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ひと風呂五〇〇円

作者: 高橋逸平

 朝食はいつも娘と二人で食べる。

 妻の春江は、食事よりも先に後片付けや洗濯を優先するので、三人同時に食べることはまずない。

 だからだろうか。

 誕生日や結婚記念日のプレゼントなど、春江に聞かれたくないようなことを、朝食時に話すことが多い。

 ただ、今日の話だけはいつもと毛色が違った。


「今日は500円ね。お父さん!」

 娘の声の大きさに、幸一の口から味噌汁がぴゅるっと飛び出した。

 あわててフキンで口と机をぬぐうと、春江の姿を探して視線を巡らせる。リビングとキッチンにはいない。どうやら脱衣所のほうで洗濯物を洗濯機に詰め込んでいるらしい。

 胸をなでおろし、険のこもった目で涼子を見据える。

「涼子っ……! お前、母さんに聞こえたらどうするんだ」

「えー? 聞こえたっていいじゃん。別にやましいことじゃないんだし」

 涼子は悪びれる様子もなく笑って答えたが、幸一の心中は穏やかではなかった。

 こんなことがバレたら、春江になんと責められるか……。

「金が絡んでる時点で、十分やましいっ!」

 思わず声を張り上げてしまうと、涼子の顔に焦りが浮かんだ。

「わっ、お父さん、お母さんに聞こえ――」

「どうしたの?」

 不意にかけられた涼子ではない女性の声に、ビクッと眉が跳ね上がる。

 ゆっくりとリビングの入り口を見やると、春江が洗剤片手に不思議そうに眺めていた。

 ああ、まずい。聞こえてしまったか!?

 なるべく焦りを見せないように努め、幸一はどうはぐらかそうかと考える。

 すると、

「また涼子がオカズ盗ったの?」

 春江が呆れたように言った。

 これ幸いとばかりに「まあそんなところだ」とぎこちない笑みを返す。

 涼子が睨んでいるのが視界の外からでもビシビシ伝わってきたが、無視しておく。

 春江は特に疑う様子もなく「だめよ、涼子」と、ため息交じりに注意し、再び洗い物に取り掛かった。

「お父さん……ひどい……」

「朝っぱらから、こんな話をするお前が悪い」

 バッサリと涼子の呪詛を切り捨てる幸一。

 しかし、なんだかんだ言っても濡れ衣を着せてしまったことに対して、ほんの少しだけ罪悪感はある。

 小さくため息をつくと、楽しみにとっておいたウインナーを涼子の皿へと移してやった。

 目をしばたたかせる涼子。しかし、幸一の意図に気付いたのか「お父さん大好き」とにっこりと笑ってウインナーを口へと放り込んだ。

 単純な娘に育ったな。

 そう苦笑する幸一は、皿に残るサラダの制圧に取りかかる。

 幸い今の件で涼子は元の話題を忘れてしまったのか、何も言ってこない。

 しばらくして、綺麗に朝食を平らげた涼子は、

「ごちそうさまっ!」

 と手を叩き、登校の準備を始めた。

 準備といっても、すでに必要なものは傍らに置いてあるので、コートを羽織り鞄を手に取るだけで終る。「いってきまーす」と玄関へ向かおうとする涼子だったが、何を思ったのかリビングから消える直前で急停止した。

「どうした?」

 何か忘れ物でもしたのだろうか?

 しかし、クルリと振り向いた涼子の顔は、そうではないことを物語っていた。

「今日も五〇〇円ということで!」

 眩しいぐらいの満面の笑顔でそういうと、玄関へ走り去った。


   ***


 天気予報によると、今日は二月にしては比較的暖かいらしい。

 そうは言っても『比較的』という言葉がついているだけで、吐く息は白く、寒いことには変わりがない。

 それなのに、隣の歩くクラスメイトときたら……。

「あんた、寒くないの?」

「うん寒い」

 でしょうね、と相槌を打つと、早苗は涼子の姿をもう一度観察する。

 上はコートを羽織って暖かそうなのだが、スカートからはむき出しの太ももが顔をのぞかせている。寒そうなことこの上ない。はっきり言って見ている早苗のほうが寒くなる。 

 この時期、早苗たちが通う学校の女子は、ジャージを装着して学校に通うことが多い。それ以外は黒タイツを履いて太ももを寒さから守るのが常識。現に、早苗を含め同じ通学路で見かける女子たちは、皆ジャージか黒タイツで冬に対抗している。

