表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/24

007 極上のスライムベッド──または、明日のエステ客への見えざる裏切り

 

ガァン!

 

ガキン!

 

深夜のダンジョンに、硬い岩を叩き割る金属音が容赦なく反響する。

振り下ろしたツルハシの先から火花が散り、目と鼻の先に細かい砂利がバラバラと降り注いできた。

焦げた石の匂いと、カビと土埃の混ざった不快な空気が、息を吸い込むたびに喉の奥をザラザラと撫でていく。

 

「ぜぇっ……はぁっ……!」

 

ハルはツルハシの柄から手を離し、そのまま後ろへ倒れ込んだ。

擦り切れた手のひらのマメが熱を持ち、皮がめくれて血が滲んでいる。

両腕の筋肉は限界を超え、指先は自分の意志とは無関係に小刻みに震えていた。

 

ゴスッ

 

すぐ隣で、子供サイズの緑色の塊が床に突っ伏した。

ゴブだ。

頭の毛を砂まみれにし、短い手足から完全に力を抜いて、ピクピクと痙攣している。

 

「おい……ゴブ……お前、さっきから全然掘れてないだろ……」

 

ハルが荒い息を吐きながら、横目でゴブを睨む。

 

「ゴブゥ」

 

ゴブが短い指を突き出し、自分の足元を指差した。

そこには、握り拳ほどの小さな岩の欠片が、ちょこんと三つだけ積み上げられている。

 

「それだけかよ! ボクの十分の一も削れてないじゃないか! 少しはファンタジーの魔物らしい怪力を見せろよ!」

 

「ゴブ! ゴブゴブ!」

 

ゴブがムキになって言い返し(言葉は分からないが)、ハルのすねに噛み付こうと短い歯を剥き出しにする。

 

「痛い痛い! やめろ、今日だけで腕も足もパンパンなんだよ! 噛むなバカ!」

 

ハルがゴブの頭を押し返して泥仕合をしていると、頭上から冷ややかな声が降ってきた。

 

「醜い争いだな。底辺同士の足の引っ張り合いを見ているようだ」

 

矢良内だ。

彼はツルハシを壁に立てかけ、ワイシャツの袖口のボタンを丁寧に留め直していた。

額には薄っすらと汗をかいているが、呼吸はまったく乱れていない。

そして彼の足元には、ハルが掘った量の五倍はある巨大な岩の山が築き上げられていた。

 

「ヤラさん……アンタ、マジで何者だよ。公務員ってそんなに岩掘るの早いのかよ……」

 

「俺は帰る」

 

矢良内はハルの疑問を完全に無視し、上着を肩に引っかけた。

 

「えっ!? ちょっと待ってよヤラさん! まだ壁、五十センチくらいしか凹んでないよ! 風呂場作るんじゃなかったの!?」

 

「すでに夜の二時だ。俺は明日の朝から、霞が関で本省の連中と予算会議がある。これ以上の残業は明日のパフォーマンスに響く」

 

矢良内は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、冷徹な視線をハルに向けた。

ハルも気づいた。ダンジョン内は常に同じ明るさの蛍光灯に照らされているため、時計を見ないと今が何時なのか全く分からないのだ。

 

「戸締まりはしっかりしておけよ」

 

バタン

 

ハルが引き止める間もなく、矢良内は重い鉄の扉を開け、さっさと現代日本へと帰っていってしまった。

 

「鬼! 悪魔! 血も涙もない税金泥棒め!」

 

ハルの叫びが、狭いダンジョンに虚しく響き渡る。

ゴブも賛同するように、短い腕を振り上げて「ゴブー!」と鳴いた。

 

ハルは再び床に仰向けになる。

背中に当たる床は削りたての平らな岩肌で、ジョイントマットさえ敷いていない。

冷たく硬い岩の感触が、骨まで直接伝わってくる。

土埃にまみれた自分のシャツの襟を嗅ぐと、すえた汗の匂いと泥の匂いが鼻を突いた。

 

「最悪だ……。全身痛いし、風呂はないし、床は硬いし。こんなところで寝たら、明日は間違いなく全身バキバキで動けなくなるぞ」

 

ハルが愚痴をこぼしていると、パーティションの奥から、足音が近づいてきた。

 

「お疲れ様ですわ、ハル、ゴブ」

 

涼やかな声。

白いキャミソール姿のリンが、優雅な足取りで歩み寄ってくる。

その手には、水気をたっぷりと含んだタオルが握られていた。

 

「リンちゃん……。アンタ、ずっと裏で優雅に紅茶飲んでただろ。ダンジョンの主なら少しは手伝ってくれても──」

 

バサッ

 

ハルが文句を言い切る前に、リンが冷たいタオルをハルの顔面に放り投げた。

 

「うおっ、冷たっ!?」

 

