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003 消えた百万円と、美しすぎる広告塔と、隠せないゴブリン

ペラッ

 

ハルの手の中で、一枚の薄い紙が小刻みに震えている。

宛名は『特区ダンジョン管理責任者・入則八流様』。

その下には無慈悲な数字の羅列が印字されていた。

 

「……ヤ、ヤラさん。なんだい、この百万円ってのは」

 

ハルは引きつった笑いを浮かべ、パイプ椅子に座る矢良内を振り返る。

矢良内は手元のノートパソコンから視線を外さず、淡々と答えた。

 

「見ればわかるだろう。内装工事と備品購入、および広告宣伝費の請求書だ。合計でジャスト百万円。このダンジョンプロジェクト用の口座からすでに引き落としておいた」

 

「ひゃ、ひゃくまんっ!?」

 

ハルが紙を握りしめ、その場に膝から崩れ落ちた。

 

「ウソだろ!? ボクの生涯年収より多い額が、たった三日で消えた!? モヤシが……モヤシが三万袋も買える大金が!」

 

「常識的に考えて、お前の生涯年収が百万円以下なわけがないだろう。底辺すぎるぞ」

 

矢良内が冷たく突っ込む。

ハルはよろけながら立ち上がり、周囲を見渡した。

 

つい数日前まで、ここはカビ臭いむき出しの岩肌が広がる洞窟だった。

しかし今は、壁沿いに清潔感のある白いパーティションが立てられ、岩の床にはクッション性のある木目調のジョイントマットが敷き詰められている。

空間の中央には、折りたたみ式の簡易マッサージベッドが三台。

入り口の扉の横には、小さな受付カウンターまで設置されていた。

 

「いや、そりゃあすごいよ! エステサロンっぽくなってるけどさ! これだけで百万もすんの!?」

 

「むしろ、破格だ。感謝しろ」

 

矢良内が眼鏡を押し上げる。

 

「内閣府の裏ルートを使い、懇意にしている業者に夜通しで作業させた。本来なら資材搬入や防音工事だけでも三百万は下らない。もちろん、ダンジョン内なので防音は必要なかったが。それでも、それを百万円に抑え込んだ俺の手腕を褒めてほしいくらいだ」

 

「うぐぐ……理屈はわかるけど、事業資金が一気に三分の一も減ったんだぞ。心臓に悪いよ」

 

ハルが胸を押さえる。

 

「心配には及びませんわ、ハル。わたくしたちの事業、すぐに初期投資など回収できますとも!」

 

パタパタ

 

受付カウンターの奥から、機嫌の良い足音が響く。

金糸の髪を揺らしながら、リンが小走りでやってきた。

彼女の手には、光沢のある分厚い紙の束──印刷されたばかりのカラーチラシが握られている。

 

「ハル! ヤラさん! 見てくださいな、この見事な仕上がりを! わたくしの美しさが、ついにこの世界に広く知れ渡る時が来ましたわ!」

 

バサッ

 

リンが自慢げに広げたチラシ。

ピンク色のポップなフォントで文字が躍っている。

 

『完全個室・無痛スライムエステ! 全身のムダ毛と角質を、美の魔力でツルツルに!』

 

文字の横で微笑んでいるのは、他でもないリンだった。

 

肩を大胆に露出した白いキャミソール姿。

輝く金髪と、澄んだ碧い瞳。

一切のくすみも毛穴も存在しない、透き通るような白い肌が、圧倒的な説得力を持って紙面の中央に収まっている。

 

「おおー……何度見てもすげえな、このビジュアル」

 

ハルが息を漏らす。

 

「ええ。撮影という名の謎の光る箱を向けられた時は魔術の類かと警戒しましたが。ニホンの印刷技術というのは恐ろしいですわね。わたくしの肌のきめ細やかさを、ここまで正確に写し取るとは」

 

リンが自分の頬に手を当て、うっとりと目を閉じる。

 

「マジでリンちゃんをモデルにして正解だったよ。フリー素材なんか目じゃない。この美少女のツルツル肌を見せられたら、美容に金かける客は絶対に釣れる」

 

