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008 霞が関ゾンビ大襲来! 原価ゼロのパニック営業と札束の雨1


ハルは、ゆっくりとまぶたを開けた。

 

視界に飛び込んできたのは、ダンジョンの天井に規則正しく並んだ、殺風景な白い蛍光灯の光だった。

 

ツルハシを振るった翌日は体が鉛のように重く、関節の節々が軋んだ悲鳴を上げる。

 

起き上がるだけで一苦労の、地獄のような朝になるはずだった。

 

だが、今は違う。

 

背中から腰、太ももからふくらはぎにかけて、一切の重力や圧迫感がない。

 

適度に冷やされた水風船のような柔らかな弾力が、ハルの体のラインに寸分の狂いもなく密着し、全身をぴったりと支え込んでいる。

 

「……最高だ」

 

ハルは大きく息を吸い込み、手足をぐーっと伸ばした。

 

ポキッ、ポキポキッ

 

肩や背中の骨が心地よい音を立てる。

 

鼻をすすると、ほのかにミントのような、あるいは森の奥の泉のような清涼感のある匂いが鼻腔をくすぐった。

 

昨晩、ハル自身が岩壁を削ってたっぷりとかいた、あの泥と汗のすえた匂いは、跡形もなく消え去っている。

 

それどころか、着たまま寝転がった泥だらけのシャツやズボンまで、洗濯機から出したばかりのようにパリッと乾き、一切の汚れが落ちていた。

 

「おはようございます、ハル」

 

すぐ隣で、衣擦れの音がした。

 

首だけを動かして横を見ると、リンが輝くような金髪を揺らし、スライムベッドから優雅に体を起こすところだった。

 

白いキャミソール姿の彼女の肌は、今日も透き通るように白く、一切のくすみがない。

 

その奥では、小人のような丸みを帯びた体つきのゴブが、スライムに顔を埋め、だらしなく涎を垂らして爆睡していた。

 

ゴブもまた、スライムの効果でどことなくピカピカになっていた。

 

人肌の色をした腹が、呼吸に合わせて規則正しく上下している。

 

「おはよう、リンちゃん。スライムベッド、マジで有能だな。疲れが完全に飛んだよ」

 

ハルは起き上がり、自分が一晩中寝ていた黄色と紫のスライムを手のひらで撫でた。

 

ぷにぃっ

 

指先を押し返してくる、瑞々しくも力強い弾力。

 

その体積は、昨晩よりもさらに一回り大きくなっているように見えた。

 

「昨日のボクの寝汗と垢、それに泥埃までたっぷり吸い込んで、いい感じに冷えてるな。よしよし、今日もこのまま客の顔に乗せて、ガンガン稼いでもらうぞ」

 

ハルの口角が、ニチャァと邪悪に吊り上がった。

 

常識的に考えれば、三十手前のフリーターのおっさんと、魔物である小人のゴブリンが、一晩中寝汗と皮脂を擦り付けたベッドである。

 

それをそのまま、高い金を払ってやって来る女性客やエリート官僚の顔面に塗りたくるなど、真っ当な商売のやることではない。

 

だが、ハルの図太い神経に罪悪感などという高級な感情は一切存在しなかった。

 

「ええ。魔力に変換して完全消化していますから、新品のスポンジよりも清潔ですわ。何の問題もありません」

 

リンも誇らしげに胸を張り、自分の足元で震える青いスライムをつつく。

 

「だよな! バレなきゃいいんだよ、バレなきゃ! ベッドのシーツ代もかからない、全自動で掃除もしてくれる、おまけに原価はゼロ! ボクらはただ寝っ転がってたスライムを客に回すだけで、一万円札が無限に湧いてくる!」

 

ハルは歓喜に肩を震わせ、暗いダンジョンの中で一人、高笑いを上げた。

 

昨日、矢良内が連れてきた後輩たちが落としていった二枚の一万円札。

 

あの分厚い紙の感触が、まだ手のひらに残っている。

 

「今日もヤラさんの後輩どもがいっぱい来て、数万円落としていかないかなぁ。公務員のネットワーク頼むぜ、マジで」

 

ハルは指を鳴らし、ダンジョンの入り口である重い鉄扉の方へと歩き出した。

 

時刻は午前九時。

 

シャッターを開ける時間だ。

 

