イリューカの巣
初投稿です。
子供に読み聞かせるようなイメージで書きました。
子供と子供の戯れを見るような目で読んでいただければ幸いです。
『イリューカの巣』
***
まだずっとずっと昔のお話。テレビができるより、電車ができるよりずっとずぅっと前、ちょうど私たちの最初のご先祖様が、日本にやってきた頃のお話です。
驚かないでくださいね?
この地球には“竜”が居ました。
その頃の地球は氷河期と言って、今よりとっても寒くて、冬には湖や池も長いこと凍っていました。その寒さが竜たちには肌に合っていたので、竜は地球上にとてもたくさん居ました。
どのくらい? そう、空を見ても山を見ても、必ず竜が見えるくらいです。竜は空の高い高いところまで飛べたので、空に溶けてしまって、見ている先に居るのか分からないこともあるのですけれどね。
まあ、とにかく、たくさんたくさん竜が居たのです。このお話は、そのたくさんの竜のうちの、今の地球でいうフランスの南の辺りで生まれた、イリューカという竜のお話です。
その頃のフランスはたいへん寒かったものですから、人間はみんな洞窟の入口や岩陰で暮らしていました。ほら、ラスコーの洞窟なんて、知っているでしょう。その辺りのところのことです。
イリューカは、入った瞬間に歯が震えてしまうくらい冷たい水の中で生まれました。だいたいの竜は、凍った湖の中から、氷を突き破って生まれるのです。子供の竜が生まれる季節になると、親のつがいがやって来ます。迎えに来るのです。けれど、イリューカの親はいくら待っても来ませんでした。珍しいことではありません。怪我をしてしまったのか、飢えてしまったのか、それとも人間に狩られてしまったのかもしれません。竜は今の人間の五倍くらい長生きでしたが、それでも怪我なんかをすれば、弱って死んでしまうのです。
とにかく、イリューカはお母さんもお父さんも迎えに来ませんでした。迎えが来ないなら、イリューカは群れに入れません。みんな一家族ずつの群れがあるのですが、知らない竜の子供を引き取る群れはありません。彼らにも家族が居て、みんな生きるのに一生懸命ですからね。イリューカは生まれた時から一人ぼっちでした。
イリューカは一人ぼっちでしたが、それでも孤独ではありませんでした。誰もイリューカに恨みはありませんから、イリューカと仲良しになる竜だって居ました。その日の食べるものさえ手に入れば、不自由はありませんでした。
幸いイリューカは、狩りが上手でした。それはもう、とっても。ですから、マンモスなんて大きな獲物が獲れて、一人では食べきれなくなってしまうと、怪我をした竜のところに持っていってあげたりもしました。
イリューカは獲物に困りませんでしたから、ずんずん大きくなって、道の脇に植わっているイチョウの木くらいの背丈になりました。小さい竜が牛や馬くらい、普通の竜が自動車くらいの大きさですから、イリューカがどんなに大きかったか分かるでしょう。翼を広げたら、翼の先から先までを、いっぺんに目に映すのも大変なくらいです。もしかしたら、イリューカのお母さんとお父さんが大きかったのかもしれませんが、そんなことは誰にも分かりません。
大きくなったイリューカは、とても高いところまで飛べるようになりました。雲のすぐ下あたり、空気が少し薄くなるところ。飛行機が飛ぶようなところまでです。すごいでしょう? そんな高いところまで飛べるようになったイリューカは、ある日人間の集落を見つけました。
『あれは何だろう?』
イリューカの住んでいるところの近くは特に寒い空気が流れてくるところだったので、人間はあんまり居なかったんですね。しかも、イリューカはその時ずーっと高いところから見下ろしていましたから、いくら目が良くても、鹿でもバイソンでも無い不思議な生き物だということしか分かりませんでした。
ですからイリューカは、空の下の方に来てみました。そうですね、富士山のてっぺんくらいの高さです。
『動いてる』
不思議な生き物たちは疎らに歩いていました。けれど、渡り鳥のように決まった動き方をしているのでは無いように見えます。イリューカは首を傾げました。
『小さいなあ』