「スライムたちに綺麗にしてもらったタオルですわ。それで顔の泥を拭きなさいな」

 

ハルはタオルを顔に押し当て、ゴシゴシと擦る。

ひんやりとした水分が火照った肌を冷まし、土埃のザラつきを洗い流してくれた。

タオルからは、不思議とミントのような爽やかな香りがする。

 

「あー……生き返る。サンキュー、リンちゃん」

 

「どういたしまして。それに、これからは仕方なくその硬い床で寝る必要はありませんわよ」

 

リンが腰に手を当て、誇らしげに胸を張った。

 

「え? なんで?」

 

「おいでなさい」

 

リンがパチンと指を鳴らす。

 

ポヨン

 

ポヨン

 

岩の隙間や部屋の隅から、五匹の色とりどりのスライムたちが飛び出してきた。

 

「うおっ!?」

 

ハルは体を起こし、目を丸くした。

昼間の営業の時、スライムたちはソフトボールくらいの大きさだったはずだ。

だが、目の前に集まってきた彼らは、一抱えもあるビーズクッションほどのサイズにまで膨れ上がっている。

 

「こいつら、でかくなってないか!?」

 

「たくさん水を飲ませましたの。あとは、ヤラさんの後輩たちの分厚い角質や皮脂をたっぷりと食べて、大きく成長しましたのよ」

 

「他人の老廃物で育ったと思うと、ちょっと複雑だな……」

 

ハルが引きつった顔で青いスライムをつつく。

プニプニとした弾力は健在で、表面はゼリーのように瑞々しく輝いている。

 

「今日からは、この子たちをベッドに使いますわ」

 

リンの爆弾発言に、ハルの手が止まった。

 

「ベッド? こいつらを?」

 

「ええ。見ていなさい」

 

リンは青とピンクの二匹のスライムを指差し、自分の足元へ並ぶように指示を出した。

二匹のスライムはプルプルと震えながらくっつき、互いの体を融合させるようにして、一つの巨大な楕円形のゼリーへと変形していく。

 

「スライムは、外部からの圧力に合わせて、自らの体積と弾力を自在に変化させる特性がありますの。これなら、いかなる体格の者にもフィットしますわ」

 

リンはそう解説すると、躊躇することなく、その巨大スライムの上に背中から倒れ込んだ。

 

ぽすん

 

「ああっ……最高ですわ……」

 

リンが恍惚とした吐息を漏らす。

スライムの柔らかな体が、リンの体のラインに沿って沈み込み、ぴったりと密着している。

硬い床に底付きする様子はまったくない。

 

「マジで!? 潰れないの!?」

 

「潰れるどころか、完璧に体を支えてくれていますわ。ハルも試してみてくださいな。そこの黄色と紫の子、ハルのところへ行きなさい」

 

指示を受け、二匹のスライムがハルの隣へと転がってきた。

彼らも横に並んで平たく変形し、ハルを待ち構える。

 

「じゃあ、遠慮なく……」

 

ハルは恐る恐る、二匹のスライムが作った簡易ベッドの上に仰向けになった。

 

ぷにぃっ

 

「うおおおおっ!?」

 

ハルの口から、大げさな叫び声が飛び出した。

背中から腰、そして足先にかけての重みが、ゼリー状の柔らかな弾力に吸い込まれて完全に消え去る。

硬い床の圧迫感は一切ない。

最高級のウォーターベッドのようでありながら、水のように揺れることもなく、しっかりと体をホールドしてくる。

 

「すげえ! 何これ、めちゃくちゃ気持ちいい!」

 

ハルはベッドの上で手足をバタバタと動かした。

おまけに、スライムの体温は室温よりもわずかに低く保たれている。

ツルハシを振るって火照りきった腕や背中の炎症に、その適度なひんやり感がたまらなく心地よかった。

 

ペチャッ

 

「おわっ? なんか吸われてる?」

 

背中から、微かな吸引力を感じる。

スライムたちが、ハルの着ている泥だらけのシャツの繊維の奥から、汗の成分や土埃を直接食べているのだ。

 

「ふふっ。スライムたちは寝ている間に、服の汚れも体の汚れもすべて食べて綺麗にしてくれますのよ。究極の全自動クリーニングベッドですわ」

 

「最高じゃないか! リンちゃん、これ大発明だよ!」

 

ハルはテンションが上がり、スライムベッドの上で勢いよく飛び跳ねた。

 

ぽよぉん!

 

「うおっ! トランポリンにもなるぞ!」

 

「まあ! わたくしもやりますわ!」

 

リンも自分のベッドの上で立ち上がり、思い切り跳躍した。

 

ぼすんっ!