ハルがチラシを指で弾く。

 

「なんせ、ウチのサービスは一回一万円。高額に見えるけど、既存のエステや医療脱毛みたいに何十回も通う必要がない。スライムが文字通り食い尽くすから、たったの十分で終わる。原価も人件費もゼロの、究極のボロ儲けビジネスだ」

 

ハルは口角を吊り上げた。

 

「金とDPが滝のように流れ込んでくる未来が見えるよ」

 

「よし。備品の確認も終わった。チラシは俺が夜のうちに、駅前のタワーマンションや高級住宅街のポストに投函して回ろう」

 

矢良内がノートパソコンを閉じ、立ち上がる。

 

「ヤラさん、完全に悪徳商法の片棒担ぐ顔になってるよ」

 

「人聞きの悪いことを言うな。国家プロジェクトの推進だ。さて、明日のオープンに向けて、客を迎え入れるシミュレーションをしておくぞ。ハル、お前が受付だ」

 

矢良内の指示で、ハルが受付カウンターの前に立つ。

リンはマッサージベッドの横に控え、膝を折ってお辞儀のポーズをとった。

 

「よし。客が来た想定でいくぞ。ウィーン」

 

矢良内が自動ドアの口真似をしながら、入り口の鉄扉から一歩足を踏み入れる。

 

「いらっしゃいませー! 究極のツルツル体験、スライムエステへようこそ!」

 

ハルが満面の営業スマイルで頭を下げる。

 

「こちらへどうぞ。わたくしどもが、極上の癒やしを提供いたしますわ」

 

リンがベッドへと案内する。

 

「完璧だ。この清潔感と美貌なら、初見の客も怪しまないだろう」

 

矢良内が頷いた。

 

ペチャッ……ペチャッ

 

パーティションの奥から、湿った足音が近づいてきた。

 

「グルァ?」

 

ひょっこりと顔を出したのは、緑色の皮膚を剥き出しにしたゴブリンだった。

腰に薄汚れたボロ布を巻き、その手には、どこで見つけてきたのか柄の折れたモップを大事そうに握りしめている。

黄色く濁った目が、キョトンとしてハルたちを見つめていた。

 

「……」

 

ハルの営業スマイルが固まる。

矢良内も、無言で眼鏡のブリッジを押し上げた。

 

ファンタジーのモンスター、ゴブリンそのもの。

 

「あのさ、ヤラさん」

 

「なんだ」

 

「ここ、若い女性とか、美意識の高いセレブ層をターゲットにした高級エステなんだよね?」

 

「そのつもりだ」

 

「……この本物のバケモノ、営業時間中どこに隠すの?」

 

ハルの問いかけに、洞窟の中に重い沈黙が降りた。

 

ハルはゆっくりと後ろを振り返る。

パーティションの裏側は、すぐそこが黒々とした岩壁の行き止まりだ。

バックヤードなどという空間は、このワンルームサイズの貧弱なダンジョンには存在しない。

 

「グルァ!」

 

ゴブリンが元気よくモップを掲げた。

涎が飛び散り、清潔なジョイントマットにシミを作る。

 

「……通報される」

 

ハルが頭を抱えた。

 

「絶対に警察呼ばれる! エステサロンにガチの魔物が出たって大騒ぎになって、一日で営業停止だ! どうすんだよ百万の借金!」

 

「落ち着けハル。パーティションの裏に段ボールを積んで、その中に押し込んでおけば」

 

「匂いでバレるよ! あとたまに鳴くじゃんこいつ!」

 

ハルと矢良内が青ざめる中、リンだけが不思議そうに首を傾げた。

 

「何を慌てているのです? 彼も立派なダンジョンのスタッフですわ。一緒にお客様をおもてなしすればよろしいでしょう?」

 

「お前は黙ってろ世間知らず!」

 

ハルの叫びが、狭い密室に虚しく響き渡った。

開店前夜。

スライムエステは、早くも絶体絶命のピンチを迎えていた。

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