009 霞が関ゾンビ大襲来! 原価ゼロのパニック営業と札束の雨2
彼が去った後のダンジョンには、整理券の一番から五番を握りしめた、五人の官僚たちが礼儀正しく順番を待っている。
「ふぅ……助かった。ヤラさんのおかげで、金を取りっぱぐれずに済んだぜ」
ハルは左手に握りしめた一万円札を、ズボンのポケットにねじ込んだ。
そして、顔の筋肉を緩め、最高の営業スマイルを張り付ける。
「さあ、お客様! 極上のスライムエステ、開店いたします! 靴を脱いで、そちらのゼリーの上へ仰向けになってくださぁい!」
「おおっ、ついに……!」
先頭の男が感極まった声を上げ、躊躇なく黄色いスライムの上へとダイブした。
ぽすん
「ああっ……! なんという体圧分散……! 背中の痛みが消えていく……!」
男が恍惚とした吐息を漏らす。
スライムはすぐさま男の顔面に這い上がり、その体積を広げて顔全体を覆い尽くした。
ジュルッ、ジュルルルッ
男の毛穴に詰まった徹夜の皮脂、古い角質、そして極限のストレスから分泌された不純物を、スライムが見事な吸引力で吸い取っていく。
「ふはぁっ……最高だ……俺の汚い部分が、すべて浄化されていく……!」
男は白目を剥き、完全に意識を飛ばした。
その横でも、別の客たちが次々とピンクや青のスライムに身を預け、天に召されたような顔でだらしない声を上げている。
「ふふふ。完璧だ。これで二十分ごとに五万円が自動で手に入る計算だ。一日回せば……ひゃくまんえん!」
ハルは、スライムに顔を吸われている客たちの横で、電卓を弾く真似をしてニチャァと邪悪に笑った。
リンも、落ち着きを取り戻して優雅に微笑んでいる。
整理券システムという、現代の事務処理の結晶。
それによって、この極狭ダンジョンは、見事なまでに効率的な原価ゼロの集金マシーンへと変貌を遂げたのだった。
これ以上はないというくらい、順調な滑り出し。
だが、その時。
カツン、カツン。
路地裏のコンクリートを叩く、硬質なヒールの音が聞こえてきた。
ハルが鉄扉の方へと視線を向ける。
入り口に立っていたのは、明らかに他の客たちとは毛色の違う人物だった。
仕立ての良さが遠目にもわかる、上品なグレーのタイトスーツ。
髪を夜会巻きにまとめ、鋭い三白眼を持った五十代半ばの女性だ。
霞が関という伏魔殿を生き抜いてきた重鎮のお局様、あるいは局長クラスの高級官僚特有の、肌を刺すような冷たいプレッシャーが彼女の全身から放たれている。
「……ここね。矢良内くんが妙な店に出入りしていると聞いて査察に来てみれば。ずいぶんと薄暗くて、カビ臭い場所じゃないの」
女性官僚は細い眉をひそめ、ハンカチで鼻口を覆った。
整理券の時間通りにやってきた客の一人なのだろうが、周囲で待機している若手官僚たちが、彼女の姿を見た瞬間にサッと道を空け、直立不動で頭を下げている。
ハルは、手の中に一万円札を握りしめながら舌打ちをした。
(やべえ、いかにもクレーマー気質の偉いおばさんが来ちゃったよ。こいつを怒らせたら、他のカモどもまで萎縮して金払いが悪くなる!)
ハルが愛想笑いを浮かべて前に出ようとした、その時だった。
パーティションの裏側から、石の盆を持ったゴブがひょこひょこと歩み出てきた。
おぼつかない足取りで運んでいるのは、施術を終えた客に出すための、泥水のように濁ったコケ茶だ。
「……なによ、それは。衛生管理はどうなっているの?」
女性官僚の鋭い視線が、ゴブを真っ直ぐに射抜いた。
臆病なゴブが、霞が関の重鎮が放つ、肌が粟立つような冷たい空気に耐えられるはずがない。
ビクッ
ゴブの小さな肩が跳ね上がり、短い足がもつれた。
ガチャン!