 

「あははっ! ハル、見なさい! この華麗なジャンプを!」

 

「負けるか! 必殺、ドロップキーック!」

 

ハルが空中で足を伸ばし、別のスライムに着地する。

深夜二時の薄暗いダンジョンで、泥だらけの青年と金髪の美少女が、ゼリーのベッドの上でキャッキャと声を上げて飛び跳ねる。

はたから見れば完全に異常な光景だが、二人は疲労を忘れてはしゃぎ回った。

 

「ゴブゥゥゥゥ!」

 

その横で、残った一匹の薄緑色のスライムにダイブしたゴブが、すでに白目を剥いて爆睡していた。

ゴブの小さな体なら、一匹のサイズで十分なベッドになるらしい。

 

ひとしきりはしゃいだ後、ハルとリンは息を切らして自分のベッドに倒れ込んだ。

 

「はぁっ、はぁっ……。食うものも困ってたのに、まさかこんな極上のベッドで寝られるようになるとはな」

 

ハルは天井の蛍光灯を見上げ、大きく息を吐き出した。

体の節々の痛みが、冷たいゼリーの感触に溶けて消えていく。

 

「ええ。わたくしたちのダンジョンの、優秀な従業員たちのおかげですわね」

 

リンも隣のベッドで、金髪をスライムの上に散らせて満足げに微笑む。

 

配分は、リンが二匹、ハルが二匹、ゴブが一匹。

ちょうど五匹を完璧に使い切っている。

 

「よし。このベッドと全自動クリーニングがあれば、明日の過酷な風呂作りも乗り切れそうだ」

 

ハルはゆっくりと目を閉じ、全身の力を抜いた。

泥のような深い眠りが、足元から急速に這い上がってくる。

意識が途切れそうになった、その時だった。

 

ハルの脳裏に、ふと、ある重大な事実に思い至った。

 

「……ん?」

 

ハルは薄目を開け、隣で寝息を立て始めたリンの方へ顔を向けた。

 

「なあ、リンちゃん」

 

「……なんですの、むにゃむにゃ」

 

リンが目を閉じたまま、寝とぼけた声で応じる。

 

「確認なんだけどさ」

 

「ええ」

 

「明日も、朝からあのエステ店、営業するんだよね?」

 

「当然ですわ。口コミでお客がたくさん来ますもの」

 

「で、お客さんのお肌をツルツルにするのは、このスライムたちだよね?」

 

「ええ、そうですわ」

 

ハルは、自分が今背中を預けている黄色と紫のスライムの弾力を背中で確かめた。

彼らは今この瞬間も、ハルが土方作業でかいた泥だらけの汗を、ジュルジュルと音を立てて吸い取っている。

 

「……ボクらの寝汗と泥をひと晩中吸い続けたこのスライムを、明日の朝、そのままセレブやOLのお客さんの顔面に乗せるの?」

 

「何か問題でも?」

 

リンからの返事は簡素だった。

本当に、ハルが何を気にしているのかわからない、というふうに。

 

「いや、だって……普通に考えて、ボクのおっさん臭い汗とゴブリンの垢をたっぷり吸い込んだゼリーを、高い金払った女性客の顔にそのまま塗りたくるってことだろ……?」

 

「スライムは、汚れを魔力に変換して完全消化しますから。衛生的には、新品のスポンジよりも綺麗ですわよ」

 

「……マジで?」

 

「ええ。それに、バレなければどうということはありませんわ」

 

リンが平然と言い放ち、寝返りを打つ。

 

ハルは、天井の蛍光灯をじっと見つめた。

 

(つまり……ボクらはタダで極上のベッドと全自動洗濯機を手に入れて、なおかつ客は何も知らずに、そのボクらのベッド兼洗濯機にお金を払って顔を埋めるってことか……?)

 

「……」

 

数秒の沈黙の後。

ハルの口角が、ニチャァと邪悪に吊り上がった。

 

「……リンちゃん、天才だな」

 

「当然ですわ。わたくし、誇り高きダンジョンボスですから」

 

「くくく……原価ゼロの使い回し、無限リサイクル・エステ! ボロ儲けの匂いがプンプンするぜ!」

 

お客様へのささやかな罪悪感など、ハルの図太い神経の前では一瞬で跡形もなく消し飛んだ。

むしろ、スライムの維持費や清掃代が浮くという事実に、歓喜の震えすら覚えている。

 

「明日のエステも繁盛させようぜ! スライムたちをたっぷり太らせて、もっとデカいベッドにするんだ!」

 

「ええ……おやすみなさい、ハル……」

 

「おう、おやすみ!」

 

ハルは最高の気分で、再び黄色と紫のゼリーの中に身を沈めた。

罪悪感ゼロ。

別に綺麗だからいいだろ。


ダンジョンの夜は、こうしてシュールで秘密を抱えたままふけていくのだった。

続きが気になる!という方は、評価、感想をお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