 それなのに、

「ジャージはカッコ悪いから嫌。黒のタイツってなんかエロ―い感じがするから嫌」

 と涼子は、温かさよりも見た目を重視するのだ。

 前者はともかく後者の意見には賛同しかねるが、根性だけは立派なものである。それに本人が満足しているのだから問題はないだろう。

 その証拠に、歯をカチカチいわせながらも、涼子はニコニコと笑顔を見せている。

 不思議なことに、いつも以上に顔全体に笑みがにじみ出ていた。

「……なんか、今日は機嫌がいいわね」

 そう言ってから、「しまった」とつぶやいた。

 涼子がキラキラした目で、こちらを見つめてきたのだ。こういう時の涼子はすこぶる面倒くさい。

 案の定、猫のように体を摺り寄せ、

「わかっちゃった? 聞きたい? ね、聞きたい?」

 と上目づかいをしてきた。

「あ、いや、いいです。聞きたくないです。全然」

「えー、そんなに聞きたいのー? どうしよっかなぁ~」

 人の話聞きなさいよ、めんどくさいわねっ! と言いそうになるのを堪え、「いいから言いなさいよ」と促がした。

 もう少し焦らしたかったのか、涼子は不服そうな顔を浮かべる。

 だが、相当誰かにしゃべりたかったようで、

「あのね、今日お父さんとお風呂入るの」

 と耳打ちするような小さな声で、心底嬉しそうに言った。

「なんだ、そんなこと?」

 期待外れもいい所である。

 てっきり、「告白が成功した」とか「こずかいが大幅アップした」とか言ってくると思っていただけに、肩透かしを食らった気分になり、早苗は肩をすくめた。

 お父さんとお風呂なんて、別段嬉しいことでは……お父さんとお風呂?

「はぁああああああ!?」

 今、なんて言ったのこの娘!?

 驚きのあまり恥も外聞もなく絶叫する早苗に、間近で大音量を叩きつけられた涼子は抗議の声を上げる。

「ちょっと早苗! 急に叫ばないでよ、びっくりするじゃない!」

「こっちのほうがびっくりしてるわよ! あんた、高校生にもなってお父さんとお風呂入ってるの!?」

「うん」

 即答する涼子の様子は、なに当然の事きいてるの? とでも言いたげであった。

 いやいや、当然ではない。

 高校二年生の女子といえば、花も恥じらう乙女だ。同性の母親でも嫌だし、父親なんてもっと嫌だ。もし「ちょっと一緒に風呂でも入らんか」なんて誘われたら、全身にじんましんが出ること間違いないだろう。

