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5-1





 目を閉じ一日を振り返りながら布団に伏していると息苦しくなり、横を向いて空気を求める。「ふぅ」とまた大きく息を吐き目を開けると、机上にある電子ピアノが目に留まった。


 怠い体を起こしそれの前へ移動したら、鍵盤を指でなぞったあとG4を押す。返ってくるのは電子の音ではなく、トンと鍵盤が底に当たる物音だけだ。それでも、頭の中で何度も繰り返し弾いた音が響く。俺にとってピアノの音はすんなりと心の水面に雨の如く降り注がれ、浸透し体中に届けられる。


 電子ピアノの正面に畏まって正座をしたら手を膝の上に置き、一呼吸して再びそっと鍵盤に指を乗せる。



 ショパン『ノクターン第二番 変ホ長調 Op.9-2』



 まだ母さんと住んでいた頃によく練習していた、今でも俺が大切にしている曲の一つ。あの頃は母さんが帰ってくるのを待つ時間が寂しくて寂しくて、自分を慰めるために弾いていたっけな。過去を懐かしみながら、弾き始める。


 どこか空虚な心に優しく寄り添ってくれるそんな繊細さを表現したいので、右手は滑らかに音が途切れてしまわないよう。左手も静かだが決して暗くならないように気をつける。


 そもそも難易度の高い曲ではないってこともあるが、体に染み付いているから頭で考えなくても体が勝手に動いていく。鳴らない音を想像してはいつも通り自分の世界に落ちていく。



「明日はみんなが書いた将来の夢の作文を発表します。読む練習が宿題です」



 小学二年生の冬のことだった。授業で書いた作文を参観日に順番で発表するという機会があった。この作文は当時の自分にとって最高傑作だったので、お母さんに聞かせたら褒めてくれるだろうと自信があった。そのためにはなんとしてでも観に来てもらわなければと。




 お母さんは小学校に入ってから授業参観は全部おやすみだった。やっぱりまた来てくれないかもしれないけど、明日あることを自分から言いたかった。その気持ちでいっぱいで走って帰って、バタバタと家の中を探したけどお母さんはお出掛けしていて居なかった。



「おばあちゃん、お母さんは?」



 また外に出て畑仕事をしているおばあちゃんを見つけたら、座って丸くなっている背中に聞いてみる。こっちを見ないで、一言怒られた。



「まともに帰りの挨拶すらもできないのかい」


「ただいま」


「あの子がどこ言ったのかなんて私も知らないよ」



 おかえりの挨拶を忘れていた僕が悪いけど、こういう言い方をするのは怒っている時のお母さんと似ていて嫌いだ。



「分かった」



 僕もおばあちゃんの真似をして怒ったみたいに返事をして家に帰ると、本当は納戸って言うらしい、僕の秘密基地に隠れる。


 夜ご飯になればきっと帰ってくるかな?それまでピアノを弾いて待っていよう。この狭い秘密基地は、とても寒くて手がジンジンするけど、ピアノを辞める気持ちはならなかった。


 この前『ブルグミュラー25の練習曲』って教本を見つけたから、それを弾けるようになりたくて練習している。何か面白いものはないかと秘密基地を色々見ていたらこの教本を見つけて、裏に「二年 小春」と書いてあったのでこれを弾くことに決めた。



「お母さんと一緒だ」



 ぽそっと呟き、教本をたんぽぽの綿毛みたいに大切に抱きしめた。お母さんは小さい頃のお話を全くしてくれなかったけれど、今少しお母さんのことを知れた気がして嬉しい。


 明日の授業参観のことが頭の中でぐるぐるしているけど、何度も何度も同じページを練習して忘れるようにする。この曲がいつか僕の生きる力になると思って。




 気がつけばお腹も減り、時計を見ればもう十八時を過ぎている。もしかしたらお母さん、そのまま仕事に行っちゃったのかもしれないから、会えなかったりして。不安が心をチクチクさせる。



「明日のこと知ってるかな?もし知らなかったら、またお休みになっちゃうよね」



 棚に足をかけてよじ登って、小さな窓から外を見た。冬のこの時間は真っ暗で、外がどうなっているか何も見えない。風に窓ガラスがガタガタと鳴っているのを目の前で見ながら、僕は決めた。



 お母さんに伝えに行こう。



 それからはのんびり屋の僕でも動きが早かった。そのままの服で秘密基地を飛び出すと、台所で晩御飯を作っているおばあちゃんに向かって「いってきます」と勝手にあいさつをした。そのまま玄関を飛び出す。


 働いている所は知っている。勝手に後をついて行ったことがあったし、子どもの僕でも走れば十分くらいで着く距離だった。こっちに来て良かった色んな木や草の種類は覚えれても、昔住んでいた街じゃビルとか家ばっかりで迷っちゃってたから。


 灯りもポツポツと少ししかない暗い道を、荒い呼吸で一生懸命に走る。カラカラに乾いた冬の空気が喉をいじめるから、何度も唾を飲み込んで守る。鼻も手も首も冷たくなって感覚がない、もしかしたら鼻水が垂れているかもしれないから袖で鼻を何回か擦って拭いといた。


 こんなに頑張ってるのに目的地までとても長く感じるのは運動が苦手だからか、お母さんに早く会いたいせいなのかどっちだろう。後ろから車が走ってきたと思ったら、遅い僕を笑って馬鹿にするみたいに、ライトで追い立ててくる。あっという間に僕の全速力を追い越して行けば、また真っ暗な世界になる。


 そんな中はぁはぁと声をあげて、地面を蹴る音だけが響いている。用水路に並んで立っている街路樹が夜の風に踊らされて驚かしてくるけど、怖くない。本当はいつもだったら怖くなるけど、今だけはなんともなかった。



「あと、もうちょ、っと」



 疲れてきた足をもう一度元気にさせるため、わざと声に出して僕に言い聞かせる。“スナック”と書いてあるお店の看板も見えてきているぞ。頑張れ、僕!





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