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物心ついた頃には今とあまり変わらない広さのアパートで母さんと自分の二人しか家に住んでいなかった。
子どもながらに父親の存在を不思議に思い「僕のお父さんはどこ?」と聞いたことがあったが、その後、気を悪くした母さんが家を出て一日以上帰ってこなかった。これは触れてはいけない話題だったと学習した俺は、二度と口にすることはなかった。
こんな家庭に子供らしいおもちゃなどあるわけがなく、年季の入った電子ピアノだけが唯一の遊び道具だった。それも子どものために用意したおもちゃというわけではなく、母さんの私物だった。母さんの機嫌が心底悪いハズレの日は、「触らないでよ!」とヒステリックに怒られた。そんなときは、出掛けているときを見計らって遊んでいた。
大体がそんな日々だったが、ときどき大当たりの日があり、俺にレッスンをつけてくれることもあった。
アパートの窓が掻っ攫っていかれそうな空っ風が吹き荒れる冬の日、暖房器具もない部屋で電子ピアノを鳴らしていた。ガタガタと建物を揺らす風が音を隠してくれるので、隣人を気にかける必要もなかった。
当時四歳だった俺は左手のヘ音記号の楽譜が理解できずめちゃくちゃな、耳障りの音で弾いていたら、そんな状況を見兼ねて母さんが声を掛けてきた。
「馬鹿ね、左手はヘ音記号なんだから、ト音記号と同じ読み方をしてたら別の音になっちゃうでしょう」
「だって、難しいんだもん」
「しょうがないな。そうね、あんたも本当だったらまだ幼稚園に行ってる歳だもんね。まともな親ならね」
自嘲気味に鼻で笑うと俺に近づき後ろから包み込み、母さんの体温が背中から腕、指にかけて伝わり寒さで消えていた感覚を取り戻してくれる。前屈みになった母さんの髪がサラッと頬を撫でてくすぐったくて、「へへへ」と笑いが溢れた。
体温だけじゃない、化粧品とシャンプーが混ざり合った母さんの香りで心がいっぱいになった。その日は安心する大好きな香りだったが、嫌な匂いがするときもあって一日家を空けてから帰ってくると、息をする度酒の匂いがするし、身体中から煙草の匂いもした。
大人になって外で何をしていたのかは大方予想がつくけど、今でもあまり受け止めたくはない。
そんな生活を続けていたが、小学校に入学するタイミングで田舎にある母さんの実家へ移り住んだ。初めて建物よりも緑が多い地域へやってきてふかふかの土を踏み、大きなミミズと出会う、視界を遮る大きな建物もなく空と一つになる。全てが新鮮で体に染み渡る自然がたまらなかった。
確かに、突然で少し困惑したけど前の家に思い入れもないし、一緒に連れて行ってもらえるだけよかった。その家には俺の祖母にあたる人が一人で暮らしていて、親子二人はとても見た目が似ていた。そしてなにより、いつも苦しくて全てを憎んでいるようなところがそっくりだ。
「誰の子かも知らない子どもを連れ帰って来て、いい迷惑だよ」
「馬鹿だね。役に立たないのばかりで邪魔くさいね」
こんなことをいつもぶつぶつと呟いていたが、母さんも昔からそうだったのであまり気にはならない。
良い事ばかりではなく、ピアノは納戸に片付けられてしまい、そんなものは初めからなかったかのように二人とも振る舞っていた。仕方がないが狭いそこで隠れて弾いていた。この家の人にとって触れられたくない物をここに閉まっていたのだろう、初級のバイエルからクラシック、一昔前に流行っていたバンドのスコアなど様々な楽譜かはアルバムまで様々な物が一緒に仕舞われていた。
数年待ち、母さんが夜に働き始めたのでまたすれ違う時間が増えた。それでも時折夕食には三人揃うこともあったし、俺にとってのこの小さな平和が続いていくなら不満はなかった。
けれど人生、そうそう上手くはいかなかった。
母さんが出掛けたまま帰ってこない。最初は昔も一日二日帰ってこないことはよくあったから、いつものことだと呑気に考えていた。