イリューカはまた少しだけ下に降りました。富士山の半分くらいの高さですね。すると今度は、木の枝や石ころを持っているのが見えました。
『変なの』
富士山の半分くらいの高さまで来た時には、人間たちにはイリューカが見えていましたから、人間たちはたいへんに慌てました。あんな大きな竜を知らなかったのです。いつもは協力して竜を狩ることもありますが、せいぜいが小型の、牛や馬くらいの大きさの竜です。木の背丈ほどもある竜は、見たこともありませんでした。
人間は、子供や年を取った人のような戦えない人を、住んでいる洞窟の外へ逃がして、槍を構えました。イリューカはさらに下へ降りてきます。もう、東京タワーの二倍くらいの高さでした。
『あれは何だろうな。ああ、あれで鹿を狩るのかもしれない』
気になったことが一つ分かったイリューカは、くるりん、と目玉を回してパッと西を見ました。夕陽が沈みかけていて、もう遅い時間のようでした。
イリューカは帰ろうと思い立って、くるっと身体を返しました。
『明日、明後日あたりにまた来ればいい』
その夜、人間たちは大騒ぎです。イリューカは良い夢を見ていましたが、人間たちは洞窟の中で、灯りも怖くて点けられません。
『見たか、あの竜を』
『ああ、どうしよう』
『あの大きさは、戦えない』
『村が潰れるかもしれない』
『逃げようか』
『そうしよう』
『明日だ』
そうして次の朝、人間たちは荷物をまとめると、もっと暖かい土地に向かって飛び立ちました。イリューカがいつ来るとも知れませんから、それはそれは急いで。
『来たよ』
人間たちがその洞窟を出た次の日に、イリューカはその場所にのんびり飛んで来ました。ところが、
『あれ、何もない』
この前に見たような、不思議な生き物たちはどこにも居ませんでした。焚火の跡と、ぬかるんだ地面に残っている、乱れた足跡。人間たちが持っていた、尖った石や木もありません。
『なんだ』
イリューカは首を左に傾げて、そのまま帰って行きました。何もなくなった洞窟なんて、見ていてもつまらないですからね。
イリューカとその村のたくさんの人とは、それっきりです。
イリューカは自分の住んでいるところに帰ると、またいつも通りに暮らしました。時々、『あの生き物たちは、本当に不思議だったな』なんて思い出して、楽しい日々をやっていました。
けれど、ね。イリューカは、あんまり毎日外へ行って、あんまり毎日飛んだばっかりに、イリューカの知っている場所を知り尽くしてしまったんです。それはもう、隅々まで。
新しいことを知るということはとっても楽しいことですから、何十年かかけて、もう新しいことが無くなってしまったイリューカは、あんまり楽しくなくなってしまったんです。
何十年って、どんなに長い時間か分かりますか? 覚えていないくらい小さな頃から、小学校を出るまでがだいたい十年です。それを、何度も何度も何度も。そう考えると、ものすごいでしょう? イリューカが知っている世界の全部を知ってしまうことも、できると思いませんか?
最初のうちは、それでも平気でした。
空は青いですし、雪は白いですし、マンモスは相変わらず大きかったからです。
けれど少しずつ。イリューカは飛ばなくなりました。
空が青いのはそれが普通ですし、雪が白いのもそれが当然ですし、マンモスが大きいのも、やっぱりそうでないとおかしいからです。
『向こうの山には何があるかな』
そう思って飛んで行っても、あるのは見知っている景色です。イリューカが知りたい『何か』は見つかりません。
『向こうの川には何があるかな』
そう思って飛んで行っても、あるのはやっぱり知っている景色です。イリューカが知りたい『何か』は、そこでも見つかりません。
それは別段、悪いことではありません。いつも通りの日常が来ているしるしで、いつも通りに生きていけるしるしだからです。
けれど、イリューカにはその日常が、少しばかり退屈でした。
知っている場所を全部見てしまったなら、知らない場所に行けば良い、と思いますね? ですからイリューカは新しい山に飛びました。新しい川に入ってみました。新しい湖に潜ってみました。
確かに、新しい眺めです。新しい形の石があって、初めて見る魚が泳いでいました。
けれど。
それだけ。