 すでに考えただけで鳥肌が立ちかけている早苗をよそに、

「でもねー、一回五〇〇円って正直ちょっときついんだよねー」

 などと涼子は話を続けた。

 しかも、突っ込みどころ満載の話をだ。

「何その家庭内援助交際!? しかも、安いっ!」

「援助交際っていわないでよ! それに、全っ然安くない! おこずかいが厳しいお父さんやわたしにとっては、五〇〇円って大金なんだからね!」

「大金って、大げさな……」

「大げさじゃないよ! 今月なんて特に厳しいんだから!」

 そう言うと涼子は鞄から財布を取り出し、中身を見せつけた。

 硬貨が四枚。五〇〇円玉が一枚に、一〇円玉が二枚、一円玉一枚――計五二一円。

 それが彼女の全財産だった。

「うわぁ……ビンボー……」

 こんなものでは、ちょっとお菓子を買ったらすぐになくなってしまう。

 いや、そんなことより、五〇〇円玉は昨夜の入浴料だとすれば、この娘は昨日まで二一円が全財産だったということである。

 どんだけこずかい少ないのよ。

 そう憐れむ早苗だったが、ふとあることを思い出した。

「あんた、つい四、五日前まで樋口一葉持ってなかった?」

 この前一緒に駅前まで遊びに行ったときには、たしかに五千円札を持っていたはずだ。しかも、冷やかすだけ冷やかして帰ったので、樋口さんは財布から出て行っていない。

 財布を鞄に戻した涼子は、「あったけど、チョコ買ったらなくなった」と答えた。

「チョコ買ったって……どれだけ食べたのよ」

「食べてないよ! 高いチョコだったの!」

 失敬な! と涼子は頬を膨らませた。

 なんで樋口さんが無くなるような高いチョコを……と思うが、すぐに答えに行きつく。

「ああ、そういえば明後日バレンタインね」

「うん、そう。ちょっと奮発してゴディバのチョコにしたんだ」

 早苗は目を丸くした。

「ゴディバっ……! あんた本気ね。誰? 誰狙ってるの?」

 喰い気味で尋ねると「早苗が教えてくれたら教えてあげる」と、涼子ははにかんだ。

 その反応に、早苗の胸の内に熱いものが込み上げる。

 これですよ、これ。うら若き乙女の会話ってのは、こういう話でなければ! お父さんとお風呂がどうのこうのって話は女子高生がする話じゃないのよ!