ハルは唇を舐め、期待に胸を膨らませながら、冷たい鉄のノブに両手をかけた。

 

ガチャリ

 

体重を乗せて、重い扉を手前に引く。

 

「さーて、カモどもは並んでるか──」

 

ドッ

 

扉の隙間が開いた瞬間、外の空気がダンジョン内へと暴力的に流れ込んできた。

 

「うおっ!?」

 

ハルは息を呑み、思わず後ずさった。

 

目に飛び込んできた光景に、脳の処理がまったく追いつかない。

 

太陽の光など一切届かない、薄暗い雑居ビルの廊下から、外の狭い裏路地にかけて。

 

黒やグレーのスーツを着た人間たちが、肩と肩がぶつかり合うほど密集し、長蛇の列を作っていた。

 

ざっと見渡しただけでも、五十人は下らない。

 

その全員が、目の下に黒々とした濃いクマを作り、頬をこけさせ、焦点の合っていない血走った目で、開いた扉をじっと見つめている。

 

そして、嗅覚へのすさまじい一撃。

 

エナジードリンクの強烈に甘ったるい匂い。

 

染み付いたタバコのヤニ。

 

何杯も胃に流し込んだであろう、安っぽいブラックコーヒーの匂い。

 

それらが胃酸の酸っぱさと、極限のストレスから分泌される嫌な汗の匂いと混ざり合い、濃厚な瘴気となってハルの鼻を殴りつけた。

 

「開いたぞォォ……」

 

列の中ほどから、地底から響き渡るような、怨嗟のうめき声が聞こえた。

 

「開いた……! エステが開いたぞッ!」

 

「た、頼む……!」

 

列の先頭にいた若い男が、もつれる足取りで一歩前に踏み出し、ハルの胸ぐらに掴みかかってきた。

 

昨日、矢良内に連れられてきたあの後輩だ。


昨日エステを受けた直後はスッキリしていたはずなのに、またクマがすごいことになっていた。


血走った目がギョロギョロと動き、ネクタイは首の横にずれ、ワイシャツの第一ボタンは弾け飛んでいる。

 

「三徹なんだ……! 予算委員会の資料作りで、もう三日も家に帰ってないんだ……!」

 

男の口から、乾いたコーヒーの匂いが吐き出される。

 

彼は震える右手を、ハルの目の前に突き出した。

 

そこには、汗でしわくちゃになった一万円札が、親指と人差し指で千切れそうなほど強く握りしめられている。

 

「肌が、ボロボロなんだ……! 化粧水なんて染み込まない……頼む、一万円払うから……俺の顔面の皮脂を、あのスライムで限界まで吸い取ってくれ……ッ!」

 

狂気。

 

まさに、死に物狂いの形相だった。

 

その背後で列を作っている五十人の男女も、まったく同じように、手の中に一万円札を握りしめ、獲物を狙うゾンビのような目でハルを見据えている。

 

常軌を逸した光景と圧力に、ハルは数秒だけフリーズした。

 

背筋に冷たいものが走り、借金取りにでも囲まれたかのような恐怖を覚えた。

 

だが。

 

ハルの視線が、男の手に握られた一万円札、そしてその後ろの人間たちが握りしめている無数の一万円札の束を捉えた瞬間。

 

恐怖という感情は、ハルの脳内から一瞬にして完全に消去された。

 

代わりに、脳の奥底にあるスイッチが大きな音を立てて切り替わる。

 

一人一万円。

 

目の前にいるのは、五十人。

 

つまり、ここにあるのは五十万円の札束の山だ。

 

それが、向こうから勝手に押し寄せてきている。

 

「いらっしゃいませぇぇぇぇ!!」

 

ハルは狂喜乱舞して叫び、男の手から一万円札をひったくった。

 

親指の腹で紙幣のザラリとした感触を確かめ、偽札でないことを一瞬で確認する。

 

「お一人様一万円! 前払いでお願いしまぁぁす! さあどうぞどうぞ、中へ! 極上のツルツル体験が待ってますよぉ!」

 

ハルが鉄扉を大きく開け放ち、手招きをする。

 

ゾロゾロゾロッ!