『知らないものなのに、知っているみたいだ』
イリューカは思いました。
そうしてイリューカは、飛ばなくなっていったのです。
『今日はマンモスを見に行こうか』
翼を広げかけて。
『いや、明日で良い』
そうやって閉じる日が続きました。
一日飛ばない日がありました。
一週間飛ばない日がありました。
一か月飛ばない日があって。
気が付けば、イリューカが飛ばなくなってから何年も経っていました。
イリューカは、それでも別に困りませんでした。
狩りはできましたし、生きてもいけました。
ただ、それ以外は全くと言って良いほど、空を飛ばなくなったのです。
ある日、イリューカは、木の洞で丸まって寝ている、小さな鳥を見つけました。その鳥は、イリューカが見かけた次の日も、その次の日も、一月経っても寝ていました。
『どうして、あんなに長く寝ているんだろう』
不思議に思って見ていると、春になって目を覚ました鳥は、とても嬉しそうに新しい芽をつついていました。
それを見たイリューカの頭に、素晴らしいアイディアが浮かびました。
イリューカは大きな大きな身体に合わせて、大きな大きな巣をつくりました。ふっかふかの、とっても寝心地の良い巣です。鳥の羽毛を敷き詰めた、とっても柔らかい巣です。
イリューカは眠ることにしたのです。
イリューカは、見る物全部が知っている気がして、それなら見る物全部を知らなかったら、またわくわくするんじゃないかと思いました。何十年か眠れば、景色だって全然変わってくるんじゃないかと思ったのです。
イリューカは一年眠りました。
二年眠りました。
五年眠りました。
その間に、雪は積もって、溶けて、また積もりました。うっかりしていたイリューカは、いつ起きるか決めていなかったんですね。何年後か、何十年後か、もしかしたら何十万年眠っているのでも良いと思っていたのかもしれません。十何年か経って、それでもまだ、起きませんでした。イリューカの赤い鱗の背中には、苔やら花やらが生えました。
いつかにどこかへ飛んで行った鳥は巣を作って、子供を育てて、また飛んで行きました。
それでもイリューカは眠ったままでした。
そして、ある春の日。
『うわあ!』
高い声が聞こえました。人間の声の、高い声です。子供の声のようでした。
イリューカは眠いので、右の目だけを薄っすら開けて、声の方を見ました。
『寝ている? 起きてる? 寝ている?』
人間の少年は一人で、わくわくしたようにそこに立っていました。
『寝てるよ』
イリューカは光が少し眩しくて、目を細めて言いました。イリューカは昔見た、ぞろぞろと歩いていた不思議な生き物のことを思い出しました。
『嘘だ、起きてる!』
少年はまったく嬉しそうに、手を広げて叫びました。
イリューカは少年の高く響く声で、ふわふわと瞼の辺りを包んでいた眠気が全部引いてしまったので、ちょっと重い頭をうんしょと持ち上げました。
『今起きたよ』
『今起きたね!』
『何をしに来たの?』
『探しに来たんだ!』
『何を?』
『でっかい竜が寝ているんだって言うから』
イリューカが寝ている間に、いくらかの竜がイリューカを見つけて、何人かの人間もイリューカを見つけていたのでした。彼らは村に帰って、その話をしたのです。
『その竜が、小山くらいの背もあるって聞いたから、おれ、あのお話の竜かと思ったんだ』
『あのお話って?』
でっかいでっかい、山のようにでっかい竜が、村の上の空に来たお話だというのです。村の中ではそれは、村を滅ぼす火竜だと言われていましたが、少年のおじいさんは言ったそうです。
『わたしは君のおじいさんだけれど、わたしにもおじいさんが居るんだ。わたしのおじいさんのお父さんはね、その竜を見たんだよ。とてもとても綺麗で、まるで神さまの遣いのようだったんだと』
どんなに綺麗だったか言ってとせがむと、おじいさんは自分が見たかのように言いました。
『鱗が陽に透けて、キラキラと赤く、涼やかに輝いていた。鱗の一枚一枚がオレンジだったり赤だったり、朱色だったりしたんだ。角は群れの頭の牡鹿の角のように立派で、翼は一つの村くらいもあった。そんな大きな翼の先についた鉤爪は、鈍色に光っていたんだと』