数日経っても帰ってこない。
数週間経っても帰ってこない。
数ヶ月経っても帰ってこない。
そのうち寒い冬も終わり、あっという間に暖かい春が始まった。
そして俺は捨てられたと確信した。
出勤時とは打って変わり、寝静まる繁華街を駐輪場に向かって歩く。通りに残っているのは帰るところがないやつか、帰り方が分からない酔っ払いだ。そんな独特な冷気に包まれ、さっきの演奏で火照った体を落ち着ける。
演奏前、オーナーに釘を刺されていたのに、今晩も自分だけの世界に入り込んでしまった。もちろんある程度、セッションが可能な程度の意思疎通は行っているが、そういう問題じゃない。お金を貰っている以上、上司の指示には従うべきだし、そもそも中途半端な仕事は駄目だと分かっている。でも落ちた世界からもがき浮き上がろうとする努力が足りない。
ふぅと息と一緒に内側の凝り固まった物を吐き出す。気分が優れない時はため息をついて心に余裕を作るもんだな。
駐輪場に着くと見知った男が、俺の自転車に跨っているので気分が下がる。後ろから忍び寄り、厳しく声をかける。
「ちょっとお兄さん、これは俺の愛車ですけど」
「知ってるさ、おまえを待っていたんだからな無名ピアニスト」
驚く様子もなくサドルから滑り降り、性格同様さっぱりとしたツーブロックヘアの男が振り向く。分かっていたけど、やっぱりこいつか。
「俺はピアニストなんて大それた人間じゃない。その変なあだ名をやめろ」
「でもフィラメントのオーナーがそう言ってたぜ」
名前負けすることこの上なく恥ずかしいな。
遠回しにお前と話す気は無いと伝えるため、さっさと鍵を開け自転車を押して歩き出す。しかし、こいつに察することを期待しても無駄だったか、後ろを歩いて着いてくる。
何度も顔を合わせてお互い軽口を叩いているが、実はこいつについて詳しくは知らない。最初から砕けた口調で話しかけてきたので、勝手に同い年くらいかと予想している。
話の内容が分かりきってる俺は後ろを振り向きもせず、会話を続ける。
「ストーカーはやめてくれよな。どうせお前が待ち伏せていたのはまたあの話なんだろう」
「おいおい、人聞きの悪い言い方するなよ。それに分かってるじゃないか、何度も言ってるが俺たちのバンドにキーボードとして加入してくれよ」
「はいはい、考えておくよ」
数ヶ月前から会う度に繰り返す決まり文句で今日も返事をしたら、自転車に跨りこいつを置いて漕ぎ出す。
ガシャン、と大きな音が耳に届いたと同時に身体が前のめりになる飛び出る。ぶつかったと焦った瞬間、乱れた前髪の隙間からあいつと目が合う。一瞬で俺の前に出て自転車のカゴを握り、行く先を阻んでいた。「危ないだろ」と忠告しようとしたが、先に言葉を遮られてしまった。
「本気で考えて欲しい。勝手かもしれないけど、そろそろ本格的に始動してメジャーデビューを目指したいんだ」
今までにない真剣な顔と目で俺を捕らえて離さない。
「オーナーに良い奴がいるって聞いて、あのクラブでお前の演奏を聴いた」
やめてくれ、そんな生気に満ちた感情をぶつけないでくれ、俺を見ないでくれ。こちらの気持ちなどお構い無しにこいつは続けていく。
「だから、『分かったよ。今度ゆっくり話を聞くから』
こいつから吐き出される白い息が熱量を可視化される。それでもそれを上回る声量で言葉を遮ると、とにかく切り上げたいあまり適当な約束を取り付けてしまった。だがそれでも良い、今はもう一人になりたい。
肯定的な意味だと受け取ったのか赤くなった鼻の穴を開き、顔が輝いた。
「ありがとう!いつなら空いてる、お前の都合に合わせる!」
「来週の土曜日、昼過ぎにここで」
「よし分かった、よろしく頼む無名ピアニスト」
「うるさい。じゃあな、バンドマン野郎」
やっと解放されたが、この寒空の下夜風がよりいっそう俺の手足を冷たくさせたせいで、感覚のおぼつかない体で無心に自転車を漕いだ。どのくらいの速度で走っていたのかも分からない。