010 表は極上エステ、裏は昭和の土木現場! 100DPの土方魔物と1000DPの吸血鬼召喚、そして株式会社ダンジョンの設立
翌朝。開店前の薄暗いダンジョンの奥深く。
ハルの手の中には、昨日霞が関の過労ゾンビたちからむしり取った、百万円の札束が握られていた。
「……」
ハルは、その分厚い……はずの紙の束を、親指と人差し指でつまんで真横から見つめた。
百万円。
底辺フリーターにとっては、まさに夢のような大金だ。
これさえあれば、毎日黒毛和牛の切れ端を乗せたモヤシ炒めが腹いっぱい食える。
だが。
「薄っ……。一センチくらいしかないじゃんか……」
ハルは乾いた声で呟いた。
一万円札が百枚。きっちりとまとめられたそれは、思いのほか物理的なスケールが小さかった。
映画やドラマで見るような、アタッシュケースにぎっしりと詰まった札束の山を想像していたハルにとって、手のひらに収まってしまうたった一センチの厚みは、残酷な現実を突きつけてくる。
「これじゃ、枕にもならないじゃないか……」
ハルは札束をズボンのポケットにねじ込み、足元に転がっていたツルハシの木柄を力なく握りしめた。
ズキッ
潰れた手のひらのマメが、鈍い痛みを脳に伝えてくる。
昨日、一日中過労ゾンビたちをさばきまくって稼いだ百万円。
しかし、矢良内の非情な宣告により、この金で業者を呼んで風呂を作ってもらう甘い夢は絶たれた。
百万円あっても、配管工事や岩壁の掘削は、結局自分たちの腕力でやらなければならないのだ。
「結局、金があっても肉体労働からは逃れられない運命なのかよおおお!」
ハルは半ばヤケクソになってツルハシを高く振り上げ、真っ黒な岩壁へと叩きつけた。
ガァン!
硬い岩肌が火花を散らし、ハルの腕に強烈な痺れが跳ね返ってくる。
痛む手のひらを押さえながら、ハルは涙目でうずくまった。
その視界の端に、玉座の前に立つリンの姿が映った。
「素晴らしいですわ……! わたくしたちの努力の結晶……100DP……!」
リンは両手を胸の前で組み、空中に浮かび上がった半透明のパネルをうっとりと見上げていた。
彼女の碧い瞳は、パネルに表示された『100』という数字に釘付けになっている。
「……」
ハルは、痛む手をさすりながら、リンと、その頭上のパネルを交互に見つめた。
脳内に、ある閃きが電撃のように走る。
「なぁ、リンちゃん」
「なんですの、ハル? わたくし、今この神々しい数字を脳裏に焼き付けているところですのに」
リンはパネルから目を離さず、うっとりとした声で応じた。
「その100DPでさ、穴掘りに特化した魔物とか呼べないの? ボクの代わりに、このクソ硬い岩壁に向かって延々とツルハシ振ってくれるやつ!」
ハルの提案に、リンはぴくりと肩を揺らした。
ようやくパネルから視線を外し、不思議そうに首を傾げる。
「穴掘りに特化した魔物、ですか?」
「そう! 戦闘力とか見た目とかどうでもいいから、ひたすら土木作業だけを文句も言わずにやってくれる都合のいい奴! いるだろ、ダンジョンなんだから!」
ハルがすがりつくように叫ぶと、リンは顎に細い指を当て、宙を見つめてシステムを検索し始めた。
「土木作業……そうですね。『アース・ゴーレム』なら、一体100DPで召喚可能ですわ」
「アース・ゴーレム!」
ハルの目が、獲物を見つけた猛禽類のように見開かれた。
「ええ。土と泥でできた、基礎的な土木作業用の魔物です。知能は低く複雑な命令は聞けませんが、指定された範囲の土砂を掘削し、運搬することにかけては右に出る者はいませんわ」
「それだ! 全財産使って今すぐ呼んでくれないか!」
ハルは一秒の躊躇もなく、リンに向かって叫んだ。
「えっ!? 全財産って……この100DPを、すべて使うということですの!?」
リンの碧い瞳が、限界まで見開かれる。
「ボクの腕が死滅する前に……いや、リンちゃんだって昨日ツルハシ振って、手が痛いって言ってたじゃないか。ゴブもあんな小さな体で無理してる。ここは先行投資だ! 稼ぎは明日またエステで作ればいい!」