だから少年は、その竜に会いたくて仕方なかったのです。
『でもやっぱり君は違うみたいだ』
『どうして?』
『だって、小山くらいも背が無いじゃないか。確かに大きいけど、木の背くらいだよ』
イリューカは少し考えて、頷きました。
『確かにそれは、ぼくじゃないね』
『でもね、おれ、それでも良いよ』
『何で?』
『だって、君はこんなに綺麗だもの』
イリューカは目玉をくるりと回します。
『綺麗? ぼくが?』
『そうさ。僕のおじいさんの、おじいさんのお父さんの見た竜より、何倍か綺麗なんじゃないかな。言おれ、君が大好きだよ』
『変なの』
イリューカは言いました。ほんとうに変です。目玉を三度回したって、少年がイリューカを大好きなのが、どうしてなのか分かりませんでした。
『おれもそう思う!』
少年は手を振って帰って行きました。
ねえ、イリューカに内緒で、こっそり教えましょう。イリューカが『変なの』って言ったのは、何十年かぶりなんです。眠ってる間に何年も経っていましたけれど、その間を入れずに何十年ぶりです。
イリューカは、まだ気づいていません。けれど、それはとっても大切なことでした。だって、『変なの』が見つからなかったから、イリューカは眠ることにしたのですから。
さて、イリューカは何年も眠っていたので、目が覚めてしまった今は、全然眠くありませんでした。眠る気もしませんが、起きてどこかに飛んでいくような気分もありません。
『何をしようかな』
イリューカは考えました。
考えましたが、やりたいことはあんまり思いつきませんでした。代わりに、さっきの少年の言葉ばかり頭の中でぐるぐる回るのです。
『変なの』
イリューカはもう一度、言いました。
山のことではありません。谷のことではありません。あの、人間の少年のことでした。
次の日、少年はまたやって来ました。もう会うことは無いのだと思っていましたから、イリューカはとても驚きました。
『どうして来たの?』
イリューカが尋ねると、少年は歯を見せて笑いました。
『会いに来た』
『誰に?』
『君に。ねえ、君の名前は何?』
『ぼく?』
イリューカは少し考えました。
『ぼく、イリューカ』
『イリューカ!』
少年はパッと目と口を開いて、どちらも優しい三日月形にしました。
『おれはね、おれは、アルベ。イリューカ、良い名前だね』
『そう?』
イリューカは翼をちょっと動かして、首を傾げました。ちょっと胸の奥が、こそばゆいような感じがしたのです。
『アルベも、良い名前だね』
『本当?』
『うん』
イリューカは本当はよく分からなかったのですが、アルベという音が、なんとなしに楽しい気がしました。口の中で、アルベ、アルベと転がすと、なんだか笑ってしまうような音でした。
アルベはそれから毎日来ました。時間はいつも違って、陽が昇ったばっかりのこともありましたし、陽が沈むちょっと前のこともありました。
来るたびに、少年は色んなことを話しました。
川で魚を逃がしてしまったこと。
鹿を追いかけて転んでしまったこと。
無理をしておじいさんに怒られたこと。
空が綺麗だったこと。
イリューカは狩りが上手でしたし、そのほとんどがよく分かりませんでした。
『それなら僕が獲物を獲ってあげようか』と聞いても、アルベが驚いたように笑って、『ダメだよ』と言うのも不思議でした。
何回も何回も、少年は来ました。
冷たい雨の日だって来ましたし、風がびゅうびゅう吹く日にだって来ました。
ある日イリューカは、面白いことに気づきました。
アルベはいつも、イリューカに『大好き』だと言うのです。
帰る時のこともありますし、物をくれる時のこと、来がけのこともあります。
でも、必ず、『おれ、君が大好きだよ、イリューカ』
そう言うのです。
それに気づいてからイリューカは、アルベが『大好きだよ』と言う度に、少し面白いような、おかしいような気分になりました。
『どうして、ぼくのことが好きなの?』
アルベに聞いてみると、アルベは首を横に傾けて、本当に不思議そうに言いました。
『好きなのに理由なんて要るかい?』
イリューカはその答えもおかしくて、『変なの』と言いました。
イリューカは時々、アルベのことを考えるようになりました。