 

待ってましたとばかりに、過労ゾンビたちが一斉に足を動かし、ダンジョン内へと雪崩れ込んできた。

 

「早く……早くあのゼリーを俺の顔に……!」

 

「順番を守れ! 私は午後から大臣レクがあるのよ!」

 

怒号と、革靴が岩肌を蹴る音が狭い空間に反響する。

 

五十人の大人が、一斉に四畳半の極狭空間に入り切るはずがない。

 

先頭の十人ほどが入った時点で、ダンジョン内はすでに満員電車以上のすし詰め状態になっていた。

 

「押さないで! 入らないから! とりあえず札束だけ先に投げて!」

 

ハルは押し寄せる黒スーツの波に揉まれ、押し潰されそうになりながらも、必死に両手を上に伸ばし、客たちの手から次々と一万円札をむしり取っていった。

 

汗ばんだスーツの生地が、ハルの頬や首筋に遠慮なく擦り付けられる。

 

その人数に対して極狭ダンジョンは、瞬く間に人間の熱気で満たされ、サウナのような異常な蒸し暑さに包まれた。

 

酸素が急速に薄くなっていくのがわかる。

 

息を吸っても、他人の吐き出した二酸化炭素と、エナジードリンクの甘ったるい匂いしか肺に入ってこない。

 

「早く……俺の顔をあのゼリーに……!」

 

「待てよ! 俺の方が先だろ!」

 

怒号が飛び交い、革靴が岩肌の床を荒々しく踏み鳴らす。

 

すでにダンジョン内には二十人以上の大人がひしめき合い、身動きすら取れない状態になっていた。

 

外の路地裏には、まだ三十人以上のゾンビが「入れろ!」と叫びながら前へ前へと強烈な圧力をかけてきている。

 

「きゃあっ!」

 

人の波に押され、リンが岩壁に背中を打ち付けた。

 

優雅な接客など、とても保っていられる状況ではない。

 

足元では、五匹のスライムたちが革靴のヒールに踏み潰されそうになり、プルプルと怯えて自らの形を平たく薄くしている。

 

「おい、踏むな! 商売道具だぞ!」

 

ハルが叫ぶが、狂乱状態の客の耳には届かない。

 

左手には十枚以上の諭吉が握りしめられているが、肝心のエステを提供できなければ、最悪の場合、暴動が起きて返金騒動になりかねない。

 

ハルが焦燥感に駆られ、札束を握りしめたまま叫ぼうとした、その時だった。

 

「……醜悪だな」

 

地獄の底のような密室に、氷のように冷たく、よく響く声が落ちた。

 

ピタリ。

 

騒ぎ立てていた官僚たちの動きが、一瞬だけ止まる。

 

入り口の鉄扉の向こう、路地裏の行列の後方から、ゆっくりと歩み寄ってくる一つの影があった。

 

パリッと糊の利いた、一切のシワもないネイビーのスーツ。

 

磨き上げられた革靴が、コンクリートの地面を正確なリズムで叩く。

 

髪を整え、冷徹な光を放つ銀縁眼鏡をかけた男。

 

矢良内だった。

 

彼は本省へ出勤する途中で、自分の投資先であるこのダンジョンの様子を見に来たのだ。

 

「ヤ、ヤラ先輩……ッ」

 

ハルの胸ぐらを掴んでいた先頭の男が、信じられないものを見るように目を丸くした。

 

「常識的に考えて、この狭い空間に五十人の大人が一度に入れるわけがないだろう。それに、スライムは現在五匹しかいない。底辺フリーターに現場の裁量をすべて任せた、俺の管理ミスだったな」

 

矢良内は眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、群衆を冷ややかに見下ろした。

 

彼の全身から放たれる圧倒的な上司のオーラに、過労ゾンビたちでさえも思わず道を譲る。

 

モーゼの十戒のように、黒スーツの群れが左右に割れ、矢良内が歩くための一本道がダンジョンの入り口まで真っ直ぐに続いた。

 

「ヤ、ヤラさぁぁん!」

 

ハルが、地獄に仏を見たような顔で叫ぶ。

 

「助けて! 客が多すぎて回らない! 金は回収したんだけど!」

 

「お前は本当に目先の小銭しか見えていないな。客をパンクさせてクレームの嵐になれば、今後の事業計画そのものが頓挫する」

 

矢良内はハルを一瞥して切り捨てると、ビジネスバッグから革表紙のメモ帳と万年筆を取り出した。

 