ハルが真剣な表情で説得する。
リンは自分の白く滑らかな手のひらを見つめ、数秒間ためらった後、小さく息を吐き出した。
「……ハル。たしかに、わたくしの麗しい手にも少し負担がかかっていましたわ。わかりました。あなたの『投資』という言葉を信じますわよ」
「ああ、頼む!」
リンが震える指をパネルへと伸ばす。
「あああっ……! わたくしたちの大切な100DPが……! ゼロに……!」
ピコン、という無機質な電子音とともに、パネルの『100』という数字が、あっけなく『0』へと切り替わった。
ブゥン
ハルの目の前の岩肌が、鈍い土色に発光し始めた。
光は床に円を描き、複雑な幾何学模様を形成していく。
魔法陣だ。
「おお……! ついにファンタジーらしい本格的な召喚術が……!」
ハルは息を呑み、魔法陣から何が現れるのかと期待に胸を膨らませた。
強靭な肉体と、岩をも砕く巨大な拳を持った、圧倒的な大地の巨人が現れるに違いない。
ボコッ、ボコボコッ
魔法陣の中心から、泥水が沸騰するように盛り上がってきた。
鼻を突くのは、雨上がりの校庭のような、湿った土と粘土の強烈な匂い。
ズズン
光が収まり、そこに姿を現したもの。
「……え?」
ハルの口から、間抜けな声が漏れた。
そこに立っていたのは、ハルとほぼ同じ背丈の、ずんぐりむっくりとした泥と粘土の塊だった。
頭と胴体の境目は曖昧で、丸太のように太く短い腕がぶら下がっている。
顔には目も鼻も口もなく、ただのつるんとした泥の球体だ。
「……これが、アース・ゴーレム?」
「ええ。土の魔力で形作られた、無機物の従者ですわ」
リンがハンカチで目元を拭いながら、力なく答える。
「……なんか、思ってたんと違う。もっとこう、岩の鎧を着た巨人みたいなのを想像してたんだけど。これじゃただの巨大な泥団子じゃないか」
ハルがペチペチとゴーレムの腹を叩く。
ひんやりと冷たく、適度な弾力のある粘土の感触だ。
「100DPの最下級魔物に派手な見た目を期待しないでくださいな。ですが、動きは鈍いものの、その腕力は成人男性よりもずっと強いですわ」
リンの言葉に、ハルは少しだけ目を見開いた。
「そっか。まあ、見た目より中身だよね。頼むよ、ゴーレムくん。あの壁を、ひたすら奥へ向かって掘り進めてくれないか? 風呂場が入るくらいのデカい穴を頼む!」
ゴーレムはハルからツルハシを受け取ると、顔がないため頷くこともせず、ゆっくりと体を反転させた。
ずりっ、ずりっ、と重い足取りで岩壁へと向かう。
そして、ツルハシを高く振り上げた。
カキン
「……」
カキン、カキン
「……おせえ」
ハルが思わずツッコミを入れた。
ゴーレムの動きは、水中にいるように鈍く、重かった。
ツルハシが岩肌に当たるたびに、小さな石の欠片がポロポロと崩れ落ちるだけ。
リンが昨日見せたような、一撃で岩盤を粉砕するような凄まじい破壊力は欠片もない。
カキン、カキン、カキン
一定のリズムで、地味で単調な音がダンジョン内に響き続ける。
「……リンちゃん。こいつ、マジで大丈夫か? ボクが本気出した時より掘るスピード遅いぞ」
「言ったでしょう、動きは鈍いと。ですが、彼らの真価はスピードではありませんわ」
リンが腕を組み、誇らしげに胸を張る。
「彼らは泥と魔力でできているため、食事も睡眠も必要としません。筋肉痛にもなりませんし、息を切らすこともありません。つまり、永遠にこの力とペースで掘り続けられるのです」
リンの言葉に、ハルはハッとしてゴーレムの背中を見た。
カキン、カキン、カキン
最初の一振りとまったく同じ力、まったく同じリズムで、ゴーレムは淡々と岩を削り続けている。
劇的な変化はない。
だが、その動きには一切のブレがなく、疲労という概念が存在しない。
ハルの脳内に、再び電撃が走った。
人間の腕力では、一時間も全力でツルハシを振るえば動けなくなる。
