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6-3 ※最後に軽度の自傷表現あり




「でもときどき考えちゃう、この子がいなければまだ私はあそこに居られたのかなって」


 俺は周りの人々への迷惑も顧みず荒々しい動きで、入ってきた扉へ一目散に向かった。



 入るときはあんなに重く感じた扉も、今回は易々と開けられることができた。最初からこんな華やかな場所に俺なんてお呼びじゃなかったんだ、どうして同類だなんて勘違いをしてしまったんだろう。

 エントランスに居るスタッフたちの訝しげな目線を受け流し、そのまま外へ飛び出す。あんなに心躍らせた階段を今は必死に空気を求めて駆け上がり、地上へと顔を出す。数十分ぶりのこの薄汚い世界に少し安堵し、とにかく歩いてこのまま心も身体も落ち着くのを待つ。


 あの子だって今後の生活を危惧し、それが爆発してあんな風に言ってしまっただけで、落ち着けばなんてこともないだろう。俺だって一抹の不安に振り回されて、どうしようもなくなり身動きが取れなくなるのを知っているじゃないか。


 だからまた今回も、少しの我慢。


『あんたが邪魔なのよ、あんたがいなかったら私だってピアノの夢を追えたのよ』


 頭の片隅で忘れかけていた言葉が蘇る。皮肉だな、人は声から忘れていくって言われているのに、一語一句鮮明に覚えているなんてな。俺だって母さんのためになるなら消えたかったよ、でも離れられなかったんだ。母さんしか居なかったんだよ、俺の世界にはね。


 母さんが俺よりもピアノを愛していたのは、物心着く頃にはもう分かってたよ。だから俺も好きになったし、必死に練習もした。でも駄目だった、なのに今でもピアノを弾けば母さんがいる気がする、後ろから手を差し伸べて包み込んでくれるんじゃないかって。


 約束を破られて期待しなくなっても、目の前から忽然と消えてしまっても、お母さんは心の深くに根ざしているんだよ。



「ゴホッゴホッ」



 歩みを止めて俯きながら、湧き上がる咳をもはや自虐的に吐き出している。一緒にこのわだかまりも吐き出してしまおうとするが、それは無理な話で全く心の波は改善されない。


 どうすれば解放されるんだ。


 助けてくれよ。



「大丈夫ですか」



 なんだよ、今日はいやに他人の会話が耳に入るじゃないか。聞き流してそのままアスファルトをひたすら見つめていたら、視線の一介に光が差し込んできた。



「よかったらこれ、使ってください」



 予期せぬ出来事に驚き、その先を辿って顔を上げると、好青年がクリーム色のハンカチを差し出していた。綺麗な暖かい色がまるで発光しているように見えた。


 上手く回らないのは頭なのか口なのか分からないが、なんとか「ありがとう、大丈夫」とお礼と返事を絞り出した。几帳面に切り揃えられた爪から伸びる綺麗な白い指に魅入られながら、震える手でハンカチを受け取ると、柔らかい感触が優しく迎えてくれた。


 返事を聞いて好青年は「よかった」と軽く微笑み、絹のような色素の薄い茶髪を揺らした。そしてさらに続ける。


「もし、体調が優れないようなら、少し休んでいかれるといいかもしれませんね。今日も寒いですから、こことかおすすめですよ」


 ゆったりとした彼の声に耳を傾けていると、そう言ってあの綺麗な手で優雅に俺の左側を指し示す。




「いらっしゃいませ」


「コーラをお願いします」



 好青年のアドバイスを素直に受け入れ休んでいくことにした俺は、踊るベルを鳴らして入店するなり、カウンターに居るいつもの彼へ乱暴に注文を済ます。



「かしこまりました、空いているお席でお待ちください」



 その言葉を聞いて、突き当たりにある空席へ一目散に向かい着席した。テーブルに両肘を突き今まで力んでいた身体を預けると、心の緊張も少し緩んだ感じがする。ついさっき借りたハンカチを持ったまま、痛む頭を抱えてゆっくりと目を閉じた。


 好青年の優しさに触れやや凪いだ心と、暖房によって冷え切っていた体の感覚が戻り、自分が帰ってきた。


 今どきあんな清浄無垢な人間っているんだな。きっと俺とは全く違う歳の重ね方をしてきたんだろう、捧げた分以上の愛情が彼の中には満ち満ちていたしな。


 それに比べてなにやってんだ俺は。


 やると決めたことから逃げ出して、いつまでも過去の悲しみに溺れては、そんな自分を正当化する。この世は海と同じだ、容赦なく嵐が吹き荒れる海面は苦しいが深く潜れば穏やかで、ただそこは揺蕩うだけ。だったらもう必死に藻がいて息を吸おうなんて思わない、沈んだままで十分だ。


 テーブルに両肘をついた状態のまま、手を頭から二の腕へ移動させて掻きむしる。厚着をしているせいでいつもみたいに、爪が柔らかい皮膚へ食い込む感覚がなく、痛みからの爽快感が得られない。


 もっと他のことを忘れられるくらいの激しい痛みが欲しいのにな。



「おかーさん見て見て!中にチョコ入ってるよ」



 聞こえてきた声の先を見ると、男の子が子ども特有の間延びした、舌ったらずの言葉で一生懸命に気持ちを伝えている。興奮して宙に浮いている足をばたつかせている。その様子を見つめるお母さんは、困った様に「静かに」と注意するが子どもに負けないくらい幸せそうだ。



「でも本当だ、すごく美味しそうだね」



 そう言ってもらえたのが嬉しかったのか、さっきよりも大きな笑顔で答えると、手に合わない大きなスプーンで夢中になって食べ始めた。母親はそんな可愛らしい姿を噛み締め、飲み物を啜る。


 二人の会話以外の繋がりが羨ましかった。




 また顔を下げ、テーブルの木目を眺める。オーナー、俺なりに真剣に悩んで決断しましたから、どんな結果でもいいですよね。きっとあいつは俺なんかと違って、しっかりと悩んで大成しますよ。


 ハンカチ、返せなくてごめんな好青年くん。


 決心をつけた俺は抱えていた頭から手を離し、怠い体をテーブルで支えながら立ち上がる。急に立ち上がったのがいけなかったのか、日々の不摂生が体に祟ったのか視界が一回転したと思ったら、自分がどうなっているのか分からなくなった。



「大丈夫ですかお客様!」



 なんだ、どうなったんだ。






私生活が慌ただしい状況ですので、

不定期で更新していきたいと思います。

よろしくお願いします。



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