石の盆が床に落ち、ブリキのカップから緑色のコケ茶が派手にこぼれ落ちた。
ゴブは前のめりに転び、女性官僚の磨き上げられた黒いパンプスのすぐ目の前で、べちゃりと岩肌に腹ばいになってしまう。
「ゴブゥ……」
ゴブが涙目を浮かべ、短い手で頭を抱えて震え出した。
ハルの心臓が、跳ね上がった。
ゴブへの心配ではない。目の前のお金が消え去るかもしれないという、経営者としての極度の焦りだ。
(終わった! よりによって一番怒らせちゃいけない客の足元に泥水をぶちまけかけた! 返金騒動になる!)
ハルが必死の言い訳を叫ぼうと口を開きかけた瞬間。
女性官僚が、ゆっくりとゴブの前にしゃがみ込んだ。
「あなた……」
ヒヤリとした声。
だが、次に彼女の口から紡がれた言葉は、ハルの予想を完全に裏切るものだった。
「なんて精巧な、小人の着ぐるみ……。いえ、最新のロボットかしら?」
女性官僚は、細い指先を伸ばし、震えるゴブの背中へとそっと触れた。
ゴブの皮膚は、人間によく似た生々しい肌色をしている。
童話の挿絵に描かれている小人の妖精をそのまま現実の肉体に落とし込んだような、醜悪さと愛嬌が同居した奇妙な造形だ。
「ああっ……温かい。それにこの、すべすべとした人肌のような感触……」
女性官僚の声から、先ほどまでの刺々しい棘が完全に抜け落ちていた。
連日の国会答弁と省庁間の派閥争い。
終わりの見えない書類仕事で、彼女の心はとっくの昔に砂漠のように干からびていたのだ。
そこに突如として現れた、怯えてすり寄ってくる無害な小人の妖精。
彼女の心の奥底で眠っていた強烈な母性が、音を立てて目を覚ました。
「ゴブ? ゴブゥ」
ゴブが不思議そうに顔を上げ、女性官僚の指先に短い頬をすり寄せる。
「チョー癒やされる……!」
「はい?」
ハルの口から、間抜けな声が漏れた。
女性官僚はゴブをひょいと両手で抱き上げると、そのまま頬ずりを始めた。
「素晴らしいわ、矢良内くん。こんな素晴らしいアニマルセラピーを隠していたなんて。ああ、この愛くるしい涙目……たまらないわ……!」
女性官僚はゴブを胸に強く抱きしめたまま、ハルに一万円札を叩きつけた。
「ベッドはどこかしら! 私、この子と一緒に施術を受けたいのだけれど!」
「あ、はい! 喜んで! そちらの黄色と紫のベッドへどうぞぉ!」
ハルは反射的に一万円札を受け取り、昨晩自分が寝汗をたっぷりかいたスライムを指差した。
女性官僚はゴブを抱いたまま、スーツのジャケットも脱がずに、黄色と紫の巨大ゼリーの上へと仰向けに倒れ込む。
ぽすん
「ああっ……!」
女性官僚の口から、官能的な吐息が漏れた。
スライムの適度なひんやり感が、火照った背中をぴったりと包み込む。
さらに、腹の上には、体温の高い小人の妖精がちょこんと座っている。
下からの冷却と、上からの温熱。
未知の体圧分散と、老廃物をジュルジュルと吸い取るスライムの微かな刺激。
「ふわぁ……予算配分なんて……もう、どうでもよくなるわぁ……」
「いや、ならんだろ」
霞が関の重鎮は、スライムとゴブリンという異世界の生態系の前に完全に陥落し、だらしない顔でよだれを垂らし始めた。
その光景を見ていた、周囲の若手官僚たちがざわめき出した。
「あ、あの鬼の局長が、一瞬でとろけたぞ……!」
「あの小人の妖精、そんなに気持ちいいのか!? おい店長、俺もその妖精を触らせてくれ! 別料金払うから!」
「私にも! 抱っこさせて!」
次々と、ハルの前に一万円札が突き出される。
単なるスライムエステに、思いがけない妖精のアニマルセラピーという付加価値が加わった瞬間だった。
「……こいつら、マジでエリートか? 疲労で脳みそ溶けてんじゃないの?」
ハルは、群がる客たちを呆れた目で見つめながら、しかしその両手は一切休めることなく、次から次へと一万円札をむしり取っていく。
「まあいいや! 金落とすならおっさんでも妖精でも何でも触ってくれ! さあさあ、ゴブの指名料は一回千円の追加オプションだよぉ!」
ハルは悪魔のような笑みを浮かべ、さらに札束の山を高くしていく。
リンはそんなハルを無視して、ただ一人、天井近くに浮かび上がるダンジョン管理システムの半透明のパネルを見つめていた。
ピコン、ピコン、ピコン!