だが、このゴーレムなら。
休むことなく、昼も夜も、ハルが寝ている間も。
「うおおおおっ……! ゴーレム、お前ってやつは……!」
ダンジョン内に、ハルの感極まった声が響き渡った。
「ありがとう……! これでボクの手のひらのマメも、少しは休めるんだ……! 文句一つ言わずに働いてくれるなんて、なんて健気なんだ……!」
ハルはゴーレムの泥だらけの背中に抱きつき、ボロボロと嘘泣きのような涙を流しながらその背中をさすった。
「やれ! もっとやれ! ボクも後でちゃんと手伝うから! 一緒にデカい風呂場を作ろうぜ!」
ゴーレムはハルに抱きつかれても振り返ることなく、ただひたすらに、カキン、カキンとツルハシを振るい続けていた。
「よし、頼れる仲間ができたぞ! ボクはちょっとだけ、ほんのちょっとだけベッドでマメの痛みを癒やしてくるから、あとは任せた!」
ハルはくるりと踵を返し、スライムベッドの方へと歩き出した。
その顔には、過酷な肉体労働から解放された安堵と、新しい仲間に向ける謎の信頼感が入り混じった、なんとも言えない晴れやかな笑顔が浮かんでいた。
◇
数日が経過した。
「今日は五番の枠で」
「はい、承りました。一万円ちょうど頂戴いたします」
受付カウンター越しに、静かで事務的な会話が交わされる。
初日のような、ゾンビが押し寄せる暴動スレスレのパニックは、すでに嘘のように消え去っていた。
霞が関の官僚たちは、矢良内が構築した整理券システムに完全に適応していた。
彼らは休憩時間や離席のタイミングを完璧に計算し、時間通りに現れては、無表情のまま財布から一万円札を抜き出す。
そして、靴を脱いでスライムベッドに仰向けになり、顔面に冷たいゼリーを乗せられる。
にゅるにゅる
「……ふぅ」
毛穴の汚れと極限のストレスを吸い取られ、わずかに口元を緩めるが、決して初日のようにだらしない声は上げない。
二十分きっかりで立ち上がると、ネクタイを締め直し、「では、本省に戻ります」と、極めて冷静な社畜の顔に戻って帰っていくのだ。
「ありがとうございますぅー! またのご来店をお待ちしておりますぅー!」
ハルは満面の営業スマイルで頭を下げ、受け取った一万円札をレジ代わりの空き箱へと放り込んだ。
これで今日だけで四十人目。
客足は一日四十人程度に落ち着き、売上も毎日四十万円が確実に入るようになっていた。
ピコン
リンの頭上に浮かぶパネルの数字が、また一つ跳ね上がる。
「ふふっ。今日も順調にDPが産出されていますわね」
リンが玉座の上で優雅に紅茶──もとい、濁ったコケ茶をすする。
表のサロン部分は、かすかなミントの香りが漂う、静かで洗練された癒やしの空間として完全に機能していた。
だが。
カキン、カキン……
そんな静寂なサロンの空気を震わせるように、パーティションの裏側から、微かな、しかし単調な岩を叩く音が響いてくる。
「よしよし、今日もガンガン掘っていくぞー! 目指せ、超豪華スーパー銭湯!」
せっかく作るんだから、ハルは風呂でも金が稼げるように、銭湯スタイルでデカく作ることにした。
部屋の構造はシンプル。なんせ汚れはサロンでスライムが食べるから、体を流す必要がない。
更衣室と湯浴み着を用意して、混浴にするのだ。
パーティションの裏側。
そこは、癒やしとは無縁の、活気に満ちた工事現場だった。
「泥一番くん、そっちの土砂はもうバッチリだから、次はもっと奥をお願い! 泥三番くんは削りカスのお片付けね! みんなで力を合わせて頑張ろう!」
ハルが明るい声を張り上げ、ゴーレムたちを応援する。
ハルの前では、三体に増員されたアース・ゴーレムたちが、もくもくとツルハシを振るっていた。
連日の営業で貯まったDPを使い、リンに頼んでさらに二体追加召喚したのだ。
カキン、カキン、カキン
三体のゴーレムが24時間体制で岩壁を削り続けた結果、四畳半しかなかった裏のスペースは、すでにちょっとした大浴場がすっぽりと収まるほどの広さにまで拡張されていた。