 やっと女の子らしい会話になったことに早苗は安堵し、涼子の意中の相手を推理することに登校時間を費やすことにした。


   ***


 夫を玄関で見送る。

 それは新婚の時から変わらない。

 いつもと違うことがあるとすれば、

「ねえ、五〇〇円ってなに?」

 と、鞄とともに一つの疑問を渡したことだろう。

 春江の問いかけに、幸一の眉がピクリと跳ね上がった。

 こういう反応を示すときは、たいてい聞かれたくないこと聞かれた場合が多い。

 その証拠に、

「……なんでもいいだろ」

 と、声を低めて「俺は今機嫌が悪いんだ。あんまり話しかけないでくれ」という雰囲気を醸し出してくる。

 これは付き合い始めたころと変わらない癖だ。変わったことがあるとすれば、意外にかわいいと思っていた当時と違い、今では春江を高確率で苛立たせることだろう。

「五〇〇円とはいえ、お金が絡んでいる以上なんでもよくはありません」

「そ、それはそうだが」

 春江の言葉に、幸一は目に見えてうろたえた。やはりやましいことらしい。

 そこで春江は追い打ちをかけることにした。

「そういえば、あの子この前なにか買ってたわ。まさか、『今月金欠なのー』とかあの子に言われて、おずかいあげたりしてないでしょうね?」

「そんなわけあるか」

「じゃあ、五〇〇円ってなに?」

「…………」

 黙り込む幸一。

 ならば、と春江もあえて何も言わず、沈黙しプレッシャーを与えてみる。

「…………」

「…………………」

「…………………………」

「………………………………五〇〇円ってのはだな」

 先に折れたのは幸一だった。

 ものすごくバツの悪そうな顔で、「その……あれだ……」と頬を掻きながらもごもごと話し始める。

「涼子と一緒に風呂に入るとだな……その、五〇〇――」

「はあっ!?」

「い、いや、俺も悩んだんだ。でも、五〇〇円ってのは俺にとって非常に魅力的な金額でな……それに、涼子から言ってきたんだぞ」

 開いた口がふさがらない。

 そりゃあ、高校生になっても娘とお風呂に入れたら父親としてはうれしいだろう。だからと言って、少額とはいえお金を渡すことはいただけない。 

 しかも、娘の提案らしい。

「全く……なんでそんな援助交際みたいなことを……。どうかしてるわ、あの娘」

「だ、だよな」

「了承したあなたもね」

「すまん……」

 しゅんとする幸一に、――そうよ、反省しなさい。そう心の中で呟く。

 それにしても本当に涼子は何を考えているのか。親からそんな方法でお金を取るとは言語道断だが、取るにしても五〇〇円とは安すぎるではないか。

 と、その時。春江の頭の中によぎるものがあった。一度よぎると、どうしても聞きたくなる。

 春江は軽く咳払いをして、

「ねえ、わたしは?」

 と恐る恐る尋ねてみた。

「う、うん?」

「わたしとだったら、いくら?」

 気になる。すごく気になる。

 すると幸一は眉根を寄せた。

「いや、さっきお前――」

「いいから、答えなさいよ。正直にさ。怒らないから」

 煮え切らない態度に、春江の語気が強まった。

 幸一はまだ何か言おうとしたが、顎に手を当てぶつぶつと考え始める。

「え?」

 つぶやきから聞こえた単語に、春江は思わず反応してしまう。

 すると幸一は、ひどく焦った表情を浮かべると、わざとらしく咳払いをした。

「やっぱりよそう。お前の言うとおり、こんなことでお金の受け渡しってのはおかしい」

 そう苦笑いをすると、「少々惜しいが、今日の入浴は断るよ」と付け足した。

「あら、別に入ってもいいのよ」

 急にやさしい声色を出した春江に、幸一は目を丸くした。

 そんなに、驚かなくてもいいじゃない。だって、聞こえてしまったんだもの。幸一が「……一万……いや、三万……」と春江をそんなに高く評価していたことを。

 ピチピチ――いや、若さあふれる娘はたかだか五〇〇円で、四〇前半の自分は一万や三万。

 これほどうれしいことはないだろう。

 内側から湧き上がる優越感にニヤニヤしながら、「そんなことより、遅れちゃうわよ」と幸一の背中を押す。

「お、おい、押すな」

「はいはい。ほら、行ってらっしゃい」

 にっこりと笑って送り出す。

 急に態度が一変した春江の様子に首をかしげながらも、「いってきます」と言って幸一は家を後にした。

 幸一が居なくなると、春江はすぐさま脱衣所に向かう。主婦は忙しい。洗濯に掃除、夕飯の献立まで考えなければならない。しかも今日は銀行にまで行かなければならないため、大忙しだ。

 すでに洗い終わった洗濯物を籠に押し込みながら、

「そういえば……あの子のおこずかいってそんなに少ないかしら?」

 と頭を悩ませた。

 涼子には月に五〇〇〇円渡してある。いや、確かに金額だけ見れば少ない。だが、度が過ぎない限り洋服代も携帯代も春江の財布から出している。正直五〇〇〇円もあれば十分なはずだ。少なくとも、春江が学生だった頃はそうだった。

「はぁ……今どきの子はもうちょっとこずかい渡したほうが良いのかしらね……」

 こりゃあ、家計簿と相談しなきゃね。

 そうつぶやくと、洗濯物であふれそうな籠を持ち上げた。 


   ***


 三秒ルールとか関係ない。

 今なら、おなかの中に存在するビフィズス菌だかそれっぽい良い菌が、全力を挙げて敵を排除してくれるだろう。

 だから――

「ちょっと! なにやってるのあんた!?」

 血相を変えた早苗の叫びが教室に響き渡ると同時に、涼子の手からから揚げが零れ落ちた。

 そのままから揚げは、教室の床をコロコロと転がり続け、埃のコートを羽織ってしまった。

 さすがにあれでは食べられない。さっきまではTシャツ程度にしかかぶっていなかったというのに……!

