6-1
フィラメントがある道を一本外れて入ると、この間行ったお気に入りの喫茶店がある。今は入店したい気持ちをぐっと堪え、その店を横目に三百メートルほど進む。すると開けた交差点に出るから、横断歩道を渡って左に曲がる。角から数えて四件目のビルの地下にライブハウスがあるぞ!
「ここの交差点を渡るんだな」
交差点まで来ると歩行者信号が赤なので、それに従って止まる。まるで大きな獣が発した呼気のような風が音を立て、髪やコート、全身を吹き飛ばそうとする。さも何気ない顔をしているが足の裏に力を込めて、よろめかまいと踏ん張って耐える。
信号はまだ変わらない。
数時間前、二度寝している間にあいつからライブハウスまでの案内メールが送られて来ていた。家を出発する前に一度目を通しておけば良かったのに、体調が悪いせいか目覚まし時計を無視して時間ギリギリまで寝てしまっていた。
なんだか最近は、余裕がない行動ばかりでだめだな。
しかも慌てて家を飛び出したからマスクを着けるのにいっぱいいっぱいで、マフラーをしてくるのを忘れてしまった。風が首元の隙間から吹き込んでくるせいで自転車を漕いでも、歩いても、一向に暖まらないじゃないか。
ゴホッゴホッと背中を丸め咳き込む。身体を動かし始めてから、咳まで出てくるようになり体力が奪われる。
「体調、大丈夫なの?」
後ろから聞こえた声にビクッと丸まっていた背中が伸びる。だ、誰だろう、俺にそんな風に声を掛かるのは。
後ろを振り返り、声の主を確認する。
「大丈夫だよ、今日はいい感じなの」
「なら良かった」
すぐ後ろで綺麗に巻いた髪を手で押さえている女の子が、隣の一つ縛りの女の子へ尋ね、同じように信号が変わるのを待っている。話に夢中で俺が振り返ったことを気にも留めていないみたいだったので、何事もなかったかのようにまた前を向く。
恥ずかしい。俺が誰かに話しかけられたんじゃなくて、後ろの二人が会話しているだけだったのか。それもそうか、冷静に考えたら体調を心配して声をかけてくれる人なんて、俺に居ないもんな。
信号が変わったのでそそくさと大股かつ、早歩きで立ち去る。
一、ニ、三、四、件目。心の中で建物を数えながら歩くと、四件目の建物に地下へと続く階段が埋まっている。
「ザ・ライブハウスって感じだな」
ライブハウスというものに人生初めて来たが、想像するライブハウスの定番を形にしたみたいだ。地下へ続く階段が現実世界から異界へと続く境目のようで、少年心を掻き立てる。両壁にはステッカーやポスターが貼られていたり、サインなども雑然と書き込まれている。
携帯で時間を確認したらもう開場時間を過ぎている。のんびりしてた、こういう時は開場より少し前に来て待っている方がよかったよな。
足軽に階段を降りていく音が心音と重なる。
そう言えばライブハウスってドリンク代とかもあるんだったな。小銭用意しとけばよかった、財布の中に入っていたかな。「困ったな」と眉は下がるが勝手に口角はじわじわ上がっていき、そんな自分の顔を想像して鼻で笑う。
「浮かれ過ぎだよ、俺」
明け方の夢見の悪さなんて消し飛び、昨日の喫茶店でも味わった心地良い緊張感が戻ってきた。心臓がうるさいのはなんのせいだろう、風邪のせいか感情か。
あっという間に一番下まで到達すると、その狭い空間に一枚のドアが確かな存在を放ちながら佇んでいる。
来たら受付に声を掛けてくれとメールの最後に書かれていたな。心の中で気合を入れ、扉を押し開け中へと入る。
「君のことは聞いているから、そのままホールに入っていいよ。飲み物代もいらないから」
「ありがとうございます。あの、座席とかは?」
「今回のライブはスタンディング、立ち見のことだね。だから適当にいい場所を勝ち取って楽しんで」
肩につきそうなパーマヘアをふわふわと揺らしながら、オーナーらしき中年男性が朗らかに説明してくれる。もう一度お礼を伝えて、「あっちね」と男性が指差す方の扉へ進む。
防音のためにずっしりと重々しい扉を、体に引き寄せようとしたら、非力な俺は力が足りなくて踏ん張っていた足がよろめく。もう一度重さに合った力を体に入れ直し引き寄せる。少し空いた隙間から大勢の人の楽しそうな話し声が漏れ出てきて、それらは俺の心を騒めかせた。
お前はお呼びじゃない、そうこの世界に入ることを拒まれているみたいだ。きっとあれだな、学生の頃によくある教室中が盛り上がっていると、そこにあとからは入りずらいってのと同じだな。自説に頷きながら体を滑らしてホール内へと入る。