「すごいぞ、君たち! 削った分だけ、みんなが入れるお風呂が広くなるんだ! ボクも負けてられないな!」
ハルは腕まくりをして、やる気に満ちた表情を浮かべる。
ハルは足元に視線を落とす。
そこには、矢良内がホームセンターで大量に買い込んできた、灰色の塩ビパイプと、山積みにされたセメント袋があった。
ハルは軍手をはめた手で、塩ビパイプを軽快に組み上げていく。
昔、日雇いの工事現場で配管工の親方にしごかれた経験が、ここ異世界ダンジョンで完全に開花していた。
「水回りの基礎はボクに任せろっての! 親方直伝のパイプ繋ぎ、見せてやるぜ!」
ハルは鼻歌交じりに専用の接着剤を素早く塗り、パイプ同士を寸分の狂いもなく接合していく。
さらに、パイプの周囲を固めるために、バケツの中でセメントと水を絶妙な配合で混ぜ合わせる。
コテを使って灰色のモルタルをすくい上げると、滑らかな手つきでパイプの周囲を美しく覆い固めていった。
ゴーレムを三体も召喚し、これで土方作業から完全に解放されると、ハルは一瞬だけ天国を見た。
だが、矢良内の『アース・ゴーレムは単純な掘削と運搬しかできない。配管とモルタル塗りは手作業になるぞ』という正論を受け、ハルはすぐに気持ちを切り替えた。
結果として、ゴーレムたちが岩を砕き、そのすぐ後ろをハルが水糸を張って配管を組み、セメントで基礎を固めていくという、見事な連係プレーが完成したのだ。
「ヤラさん、昼間は本省の会議で胃を痛めてるんだろうな。夜はこっちの経理までやってくれてるし、現場の仕事くらいボクが完璧に仕上げて驚かせてやらないと!」
ハルは手首のスナップを利かせてコテを滑らせる。
ピンと張られた黄色い水糸を基準にして、水が正確に下水ドレンへと流れるように、ミリ単位でモルタルの傾斜を調整していく。
カキン、カキン
「ゴブゥゥゥ……」
背後では、ゴーレムたちの単調なツルハシの音と、申し訳程度に小さな石を運んでいるゴブリンの息遣いだけが響いている。
表では、エリート官僚たちが一万円札をポンポンと置いていく、夢のような不労所得のサロン営業。
裏では、セメントの粉にまみれながら、底辺フリーターが這いつくばって配管を組む土木工事現場。
「よーし、この調子でガンガン配管繋いでいくぞ! 待ってろよ、ボクの輝かしいスーパー銭湯経営ライフ!」
ハルはセメントで真っ白になった手で額の汗を拭い、再び塩ビパイプの束へと向かっていった。
それから、地道で、過酷で、そして最高に儲かる一ヶ月間が過ぎていった。
入り口付近のサロンには、スライムたちが発するほのかなミントの香りが漂っている。
だが、パーティションを一枚隔てた奥へ進むと、空気は一変した。
セメントが乾くアルカリ性の匂いと、塩ビパイプの接着剤のツンとした匂いが、入り混じって鼻を突く。
「ああ、今日は少し肩甲骨のあたりを重点的に頼むよ」
「はい、承りました。青のスライム、少し強めに吸いなさい」
表のサロンは、連日大盛況だった。
霞が関の官僚たちは、極限の疲労とストレスを吸い出してくれるスライムにすっかり夢中になり、毎日のように足を運んでくる。
ハルがレジ代わりにしている空き箱には、毎日決まって四十枚の一万円札が投げ込まれた。
最初の頃は、たった一センチの厚みしかなかった百万円の札束。
それが、二センチ、三センチと、日を追うごとに着実に分厚くなっていく。
輪ゴムで十万円ごとに束ねられた一万円札が、空き箱の中でブロックのように積み重なっていく。
それを見るだけで、ハルの心臓は早鐘を打ち、全身の疲れが吹き飛んでいった。
「ふはは……! 今日も四束、四十万円の追加だ! 金が……金が勝手に湧いてくるぞー!」
営業が終わった深夜。
誰もいなくなった空間で、ハルは札束の山に顔を埋め、インクの匂いを肺の奥まで吸い込んで下品な笑い声を漏らした。
だが、そんな夢のような集金作業の裏側では。