「なにするのよ!」

「そりゃ、こっちのセリフよ! 床に落ちたもん食べようとするなんて頭おかしいんじゃないの!?」

 涼子の奇行に、早苗は金切声をあげた。

 今は、昼休憩。

 それは、学校生活の中で一番長く、そして一番待ちわびる時間である。

 朝食をしっかり食べたはずの胃は、二限目の後半から空腹を訴えてくる。しかも周囲に聞こえる方法で。

 地獄のような時間を超えてたどり着いた、憩いの時間。

 だが、今の涼子にとってその時間は何とも耐え難い時間であった。

 なぜなら、

「だって、今日お弁当忘れたんだもん! おなかすいたんだもん!」

 というわけである。

 お父さんとのお風呂のことで頭がいっぱいで、弁当の事なんて忘れてしまっていたのだ。

「だからって、わたしが落としたから揚げ食べようとしないでよ」

「ま、まあ、三秒ルールはちょっと過ぎてるけど」

「三秒ルールの適用を一瞬でも考えたあんたにはびっくりするわ」

 そう言うと、早苗は席を立った。から揚げを拾い上げ、ゴミ箱へと放り投げる。

 ああ……もったいない。

 から揚げの行方を涼子が凝視していると、正面の席に戻った早苗はため息をついた。

「大体、弁当ないなら購買行きなさいよ。いつもそうしてるでしょ?」

「お金がない……」

「五百円玉あったでしょ……それでも足りないっていうんなら貸すわよ?」

「返さなくてもいい?」

「なんでよ」

 ペしッとおでこを叩かれた。

「しかたないじゃん! 金欠で返す当てなんてないんだから!」

「嘘つくな。あんた、今日お金入るでしょ」

 その言葉に、涼子は首をかしげる。

 我が家のおこずかい支給日は、お父さんの給料日の翌日だ。

「……おこずいがもらえるのは来週だけど?」

「違う違う。五〇〇円もらえるでしょ?」

「え? なんで?」

 早苗は何を言っているのだろう。

 別に、お金を貰える予定など一つもない。祖母が遊びに来るわけでもなければ、家事を手伝ったりもしてない。しかも、五〇〇円って一体……?