小気味よい電子音とともに、パネルの数字が軽快に跳ね上がっていく。
客たちの圧倒的な快感と感謝の念が、濃密な魔力となってダンジョンに還元されている証拠だった。
「素晴らしいですわ……! 人間たちの精神エネルギーが、これほどまでに豊かなDPを産み出すなんて……!」
リンは両手を胸の前で組み、感動の涙を流している。
原価ゼロの使い回しスライムに狂喜する底辺フリーターと。
ただひたすらにDPの増加を喜ぶ、世間知らずのダンジョンボス。
そして、一万円を払って魔物にむさぼられる日本のエリートたち。
誰一人として真っ当な倫理観を持っていない異様な空間の中で、スライムエステは着実に、そして爆発的に利益を積み上げていくのだった。
それから、怒涛の1日が過ぎた。
ハルが入り口の鉄扉を閉め、重いカンヌキを下ろした。
ガシャン、という金属音が、静まり返ったダンジョン内に心地よく反響する。
「終わった……。マジでやりきった……」
ハルはそのまま鉄扉に背中を預け、ズルズルと座り込んだ。
矢良内の残した整理券システムは、完璧に機能した。
五十人の過労ゾンビをさばき切った後も、口コミを聞きつけた霞が関の役人たちが次々と押し寄せてきたが、一時間に十五人というペースを崩すことなく、夕方までに百人の客を回し切ったのだ。
足元では、五匹のスライムたちが、客の老廃物と疲労を限界まで吸い込み、バランスボールのようにパンパンに膨れ上がっていた。
彼ら(彼女ら?)は満足げにぷにゅぅ……と鳴きながら、床の上でだらしなく溶けている。
その横では、ゴブもアニマルセラピーの激務を終え、フラフラを通り越して気絶していた。
だが、ハルに疲労感はなかった。
「ひゃ……ひゃくまんえん……!」
ハルは這うようにして札束を手に取り、感慨深く。
「一日で、百万円……! すげえ、これなら毎食モヤシ炒めに、最高級の黒毛和牛の切れ端を乗せられる! いや、むしろモヤシを主食から副菜に格下げすることすら可能だ……ッ!」
その発想がすでに底辺から抜け出せていないのだが、ハル本人は本気で感動に打ち震えていた。
顔についた岩の粉塵と、一万円札のインクの匂いが混ざり合う。
「やった……! これでボクもついに、風呂なしアパートの底辺フリーターから、年収三億の若きIT社長的なポジションに……!」
「ハル! 見てください! ついにやりましたわ!」
ハルを、背後からリンの声が遮った。
振り返ると、リンは玉座の前に立ち、空中に浮かび上がったダンジョン管理システムの半透明パネルを指差していた。
彼女の碧い瞳からは、滝のような感動の涙が流れ落ちている。
「百ですわ……! お客様の快感と感謝が豊かな魔力となって、ダンジョンポイントが、ついに『100DP』も貯まりましたのよ!」
「お、おう。百か。そりゃすごいな」
ハルは札束を抱いたまま、適当な相槌を打つ。
百万円の現金と、100DP。
リンは日本の通貨価値をあまり理解していないため、百万円には目もくれず、ただひたすらにパネルの『100』という数字を拝んでいるのだ。
(まあいい。リンちゃんがDPで喜んでる間に、このリアルな現金はボクとヤラさんで有意義に使わせてもらうさ。ふふふ、これだけ金があれば……)
ハルの脳内に、札束で横面を叩くようにして業者を動かし、豪華なスーパー銭湯を建設する甘いビジョンが広がっていく。
ガチャリ