『今日は来ないかな』
『今日はいつ来るかな』
と。
イリューカは、そう考えているとき、口の端がちょっと上がって、ギザギザの歯がちらっと覗くのです。でも、自分ではそれに気づいていないんです。可愛いでしょう? でもイリューカは大きな竜ですからね。きっと言ったら、嫌がるでしょう。だから、からかっちゃいけませんよ。
ある日、アルベが言いました。
『イリューカって飛べるんだろう?』
アルベはイリューカが飛ぶのを見てみたいのでした。
『飛べるよ』
大きな翼をゆっくり動かして、イリューカは言いました。
『ちょっと、飛ぶ気分じゃないだけさ』
アルベは少し口を尖らせて、残念そうにしました。
『じゃあさ、今度、飛ぶときに乗せてあげるよ』
イリューカは少し考えて言いました。別に飛びたい気分では無いですが、アルベが喜ぶなら、それも悪くはない気がしました。アルベを乗せて飛ぶなら、空も楽しいような気もしました。
『イリューカ、また明日ね。大好きだよ』
アルベはその日もそう言って、帰って行きました。
けれど、なんてことでしょう。その次の日、アルベが来ないのです。
イリューカは、朝はのんびり寝ていました。だって、お昼か夕方に来るんだろうと思いましたからね。
昼もそんなに、そわそわしたりはしません。ただ、一緒にお昼を食べられなくて、少し残念だっただけです。
夕方にちょっと、落ち着きません。翼をはたはた、尻尾をぱたぱた、目玉をくるくる。アルベは陽が沈んでから来たことは無いのです。
陽が沈みました。
イリューカは西を見ました。
空全部が赤く染まって、段々紫になって、東から暗くなっていきました。
『おかしいな』
イリューカは言いました。変に高い声になってしまったので、言い直したのですが、やっぱり鼻をつまんだ時のような声が出ました。
風邪を引いたのでしょうか。おじいさんにお使いを頼まれたのでしょうか。もしかしたら、鹿を追いかけて遠くまで行ってしまったのかもしれません。
『まあ、明日は来るよ』
イリューカは口に出して言ってみました。
けれどその夜は、どうにも良い夢を見れる気がしませんでした。
その次の朝は、いつもより早く目が覚めました。たまたま。偶然です。別に、アルベを待っていた訳ではありませんよ。
陽が昇って、真上に来て、沈みました。
空が真っ赤になった頃に、イリューカはちょっと翼を広げてみました。アルベを見に行ってみようと思ったのです。
けれど、うっかりしていました。
イリューカはアルベがどこから来ているのか、知らないのです。
『困ったな』
イリューカは言って、溜息をつきました。
『次会った時に、聞かなくちゃ』
言いかけて、やめました。
胸がぎゅーっとなって、喉が狭まったようになったからです。どうしてか苦しくて、イリューカはその日は早く寝ました。
アルベが来なくなってから二日目の朝。イリューカは昨日、早く寝たのに、お昼過ぎまで寝ていました。
いいえ、起きているのですが、起き上がりたくないのです。ちょっと胸が苦しくて、病気になったような感じでした。目元が下がりっぱなしで、時々喉の奥がきゅっと縮まりました。
『おかしいな』
イリューカは小さく呟きました。
鹿も食べましたし、怪我もしていません。水だってちゃんと飲んでいます。
それなのに、少しも元気が出ないのです。感じたことがないくらい、一人ぼっちな気もしました。
『重い病気かもしれない』
イリューカは思いました。病の時は気も弱ると言いますからね。
『その症状の、最初のところかも』
けれど、お医者さんの竜を呼ぶ気にもなれません。イリューカは横になって、寝ていました。
二回くらい、うとうと微睡んだ頃でしょうか。
遠くから声が聞こえました。
『イリューカ―!』
イリューカは片目を開けました。
風の悪戯でないと確かめようと、耳をピンと立てました。
『イリューカ―!』
もう一度聞こえました。
イリューカは頭を持ち上げようとして、やめました。鼻がツンとして、それどころではなかったのです。
『イリューカ!』
声がすぐ後ろになりました。
『来たよ!』
アルベが言いました。イリューカはアルベの顔を見る元気が無くて、後ろを向いたまま『うん』と言いました。声が上手く出なくて、もう一度言い直しました。