「いいか、よく聞け」

 

矢良内のよく通る声が、路地裏に響き渡る。

 

官僚たちは、まるで朝礼の訓示を聞く新入社員のように、背筋を伸ばして彼に注目した。

 

「一人につき、スライムの施工時間は二十分と設定する。ベッドは現在五床だ。つまり、一時間にさばける人数は、最大でも十五人が限界だということだ」

 

矢良内は万年筆を走らせ、メモ帳の紙をビリビリと破り取っていく。

 

そこには、数字と時間が几帳面な字で書き込まれていた。

 

「これは整理券だ。一番から五番。九時〇〇分から九時二十分の枠。次は六番から十番。九時二十分から四十分の枠だ。これ以降の者は、指定された時間が来るまでこの場を離れろ。路地裏にたむろして、近隣住民の迷惑になるような真似は許さん」

 

矢良内が、破り取った整理券を先頭の客から順番に手渡していく。

 

「整理券……」

 

受け取った男が、その紙切れを呆然と見つめた。

 

矢良内は冷酷な視線を五十人の群れに向ける。

 

「お前たちの時間は、国のリソースだ。こんな薄暗い路地裏で、いつ順番が来るかもわからずに無駄な待機時間を過ごすつもりか? 整理券で時間が確約されているのなら、自分の順番が来るまでの間、省庁に戻って国会答弁の資料の一つでも作れるだろうが」

 

その言葉が、過労ゾンビたちの耳に届いた瞬間。

 

彼らの死んだ魚のような目に、特有の冷徹な光が宿った。

 

「なるほど、合理的なシステムだ……これなら、上司に『少し離席します』と伝えて抜け出せる時間まで完璧に逆算できる」

 

「助かります、ヤラ先輩。これで省庁に戻って大臣レクの資料が完成させられます」

 

エステを受けるために並んでいたはずの彼らは、与えられた待機時間という名の業務時間に、極めて冷静に、そして事務的に納得し始めたのだ。

 

「お、おいおい。こいつらマジでエリートか? 頭おかしいんじゃないの?」

 

ハルが引きつった顔で呟く。

 

「霞が関の人間は、時間を分単位で管理されることに異常なほどの安心感を覚える生き物だ。先が見えない行列に並ばされることこそが、彼らにとって最大のストレスになる」

 

矢良内は淡々と解説しながら、五十人全員に整理券を配り終えた。

 

「自分の番号と時間を確認した者は、速やかに散れ。五分前行動で戻ってくるように」

 

「はい。ありがとうございます」

 

過労ゾンビたちは、整理券を名刺入れに丁寧にしまい込み、一斉に踵を返した。

 

つい数秒前まで暴動寸前だった熱狂が嘘のように、彼らは整然と列を崩し、それぞれの省庁へと足早に散っていく。

 

路地裏の静寂と、ダンジョン内の新鮮な空気が、あっという間に戻ってきた。

 

「……すげえ。一瞬で群衆をさばき切った」

 

ハルが、呆然としながら矢良内を見る。

 

「ビジネスの基本だ。需要と供給のバランスを読み、適切なフローを構築する。それができないなら、経営者など名乗るな」

 

矢良内は万年筆をしまい、ビジネスバッグの持ち手を握り直した。

 

「今ここに残っているのは、一番から五番の客だけだ。あとは、二十分ごとに五人ずつローテーションを回せ。一万円の回収と、領収書の発行も忘れるなよ」

 

「ヤラさん……アンタ、マジで有能だな! 一生ついていくぜ!」

 

ハルが手のひらを返し、揉み手で矢良内にすり寄る。

 

「気持ち悪い真似はよせ。俺は本省の会議がある。何かトラブルがあれば、あの小人──ゴブを使え」

 

矢良内はパーティションの裏で怯えていた小人のゴブを顎でしゃくると、腕時計を一瞥した。


「えっ、メッセンジャーとしてゴブを外に出すの?」

 

「バカを言うな。ゴブをこっちの作業に回して、お前が走ってくればいいだろ。常識的に考えろ」

 

「あっ、それもそうか!」

 

「では、頼んだぞ。一円たりとも取りこぼすなよ」

 

バタン

 

矢良内はそれだけ言い残し、颯爽と鉄扉の向こうへと消えていった。

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