスノウはあくまでも『スノウ』で、悲しんだり、落ち込んだりする素振りは微塵も見せなかった。まわりもそれが当たり前だと思っていたかも知れない。
だが彼は、本当は誰よりも仲間の死を悼んでいるのだ。
何故なら、仲間であっても標的であっても、死に直面する度にスノウの瞳の鋭さは増していくのだ。
まるで死んでいった者の業までも、自ら引き受けているかのように──。
村の子供たちの間にはこんな噂がある。
──スノウは初めて殺しの仕事をした時もまったく躊躇せずにやってのけた──。
どんな凄腕の殺し屋でも、初めて殺しの仕事をする時は大なり小なり動揺する。でもスノウにはまったくそれがなかったという。
でもゴルダ村に来たばかりの頃、酔っぱらって上機嫌な元締めが、酌をしていた自分にだけ話してくれた。
スノウは初仕事の後、自ら命を絶とうとして元締めに殴り倒された事があると──。
『仕舞いにゃあいつ、俺に喰ってかかりやがった。人の命を奪ってまで生きる価値はあるのか。そこまでして自分は生きるべき人間なのか。ってな。だから俺は言ってやったのさ。人間いつかはみんな死ぬんだ。だったら何をやって生きても一緒だろうって──。そんな甘っちょろい事言ってた奴が、今や村一番の殺し屋だからな……』
そう言って、がははと元締めは笑う。
その後も上機嫌に何か喋っていたが、ソールの耳には入って来なかった。
あんな何の感情も表さない顔で正確無比に仕事をこなしているスノウが、絶対の存在である元締めに歯向かった。
それがまずソールには驚きだった。
そして歯向かってまで言った言葉は、ソールの中のスノウという人物を大きく変えるきっかけとなった。
人の命を奪ってまで、自分は生きるべき人間なのか。
死ぬべきなのは、本当は自分の方なんじゃないのか──。
そんなことを考えながら、スノウは仕事をしている……。
今の研ぎ澄まされた彼は、そんな心の自問を繰り返したからこそあるんだと、その時初めて知ったのだ。
いつも静かにまわりを見渡すあの瑠璃色の瞳は、どこまでも深く……そして暗い。
でもいつか、あの瞳が自分だけを映してくれたら。
いつの間にかそう願うようになっていた。
スノウにとって特別な存在になりたい。
少なくとも自分にとってスノウは、特別な存在だから……。
『支えになりたいんだ。彼女を守る事は出来なくても、騎士として、そばで支えられるように……』
そう言って、引き止めた腕を振りほどいて彼は行ってしまった。
支え? 騎士? 何を言っているの⁉
スノウの背中が見えなくなっても、ソールはしばらくその場から動けなかった。
本当は、最初に再開した時からスノウの変化には気付いていた。
雰囲気というか、何となく伝わってくる空気が違う。でもなかなか認められなくて、離れている間にどこかで頭を打っておかしくなったんじゃないかと、真剣にそう考えようとしていた。
雪まみれになりながら少女を連れて帰ってきた時のスノウは、まるで本当に少女を守る騎士のようで──。
「──ちゃんと教えてスノウ。わざわざあんな世間知らずのお嬢ちゃんを助けに行ったりして、どうしちゃったの? まさか本気でお姫様の騎士になるつもりなの?」
そう尋ねると、困ったような顔をしてスノウはゆっくりと頷いた。
「…お前の言いたいことは分かる。報酬も貰わずに、何を馬鹿なことをやってるんだって言いたいんだろ?」
違う。報酬の事を言っているんじゃない!
だって、今まで誰一人としていなかったじゃないか。そんなふうにスノウが気に掛ける人間なんて──!
「…俺もそう思っていたさ。でも違うんだ。彼女は……」
そこまで言って、スノウは言葉を切った。上手く表現できない。そう言いたげに俯く。
だが次に顔を上げると、信じられないくらい澄んだ瞳を向けてきて言った。
「上手く言えないが、これだけは言える。俺は、司令官を信じているんだ」
それを聞いた瞬間、気付かされてしまった。
ああ、やっぱりスノウは変わったんだ。
仲間の自分でさえ開ける事が出来なかった心の扉が、開いたんだと──。
それ自体は、ソールにとっても喜ばしい事だと思う。ただその扉を開けたのが、自分ではなかったという事実が悲しくて、悔しい。
「ソールには理解できないかもしれないな。仲間でもない人間を信用するなんて…。でも、そういう存在がひとつぐらいあってもいいだろ?」
そうね。としか言えなかった。
(そうね…。私には理解できない。でも、それはお互い様…)
スノウだって、こっちの気持ちなんて、きっと分かっていないんでしょう?
だったらこっちだって、絶対に理解してなんかあげない。
そう心の中で呟いて、ソールは唇を噛んだ。