 頭を悩ませる涼子の姿に、早苗は呆れたように口を開いた。

「なんでって――」

 と、その時。

 机の上で涼子の携帯が、光を発しながらガガガガッと振動した。

 赤と緑の光が交互に発せられる。この光り方は、メールだ。

 涼子は携帯を手に取り、送信者を確認する。

「あ、お母さんからだ」

 めずらしい、とつぶやく。

 涼子から母にメールを送ることはあっても、母から送られてくることはあまりない。

「『お弁当忘れてるわよ』とか?」

「うん、件名にそう書いてある」

 軽く相槌を打ち、本文を開く。

『お弁当忘れてるわよ』

 なぜ件名と同じ分を本文に書くのだ、お母さん。しかも、この時間になってそれを教えられても困る。

 涼子は苦笑し、続きを読む。

『次のおこずかいから、二〇〇〇円アップしてあげる』

「ええっ!? なんで!?」

 思わず声を上げてしまう。

 深呼吸をし、もう一度が液晶画面を見つめる。

『次のおこずかいから、二〇〇〇円アップしてあげる』

 やっぱり、そう表示されている。

 じぃっと画面を凝視する涼子に、「どした?」と涼子が声をかけてきた。

「……来週のお小遣い、二〇〇〇円アップした」

「へぇ、よかったじゃん」

「う、うん。なんでかはよくわからないけど……」

 そう曖昧な返事を返す。

 なんでだろう、と不思議に思っていると、まだメールに続きがあることに気付く。

『あと、お父さんとの入浴はなるべく控えるように』

「あちゃー、バレちゃってるね」

 いつの間に近づいたのか、早苗は涼子の肩越しに液晶画面を覗き込んでいた。「見ないでよっ」と抗議すると、肩をすくめて再び向かいの席に腰を下ろした。

「わたしとしては、『入るな』って書いて無いことに驚きだけど……。てか、これって母親公認の援助交際?」

「だから援助交際じゃ……」

「似たようなもんでしょ。でも、よかったじゃない。こずかい上がったんだし、しばらくはお父さんとの入浴も無しね」

「え? なんで?」

 涼子の頭の上に大きなクエスチョンマークが浮かんだ。

「なんでって……え、なに? あんた、二〇〇〇円も上げてもらってまだ足りないっての?」

「? まあ、もうちょっと欲しいとは思うけど……」

「強欲ねー」

 その突っ込みに、すかさず涼子も切り返す。

「だってよく考えてよ! 二〇〇〇円じゃ、お父さんと四回しかお風呂入れないんだよ!」

「あたしだったら、父親と四回も入りたく――なに?」

 急に早苗が目をしばたたかせた。

「え、ちょ、ちょっとまって。なに? えっ?」

 軽いパニックに陥る早苗。

 急にどうしたんだろう。

 涼子が首をかしげていると、挙動が怪しくなった友人は深呼吸をし、少しずつ冷静さを取り戻した。

 そして、

「ごめん、一つ聞きたいことがあるんだけどいい?」

 と、なにやら真剣な顔でこちらを見据えてくる。

 その雰囲気に、涼子は自然と姿勢を正した。

「えーっと、一緒にお風呂に入るのに五〇〇円なんだよね?」

「うん」

 今朝もそう言ったでしょう? と答える。

「もしかして、なんだけど……いや! 間違ってたらごめんね? 確認よ、確認」

 念を押すようにそう言うと、一拍の間をおいて、

「五〇〇円、あんたが払ってお父さんとお風呂入ってるの?」

 と恐る恐る尋ねてきた。

「そだよ?」

 早苗が目を剥いた。

 しかし、それに気付かず、涼子は話を続ける。

「ずっと前から、『一緒にお風呂入ろっ』って誘ってたんだけど、断られ続けてたんだよねー。で、最近お父さんのこずかいが下がったの知ってね。『五〇〇円あげるから、おねがい!』って言ったら、すっごい悩んで『……わかった』って言ってくれたの!」

 そう上気した顔で語る涼子に、早苗は呆れきった顔を見せる。

「折れるほうも折れるほうだと思うけど……てか、あんたって、ファザコンだっけ?」

「んーん。お父さんが好きなだけ」

 お父さんは、わたしやお母さんのために毎日働いてくれている。雨の日も、風の日も、台風の日も……とにかく毎日だ。小学校の頃なんて、涼子のために有給までとって授業参観や運動会に来てくれた。家庭科の授業で失敗したお菓子を、「うまいうまい」と、若干むせながら食べてくれた。

 これでお父さんに惚れるなと言うほうが無理な話だ。

 ああ、もうっ! お父さん大好きっ!

 顔を上気させながら父に胸をはせる涼子を、早苗は冷ややかな目線で眺めていた。

「まさかと思うけど、今朝あんたが言ってたゴディバのチョコって……」

「お父さんにあげるつもりだけど……――あれ? なんでそんなに引いてるの?」

「ううん、なんでもない。ちょっと、きもちわるいなーって思っただけ」

 気持ち悪い、ってひどいなぁ。「早苗もお父さんに上げるでしょ?」と頬を膨らませながら言うと、

「絶対嫌」

 早苗は顔をしかめた。

 こいつはお父さんをなんだと思っているのだろう。

 そう憤慨していると、ギュルルッ! とかなり恥ずかしいと声を腹部が上げた。

 チョコの話をしたから、胃が空腹を思い出したらしい。

「で、どうすんのよ。四回分のうち、一回我慢すれば今の空腹はしのげると思うけど?」

 その呆れきった問いかけに答えたのは、涼子の口ではなく胃だ。

 早苗は笑いをかみ殺しながら、財布から五〇〇円玉を取り出た。

 それを受け取り、今頃戦場になっているであろう購買へ向かうため立ち上がる。

 おいしいものが残ってますように!

 そう願い、走り出そうとすると、

「でもさぁ」

 早苗が声を上げた。

「メールの内容から察するに、このこと知ってたわけでしょ? 『なるべく控えるように』ってメール送っておいて、なんでこずかいアップしたの?」

 言われてみればそうだ。

 一緒に入ってほしくないなら、こずかいを上げるべきではない。それに、おこずかいが上がるようなことは一切していないはずだ。

 お母さんによほど何かいいことがあったのだろうか?

「うーん……わかんないや」

 そう答えると、涼子は走り出し教室を後にした。

 今は、空腹をなくすことのほうが先なのだ。


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― 新着の感想 ―
[良い点] なんてほのぼのした話でしょう! お風呂の話だけに心暖まるお話でした。 天然な娘さんも可愛かったし、オチもすばらしいです。 [一言] この話のオチ、お母さんには知られたらほのぼのが一転しま…
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