『どうしたの?』
アルベが心配そうに聞きました。
『ぼく、病気みたいなんだ』
イリューカは小さく答えました。
『病気? どこが痛いの?』
『分からない』
イリューカは正直に答えました。
『胸がずくんって痛いときもあるし、喉が狭まって苦しいときもあるんだよ』
アルベは少し黙りました。
『イリューカ』
『何?』
『おれ、イリューカが大変だったのに、来なくてごめんね』
イリューカはアルベに背を向けたまま、少し動きました。
『おれの村で祭りがあってね、おれ、じいちゃんにどこにも行くなって言われたんだ』
イリューカは何も言いません。ちょっと口を尖らせただけです。
『それでね、おれ、手伝いばっかさせられて、ほんとにどこにも行けなかったんだ。イリューカに会いに行こうと、抜け出そうとしたときも捕まっちゃって、来れなかった』
『そうなんだ』
イリューカはちょっとだけ、胸の苦しさが解けて、そう言いました。
『うん。おれはイリューカに会いたかったのに』
アルベは当たり前のように言いました。
『そうなの?』
『そりゃそうさ。おれはイリューカが大好きだもの』
イリューカはそこでようやく、アルベの方を振り向きました。
『祭りって何?』
イリューカが聞くと、アルベは楽しそうに話し始めました。
焚火が小さな竜くらい大きくて、真っ赤で綺麗なこと。鹿を焼いて食べたこと。子供たちが躍ったこと。アルベも踊ったけれど、一人だけ間違って恥ずかしかったこと。おじいさんが酔っ払ったこと。
いつの間にか空は真っ赤になっていました。
『ちょうどこんな色だったんだよ、焚火』
アルベは空を指して言いました。
『もう、帰らなくちゃ』
イリューカは頭を持ち上げて、翼と首をアルベの方に向けました。
『じゃあね、アルベ』
『また明日ね、イリューカ』
イリューカはアルベが帰ってから、胸の痛みが引いていることに気が付きました。
『病気、治ったな』
『軽い病気だったのかもしれない』
イリューカはアルベに住んでいる場所を聞いていないことも思い出しましたが、
『明日聞けば良いね』
今度は声に出して言いました。口の端から歯がちらりと見えたのは、言うまでもありませんね。
もちろんイリューカは次の朝、巣に来たアルベにそのことを聞きました。
アルベは言います。
『おれ、太陽の昇る方の、少し遠くの村から来ているんだ。ここから、今日陽が昇ったくらいの方角に真っ直ぐ行くと、森を一つ抜けたあたりに、大きい村があるんだよ。あの二つ並んでいる山の間くらいさ』
イリューカは考えます。
『アルベのところに行ってみたら、アルベは喜ぶかしら』
『喜ぶに違いない。だって毎日、ぼくの巣に来てくれているんだもの』
イリューカはそうすることにしました。
イリューカの考えたことは、半分くらいは正解でした。
その次の日、イリューカはその大きくて、赤くてキラキラした綺麗な翼を、巣いっぱいに広げました。巣はバキバキと音を立てて、壊れてしまいました。巣を作っていた枝は折れてしまいましたし、敷き詰めていた鳥の羽は、その破れた間から零れて、あっという間に風に攫われてしまいました。ふかふかの寝床は無くなってしまいましたが、イリューカはあんまり気にしませんでした。
『ぼく、飛べるかしら』
イリューカは大きな大きな翼を陽の光に輝かせたまま、口に前の脚を当てて呟きました。長い眠りにつく前から、何年も飛んでいません。飛び方を忘れてしまっていたら、どうしましょう。空の上で突然どう飛ぶのか分からなくなったりしたら、一たまりもありません。
それに……ちょっとだけ、怖いのです。ほんのちょっとだけね。
本当に怖いのは、空の高いところに行くことでもなくて、翼を動かすことでもありません。
もしも、ですよ。空に飛んでみて、あの頃みたいに『つまらないな』と思ってしまったら、と怖かったのです。目の前に広がった景色を見て、せっかくの、起きてからのキラキラした世界が、また灰色になってしまったら。
そう思うとイリューカは、こんなに立派な翼を持っているのに、大きな足が地面にくっついてしまったみたいに動けないのでした。
だけれども。
