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015 こちら、35億円でございます

バァンッ!

 

古ぼけた104号室の扉が、ひしゃげるような勢いで開け放たれた。

 

「……ぜぇっ、はぁっ、はぁっ……!」

 

肩で息をしながら飛び込んできたのは、矢良内だった。

 

いつもは乱れ一つない髪は額に張り付き、ネクタイは大きく曲がっている。

 

革靴のつま先が、コンクリートの床を乱暴に擦った。

 

「ヤラさん、ひさしぶり。どうしたんだよ、そんなに慌てて」

 

ハルが、目を見開く。

 

矢良内は額に滲んだ汗を手の甲で拭い、息を整えながらハルの前まで歩み寄った。

 

「……取ってきたぞ」

 

「え?」

 

「追加予算だ。総理官邸と財務省をねじ伏せて、特例措置を通してきた」

 

矢良内は、内ポケットから数枚の分厚い書類を取り出し、ハルの胸に押し付けた。

 

ハルは書類の表紙に躍る『不動産譲渡契約書』という文字を視線でなぞる。

 

「この雑居ビル。地上三階建ての全フロアと、裏手の駐車場。政府が丸ごと買い取った。これで今日から、ビル全体が株式会社ダンジョンの所有物だ」

 

「ビル丸ごと!? マジかよ!」

 

ハルが書類を握りしめて飛び跳ねる。

 

「ああ。駐車場と一階のエントランスに、リンの言っていた『ゲート』とやらを開け。そうすれば、重機も資材も、客の列も、スムーズにダンジョンへと飲み込める。この104号室の狭い勝手口は、事務所にでも使えばいい。ビルの中は全部自由に使える」

 

「ヤラさん、アンタ最高だよ! 公務員もやればできるじゃないか!」

 

ハルがはしゃぐ。

 

矢良内は曲がったネクタイを締め直し、眼鏡の奥の目を細めた。

 

「これは株式会社ダンジョンへの、国からの貸し付けだ。つまり、会社の借金だ」

 

「……は?」

 

ハルの口角が、ピタリと止まった。

 

「しゃ、借金……? 都心の駅前ビルだよな、ここ。いくらするんだよ……?」

 

「三十五億だ」

 

「さんじゅう、ご……!?」

 

ハルの脳髄を、鈍器で殴られたような衝撃が貫いた。

膝の力が抜け、そのままコンクリートの床に崩れ落ちそうになる。

 

「お、終わった……。ボクの人生、終わった。スーパーの半額弁当どころか、一生もやしの根っこを齧って強制労働させられる……!」

 

頭を抱えて震えるハルの肩を、矢良内がガシリと掴んだ。

 

「落ち着け、ハル。常識的に考えて、しがないベンチャー企業に数十億の融資など降りるわけがない。これは、書類上の処理だ。極端な話、返さなくてもいい借金だ」

 

「……え?」

 

ハルが顔を上げる。

 

「いいか。ダンジョンのゲート機能による距離の消滅は、国家の根幹を揺るがす。もはや数十億の金の問題ではないのだ。国は、お前を金で縛り付けてでも、このダンジョンを管理下に置きたい。だから、国内の物流を牛耳るようなゲートの乱造は、国家戦略がまとまるまで一旦待て。その代わりの、ビルだ」

 

矢良内の低い声が、ハルの鼓膜を震わせる。

 

ハルは、三十五億という数字と、「返さなくてもいい」という言葉を脳内で反芻した。

 

「……返さなくて、いい」

 

「ああ、そうだ。実質的にはな」

 

「……」

 

数秒の沈黙。

 

「なんだ、じゃあいいか!」

 

ハルはあっさりと立ち上がり、泥だらけのズボンの膝をパンパンと払った。

 

「ヤラさんがビビらせるから心臓止まるかと思ったよ! よーし、リンちゃん! 早速ビルのエントランスと駐車場にデカいゲートを繋いでくれ!」

 

あっけらかんと言い放つハルの横顔を見て、矢良内は額に手を当てた。

 

(この男の底なしの図太さ……。国家の重圧すら、明日のメシの心配にかき消されるというのか)

 

      ◇

 

ブゥンッ!

 

現在のダンジョン最奥部、拡張エリアの壁面に、縦横五メートルを超える巨大な光の枠組みが出現した。

 

「オーライ、オーライ! そのままバックで入れ!」

 

ハルの声に誘導され、排気ガスを黒く吐き出しながら、砂利を満載した大型のダンプカーが光の枠をくぐり抜けてくる。

 

ゲートの向こう側に見えるのは、薄暗い洞窟の壁ではなく、太陽の光が差し込む地上のアスファルト——買い取ったばかりのビルの裏手にある駐車場だった。

 

「素晴らしいですわ! これで狭い扉で詰まることはなくなりましたわね!」

 

玉座代わりのパイプ椅子で、リンが満足げに濁った苔茶をすする。

 

物理的な搬入口と、客を迎え入れるエントランスのゲートが開通したことで、外の列は一瞬にして解消された。

ダンプカーが直接乗り入れ、アースゴーレムがその荷台から直接資材を運び出していく。

 

「ああ。資材の搬入は劇的にスムーズになった。だけど……」

 

ハルは首に巻いたタオルで、顎から滴る汗を拭った。

 

ダンジョンの床に視線を落とす。

運び込まれた塩ビパイプとセメントの山の前で、人間のアルバイト作業員たちが指示を待って手持ち無沙汰に座り込んでいる。

 