「オーライオーライ、泥三番くん! そこの角、あと五センチ深く掘れるかな! パイプの傾斜が完璧になれば、極上の水はけが約束されるんだ!」
ハルは夜まで、泥とセメントにまみれながらも声を張り上げていた。
三体のアース・ゴーレムたちも、ハルの勢いに呼応するようにカキン、カキンと小気味よいリズムで岩を削り続ける。
彼らが掘り広げた空間に、ハルが這いつくばって塩ビパイプを繋ぎ、水漏れを防ぐための防水セメントを勢いよく塗り込んでいく。
はじめこそ接着剤の匂いにむせ、セメントの粉で真っ白になっていたハルだった。
しかし一週間もすると、彼は接着剤の匂いを嗅ぐとなぜかテンションが跳ね上がるようになり、コテを使ってモルタルを平らに均す手つきは、完全にベテラン左官職人のそれへと進化していた。
「よし……! 水糸のライン、完璧! 傾斜の角度、一ミリの狂いもなし! ボクってばマジで天才じゃないの!?」
ハルはコテを置き、自分が仕上げた下水ドレンと、きれいに打ちっ放されたコンクリートの基礎を見渡して鼻を鳴らす。
手のひらのマメはすっかり固くなり、泥だらけのシャツは何度スライムに洗わせても落ちないセメントの染みがこびりついている。
「素晴らしいですわ、ハル! これほど見事な基礎、ドワーフの職人にも引けを取りませんわよ!」
リンが歩み寄り、パチパチと拍手を送る。
DPも、この一ヶ月で劇的に増えていた。
一日四十人、一ヶ月でおおよそ千三百人の来客。
人間たちがスライムに癒やされるたびに還元されたDPの総計は、千三百に達していた。
そこから、アース・ゴーレム三体分の召喚費用三百DPを差し引き、現在の数字は『1000DP』を誇らしく示している。
「へへっ、だろ? やればできる男なんだよ、ボクは!」
ハルはセメントで白くなった鼻の頭をこすり、ニカッと笑った。
「で、肝心の現金の方だけど」
ハルは作業着のポケットから、シワシワになった大学ノートを取り出した。
「総売上が一千三百万。そこから、ヤラさんが買ってきた塩ビパイプやらセメントやら、それにコテとかの備品代。さらにボクらのひと月分のモヤシ代と水道光熱費の先払い分をキッチリ差し引いて……」
ハルはノートの数字を指でなぞり、その口元を限界まで大きく歪めた。
「純粋に手元に残った現金……ぴったり、一千万円だ!」
ハルが声を張り上げた。
一ヶ月。
たった一ヶ月、四畳半の洞窟でスライムを客の顔に乗せ、裏でゴーレムたちと泥にまみれて基礎を作っただけで、底辺フリーターのハルは、大台の金額を手にしたのだ。
営業が終了した、深夜。
広大に拡張された裏の基礎工事現場に、セメントの粉で真っ白になったハルの歓喜の声が響き渡った。
「……手元に残った純利益、一千万! 厚さ、十センチ……ついに、ついに達成だああああッ!」
ハルは、輪ゴムでがっちりと止められた一万円札の巨大なブロックを、頭上高く掲げた。
手のひらには、ズッシリとした質量がのしかかってくる。
ただの紙の束ではない。一ヶ月間、泥とセメントと接着剤の匂いにまみれながら、ゴーレムたちと汗水垂らして築き上げた結晶だ。
十センチという物理的な厚みは、世界を支配したかのような無敵の気分をハルに与えていた。
ハルの背後には、三体のアース・ゴーレムが直立不動で待機している。
彼らと共に掘り進めた空間は、見事なスーパー銭湯の基礎として完成していた。
足元には灰色の防水モルタルが隙間なく敷き詰められ、塩ビパイプの配管が規則正しく並び、水はけを計算し尽くした傾斜を描いている。
「よくやった、ハル。それにゴーレムたちも」
コツン、コツン。
コンクリートの床を革靴で叩きながら、矢良内が歩み寄ってきた。
彼は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、ハルが掲げる十センチの札束と、見事に仕上がった基礎空間を交互に見渡す。