そこへ、扉が開く音がした。
「……戻ったぞ」
本省での地獄のような予算会議を終え、首元までボタンを開けた矢良内が入ってきた。
さすがの彼も疲労困憊の様子で、いつもの冷徹な足取りにわずかな乱れが見える。
「ヤラさん! お疲れ様!」
ハルが札束の山から顔を出す。
矢良内は、一万円札の束と、ニチャァと笑うハルを見て、持っていたアタッシュケースを取り落としそうになった。
ガタン
「……たった一日でどれだけ稼いだ?」
矢良内が、ずり落ちそうになった眼鏡を押し上げながら呟く。
「百人だよ! ヤラさんの整理券のおかげで、百万円ぴったりだ!」
ハルは立ち上がり、札束を一枚、扇子のように広げて見せた。
「ヤラさん、もうボクら、ツルハシなんていう原始的な道具を振らなくていいんだぜ。だって、こんなに金があるんだから!」
ハルがリンの頭上に浮かぶパネルを指差す。
「リンちゃん、そのダンジョンのシステムを起動してくれ! この百万円を課金して、システムから直接『豪華なスーパー銭湯』を買って設置するんだ! 明日からは、異世界のスパリゾート経営の始まりだ!」
ハルは高笑いを上げた。
現金でダンジョンの機能を回し、風呂を建設する。
現代のソシャゲに毒された、実に安直で完璧な計画だ。
だが。
「……ハル。何を言っているのですか?」
リンが、心底不思議そうに小首を傾げた。
「え?」
「お風呂の施設をダンジョンシステムで構築するには、もっとたくさんのDPが必要ですわよ。今日の稼ぎの100DPでは、買えませんわ」
「は?」
ハルは、手の中に握っていた札束と、リンの顔を交互に見比べた。
「いや、じゃあ、DPじゃなくて、この日本円! 百万円をダンジョンに課金して……」
「紙でDPは買えませんわ。ニホンの紙切れをシステムに入れても、ただのゴミとして消化されるだけです」
リンの残酷な宣告。
ハルの顔から、サァッと血の気が引いていく。
「……え? うそでしょ? じゃあ、この百万円で、外の水道業者を呼んで……」
「それもいいが、100万程度ではなあ」
矢良内が、冷ややかな声でとどめを刺した。
「電気ガス水道、風呂工事、業者に頼むなら100万程度では足らんぞ。まだまだ稼がないとな」
「なっ……!?」
「金はあるんだ。それは良いことだ。その金は設備投資に回す。それも良いことだ。だが、初日のこの勢いを、維持していかなければならん」
矢良内はネクタイを外し、ワイシャツの袖をまくり上げ始めた。
「だが、確かに最低限の施設は必要だな。すぐにでも。明日、お前がホームセンターへ行き、業務用のバスタブと塩ビパイプ、セメント、それに防水材を三十万円分買ってこい。業者に頼んだとして何ヶ月かかるかも分からんしな」
「……まさか」
ハルの唇が震える。
矢良内は、壁に立てかけてあったあの憎き相棒──ツルハシを手に取り、ギラリと眼鏡を光らせた。
「俺たちで岩をくり抜き、配管を組んで、風呂を作るぞ」
「結局、物理的な土方作業じゃねーかああああああッ!!」
ハルの絶望の叫びが、ダンジョンに虚しく吸い込まれていく。
百万円の現金。
だが、それを風呂に変えるのは、結局自分たちの腕力と汗。
かくして、底辺フリーターの終わらない肉体労働の夜は、まだまだ続くのだった。
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