「モノと客はガンガン入ってくるようになったけど、それをさばくための『頭』と『手』が足りないんだ。アースゴーレムみたいに力仕事だけじゃなくて、接客や事務、現場の仕切りができるモンスターって出せないの?」

 

ハルの問いに、リンは不思議そうに小首を傾げた。

 

「なんですの、ハル。ダンジョンの魔物の知能は、ダンジョンボスに比例しますのよ。わたくしが賢いのですから、みんな賢いですわよ?」

 

リンが誇らしげに胸を張る。

 

「いやいや、ゴーレムは言葉通じないし、パイは有能だけど1000DPもして高いじゃないか。もっとこう、安くて賢いやつ……」

 

「ゴブゥ! ソコノ配管、モウ少シ右!」

 

ふいに、背後からくぐもった声が聞こえた。

 

ハルが振り返る。

 

頭に小さな黄色い安全第一ヘルメットを被ったゴブリンが、短い腕で図面を広げ、人間のアルバイト作業員に向かって指図をしていた。

 

「おお、すんません監督!」

 

作業員が慌てて塩ビパイプの角度を調整する。

 

ゴブは満足げに頷き、図面の脇に置いてあった『図解・よくわかる建築基準法』のページをペクリとめくった。

 

「……いつの間に喋れるようになってるし、図面も読めるようになってる!」

 

ハルが目をひん剥く。

 

「言ったでしょう? わたくしたちは賢いと。ニホンの書物を読ませれば、すぐに学習しますわ」

 

「そ、そうか。……よし、リンちゃんにも後で簿記と宅建の本を読ませよう」

 

ハルは頷き、再びリンに向き直った。

 

「それはそれとして。現場監督はゴブに任せるにしても、重い資材を精密に運んだり、エステの受付をしたりできる、人間寄りの手先が器用なモンスターはいないか? ゴーレムより安いやつで」

 

「人間寄りの、手先が器用で力もある魔物、ですか。……オークがそれなりに強くて、コスパもよろしいですわね。一匹50DPです」

 

「オーク! いいじゃん、豚の化け物でしょ? 見た目はアレだけど、力仕事なら任せられそうだ。呼んでくれ!」

 

「人間寄りのほうがいいのですわね? 承知しましたわ」

 

リンが、白く細い指を空中に走らせる。

 

ビカァッ!

 

コンクリートの床が発光し、魔法陣が浮かび上がった。

 

ハルは身構えた。

よだれを垂らし、丸太のような腕を持った醜悪な豚の怪物が現れるのを想像して。

 

光が収まる。

 

「お呼びでしょうか、女王、そして社長」

 

低く、腹の底に響くような渋い声だった。

 

「……え?」

 

そこに立っていたのは、身長二メートル近い巨漢だった。

肌の色こそ深い緑色だが、豚の要素は微塵もない。

太い首、角張った顎、そして鋭い眼光。

 

そしてなにより。

 

彼の分厚い胸板と丸太のような腕は、仕立ての良いグリーンのスリーピースのスーツに、生地がはちきれんばかりに隙間なく包み込まれていたのだ。

 

「オークです。ご指示を」

 

オークは、太い指で銀縁の眼鏡のブリッジをスッと押し上げた。

 

「人間寄りって、服かよ!」

 

ハルが思わず叫ぶ。

 

その横で、矢良内が一歩前に出た。

 

「ほう……」

 

矢良内は、自らの眼鏡を中指で押し上げ、オークの全身を値踏みするように見上げる。

 

オークもまた、レンズの奥の鋭い瞳で矢良内のスーツのシワのなさを観察した。

 

「……良い大胸筋だ。スーツの上からでも、体幹のブレのなさが分かる」

 

矢良内が呟く。

 

「あなたも。その広背筋、日々の鍛錬を怠っていない証拠だ」

 

オークが、低い声で返す。

 

二人の間に、目に見えない火花と、筋肉を介した奇妙な連帯感が生まれていた。

 

「……ヤラさん、なんでモンスターと筋肉で会話してんの」

 

ハルが引きつった顔でツッコミを入れるが、二人の耳には届かない。

 

ガシィッ!

 

矢良内とオークが、分厚い手で熱い握手を交わした。

 

「よし。これで事務方と現場を繋ぐパイプは解決だな」

 

矢良内が満足げに頷く。

 

かくして、株式会社ダンジョンに、声が異様に渋い、緑色のエリート社員が加わったのだった。

 

これでまた人員が足りなくなるようなら、同様にモンスターを増やせばいい。

 

だが、と。

矢良内はオークの分厚い緑色の手を握り返しながら、レンズの奥で冷ややかな思考を巡らせた。

 

魔物を増やしすぎるわけにはいかない。

 

東京の街には、行き場を失った人間が溢れている。彼らにこの地下で汗水流させ、日銭を握らせなければ、社会の歯車は狂い始める。

 

政府的には、株式会社ダンジョンは大きく成長してほしい。

 

ハルは操りやすい、というのも好材料だ。

 

そしてなにより、このダンジョンという箱庭が、魔物の腕力と知恵だけで完全に自立してしまえば。

 

あの苔茶をすする少女が、脆弱なニンゲンなど不要だ、と切り捨ててしまえば。

 

人類には、対抗する術が何一つないのだ。

 

人間とダンジョンを、泥臭い労働という鎖で絶対に繋ぎ止めておかなければならない。

 

諸々考え、矢良内はため息をついた。

 

問題は山積みだが、冷静に考えればダンジョンは現状、日本にとってはメリットの塊なのだ。

 


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