「一ヶ月で千三百人の客を回し、資材費や生活費といった経費をすべて引いて、一千万を残したか。初期の事業資金としては十分だ。基礎工事の仕上がりも申し分ない」
矢良内が、珍しく素直な称賛の言葉を口にした。
「だろ!? ヤラさんでも、ボクのこの完璧な仕事っぷりには文句つけられないだろ!」
ハルは札束のブロックを胸に抱きしめ、頬ずりをした。
インクの匂いすら愛おしい。
「ああ。だが、この巨大な施設を完成させ、さらに運営していくには、常識的に考えてお前一人の労働力では限界がある」
「分かってるって! だから、この一千万を資本金にして、株式会社を設立するんだ! ボクが社長で、リンちゃんが専務!」
ハルは鼻息荒く、一千万の札束を突き出した。
「あとは安い給料で従業員を雇って、残りのタイル貼りとかモルタル塗りを全部丸投げしてやる! これでボクも土方卒業だ!」
「ほう。悪くない判断だ。株式会社としての登記なら、我々の息のかかった司法書士に即日でやらせよう」
矢良内が頷く。
「よし、話が早い! 早速明日から、求人誌に広告を出して……」
「人手がいるのですか? ハル」
不意に、リンが澄んだ声で尋ねた。
彼女は石の玉座から立ち上がり、優雅な足取りでハルの隣に並ぶ。
「リンちゃん。まあね、これからドカンと会社をデカくしていくには、どうしても手足になって動く従業員が必要でさ」
「それならば、ダンジョンの機能で眷属を召喚しましょう。外の人間を雇うより、ずっと効率的かつ確実ですわ」
「あ、そっか。モンスターを呼べるんだったな。でも、今手元にあるのは1000DPぴったりだろ? 全部使っちゃうのはもったいないような……」
「ええ、わたくしもDPの無駄遣いは大嫌いです。ですから、安価なモンスターを大量に呼ぶような、費用対効果の悪い真似はいたしませんわ」
リンは小さく首を横に振った。
「現在必要なのは、建設作業の力仕事に耐えられ、かつ知性を持ち、あなたの指示を正確に理解できる優秀な人材ですわね」
「力があって、賢いヤツか。そんな都合のいいモンスター、1000DPで呼べるのか?」
「ええ。ちょうどぴったり1000DPで契約できる、うってつけの種族がいますわ。呼びますか?」
「……よし。リンちゃんがそこまで言うなら、先行投資だ。呼んでくれ」
ハルが頷くと、リンは白く細い手を軽く高く掲げた。
ピカーッ!
ハルの視界が、強い緑色の光に染まる。
床に描かれた見えない魔法陣から、風が吹き荒れた。
『DPを1000消費しました』
無機質なアナウンスが脳内に響く。
光が収まると、そこに一人の女が膝をついていた。
紅い瞳に、人にしては整いすぎている顔。
透き通るような白い肌。
漆黒の髪を後ろでなでつけ、夜会服のような黒い外套を羽織っている。
その外套の下の肉体は、グラマラスで蠱惑的だった。
「お呼びでしょうか、我が女王。そして、マスター」
女が立ち上がり、優雅な所作で一礼する。
口元からは、鋭い犬歯がわずかに覗いていた。
「低級ではありますが、吸血鬼ですわ。強靭な肉体と、高い知性を併せ持っています。夜間作業や地下での労働には、これ以上ない適性を持っていますわよ」
「おお……なんか、すごいのできたな」
ハルは、吸血鬼の女をまじまじと見上げた。
言葉は通じる。知性もある。なにより、その腕っぷしは素人目にも頼もしく見えた。
「今日から、お前がウチの第一号社員だ。よろしく頼むぞ」
「はっ。身命を賭して、社業に尽力いたします」
吸血鬼が、恭しく頭を下げる。
一千万円の資本金と、頼れる第一号社員。
ハルの手元には、会社を立ち上げるためのピースが確実に揃いつつあった。
「株式会社ダンジョン……悪くない響きだ」
ハルは一千万の札束を抱え直し、これから完成するであろう巨大なスーパー銭湯の未来図を思い描いて、静かに口元を緩めた。
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