イリューカは東の、二つ並んだ山の間を見ました。太陽が昇って、アルベが指で指した辺りを金色に照らしています。
『アルベは毎日ここに来てくれたよ』
そう、雨の日にも風の日にも。雪の降って、空気がキンキンに冷えた朝に来てくれたこともありました。
イリューカはぎゅっと口を結んで、もう一度、風が立つくらいに勢い良く、バッと翼を広げました。イリューカの傍の木が風で折れそうなくらいにしなりました。
イリューカはすぅっと胸いっぱいに息を吸って、ふうぅっと吐いたかと思うと、力一杯飛び上がりました。そしてそのまま、大きく翼を広げます。
イリューカの翼は綺麗でした。太陽の火ような赤の炎がちらちらと、一枚一枚の鱗の中を冷たく燃えていました。まるで、鱗一つ一つが、綺麗にカットしたルビーのようでした。下から見れば、空に浮かぶもう一つの太陽にさえ見えました。
イリューカは久しぶり、それも何十年かぶりに、空の高い高いところに昇りました。頬や翼を撫でていく風は、思っていたよりも心地よくて、これからアルベを喜ばせるのだと思うと、本当よりもっともっと心地よく感じました。イリューカは何故だか嬉しくて嬉しくて、キュイー、ともアゥー、ともつかない声を、空いっぱいに響かせました。
イリューカは遠くに、昔見たような人間の集落を見つけました。相変わらず人がぞろぞろ歩いていて、顔もアルベだけしか分かりませんでした。
『アルベ、来たよ!』
イリューカは村全体に響く声で言いました。村の人々は、いつかの人間たちのように一様に怖い顔をして、背の丈くらいの小さな槍を構えました。
『アルベ、どうしたんだ、あの竜は!』
村の大人たちがアルベに言いましたが、アルベは聞いていませんでした。イリューカがあんまり綺麗で、アルベの目には、イリューカしか映っていませんでした。アルベは、抱えていた桶を放り捨てて、イリューカの真下に来ようとしました。
『駄目だアルベ、そっちは危ない!』
もちろん、大人たちは止めますが、アルベはすばしっこいですから、するり、するりとその手を潜り抜けて、イリューカの降りるすぐ傍にやって来ました。
『イリューカ!』
アルベは口を大きく開けて言いました。あんまり驚いて、塞がらなくなったように大きな口で。
『知らなかったよ。君、すごく大きいんだ!』
『知らなかったの?』
イリューカはくすくす笑いました。イリューカがくすくす笑うと、ね。ちょっとだけ、鼻から煙が出るんですよ。イリューカは火の竜ですからね。だから、村の人間たちは、気が気じゃありません。アルベが今にも消し炭になってしまう。いや、村全部かもしれない。とね。そんな彼らを横目に、二人は呑気なものです。
『うん。やっぱりイリューカはね、おじいさんが言っていた火竜かもしれない。翼を広げたら、小さな丘くらいあったもの!』
『へぇ』
イリューカは首を傾げて、すぐ、嬉しそうに翼を動かしました。
『ねぇアルベ、飛びに行こうよ。約束通り、乗せてあげるから』
アルベはそれを聞いて、目を輝かせます。
『良いよ、行こう! 最高だよ!』
イリューカはアルベを背中に乗せました。村の人間の、アルベを心配する声は一つだって、二人に届きません。
『イリューカ、おれやっぱり君のこと、すっごく大好きだ』
イリューカの脚がふわりと地面を離れた時、アルベは大きなイリューカの背中にしがみついて、とっても幸せそうに言いました。
イリューカはそれを聞いて、何と言ったと思いますか?
イリューカは奥の歯まで見える、とびきりの笑顔で、こう言ったんです。
『ぼくも君のことが大好きなみたいだよ、アルベ』
イリューカとアルベはその日、遠くの山や川まで行きました。高い雲の上にも行きましたし、低い雲の下にも行きました。アルベもイリューカもくたくたになるまで飛び回って、夜に村に帰ったそうです。
知っていますか? アルベの住んでいた村では、子供に桶を持たせると、火竜に雲の上に連れ去られてしまうという言い伝えがあるんです。全く、失礼してしまいますよね。イリューカはアルベをちゃんと帰してあげたというのに、ね。
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読んでいただき本当にありがとうございます……!




