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 ピピピピッ、ピピピッ。


 

 携帯に設定していたアラームが部屋中に鳴り響く。慣れた仕草で画面を確認せずに指だけで止め、布団の中でまだ夢見心地を味わう。

 この微睡みの時間は好きだが、どうしてこうも睡眠時間とは短く儚いのだろうかと不満に思う。寝ぼけ眼でやっと時計を確認すれば、労働した時間と同じだけしっかりと寝ていたみたいだ。やっぱり、納得行かない。

 こんなこと考えている暇はない、出掛ける為の支度をしないといけないんだ。名残惜しいが体を起こして外を確認するともう夕日に世界は染まっていた。



「良い天気だったんだな」



 まずは昨日の俺から託されたミッションを遂行する。風呂をシャワーで簡単に済ませようと風呂場に向かえば、ユニットバスの流しには一昨日使ったピアッサーが置きっ放しになっている。

 これも片付けないといけない。



「どうして色んなことを未来の自分に任せるかな」



 流しの鏡に写った自分に毒づきながら、適温になったシャワーを頭から浴びる。

 寒い、この季節にお湯張りを面倒くさがったのは間違いだったか。手早く済ますと、黒いパンツにタートルネックのセーター、ジャケットを羽織りフォーマルっぽく仕上げる。数少ない一軍の服達だ。

 グルグルっと腹の虫が鳴る。何も食べずに寝たから腹が減った、朝飯でも食べよう。

 小さな鍋でお湯を沸かしている間、流しの横に置いてある段ボールからインスタント食品を漁る。

 本当はカレーが食いたいが、米がないから無理だな。よし、贅沢に二食分ということで、二倍盛りカップラーメンにするか。やっぱりラーメンは味噌味に限る。


 食事で体の中を温め、防寒着でしっかりと熱が逃げないように閉じ込める。意を決してドアを開けると、すっかり陽が落ちて冷えた空気が待ってましたとばかりに部屋へ流れ込んでくる。「寒い」また声が漏れる。

 そんな中、第二のアルバイト先へ向かうため、自転車を引っ張り出す。




 指定の駐輪場に自転車を停め、この町一番の繁華街へ向かって歩いて行く。手袋をしてきたのに手が悴んで仕方がない。

 色とりどりの灯りが増えるに共なって往来する人も増え、特にスーツ姿の人々が軽い足取りなのが目に止まる。その人達はどの店に寄るか立ち止まっては中の様子を伺って、また歩き出す。

 そんな中、通りを北に向かって中程まで進むと、六階建ての雑居ビルがある。綺麗に塗り変えられて移り行く時代に遅れをとらないようにしているが、縦に並んだ各階の突き出し看板や、なんとか人とすれ違える程の幅しかない階段に懐かしさが否めない。

 俺はなぜだかこういう年季の入った建物が好きで愛おしくなる。左手で壁をなぞりながら、四階まで一気に階段を登る。



 ジャスクラブ『フィラメント』



 踊り場に到着すると店名が刻まれた茶色い木の扉が現れる。

 横の壁には準備中の札が掛けられており、隅に小さく十九時から営業と書かれている。それを横目に店内へ入ると、カランコロンッと軽やかに頭上のベルが踊り歓迎してくれる。呼称の知らない俺は勝手に踊るべルと呼んでいる。

 適温に保たれたフロアにほっと一息つき、力んでいた身体の力を抜く。そしてこの後のために息を吹きかけながら手と手を擦り合わせて、感覚を取り戻していく。

 店内ではすでに何人かのスタッフが準備に追われていた。「お疲れ様です」とお互いに簡単な挨拶を交わしたら、荷物を片付け自分の持ち場に入る。風で乱れてしまった身なりをそれなりに整え、ピアノの前に腰掛ける。

 もう一つのアルバイトはジャズクラブでのピアノ演奏だ。



 とりあえずウォーミングアップがてら好きな曲を弾こう。ブルグミュラーのアラベスクか、子犬のワルツか、いやクラシックよりポップスでルパンのテーマだろうか。お高いピアノへ触れられる機会はこのアルバイトくらいしかないからな、決めあぐねる。



「よう、今晩のセッションよろしくな無名ピアニスト」



 考え込んでいて、入店のベルにも背後の気配にも気が付かなかった。



「よろしくお願いします。って、そのあだ名やめてくださいよ。嫌味ですか」


「何言ってんだ、おべっかを使ってないぞ。俺はお前の演奏が好きなんだ」



 そう言って軽口を叩くのはクラブのオーナーで、演奏ではサックスを担当している。おそらく五十代後半、髪と無精髭に白髪が混じっているが、目の奥には衰えを感じさせない光がある。

 親子ほど離れているであろう相手、ましてや雇用関係であるがとても気さくな人だ。なにより、いつまでも子どものような無垢な表情で良い大人だと思っている。



「それならこれからも、ここで雇ってくださいね」


「どうしようかな。お前の悪い癖、自分の世界にのめり込みすぎるところを直せたら、だな」



 顎の髭を親指と人差し指ですりすりと触りながら、はっきりと人が気にしていることを指摘する。

 セッションを通してオーナーの音楽には信頼を置いているので不快には感じないが、図星をつかれ「ハハハッ」と笑って誤魔化す。俺が自覚しているのを分かってか、それ以上は言及せずに楽譜を渡された。



「ほい、これ今日のセトリ。また後からな」



 軽く背中を叩かれ、「楽しもうぜ」と一言付け足して去って行く。


 楽しもうぜか、確かにピアノを弾いてるそのときだけは満たされるし生きる辛さを忘れる、けど。

 楽しめているのかと聞かれると分からない。

 考えたくないことは頭から排除し、今度こそピアノに姿勢よく向き合い、一呼吸する。心が整ったら鍵盤に指を触れウォーミングアップを開始する。


 あれから三十分程経ち、開店間際だ。


 この店は客が来る頃にはもう演奏が始まっている。店内のBGMを生演奏で流しているようなもので、ジャズ喫茶との良いとこ取りだ。他にも誰かが休憩したらソロパートを弾いたりと自由で俺を含め、ただ音を鳴らしたい人達が集まっている。

 その自由故に各パートのアレンジ、お互いを尊重したアドリブ力を求められる。だからオーナーの指摘通り、自分の世界にこもっていてはいけない。



「よし、そろそろ良いかな」



 オーナーの一言で、サックス、ギター、ドラムの皆と呼吸を合わせ音楽になる。今晩は金曜日、多くの人が仕事終わりに訪れる。

 まずは定番曲から、一曲目は『星に願いを』から。


 結局俺は、深く深く自分の世界に落ちて行く。





次回は8月14日(木)12時20分頃

更新を予定しています。

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