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深月は見知らぬ道を歩き、五差路へやって来た。
名前しか覚えていない。
歩いてきた以外の4つの道はミルクのような濃霧に包まれ、先が見えなかった。
どうしていいのか分からず、立ち尽くしてしまう。
5本道が交わる脇に、洋風の洒落た家が建っている。
深月は意匠を凝らした、そのドアを叩いた。
「どうぞ」
女の澄んだ声が答える。
深月は扉を開け、中に入った。
アンティークな調度品が並んだ部屋。
奥に置かれたテーブルの椅子に、美しい娘が1人座って、こちらを向いている。
おそらく、声の主と思われた。
紫青色のショートカットに、同じ色味の花の形のカチューシャをつけている。
抜けるように白い肌。
かわいらしい鼻。
ぷっくりとした暗紅い唇。
そして、何より印象的なのは、その瞳だ。
あまりにも美しい。
それでいて、その双眸は若い娘とは思えない深い落ち着きを宿していた。
細白い首にはクロスのトップのチョーカー。
そこから伸びた真珠と、小さな四角いアクセサリーが胸元で繋がっている。
彼女の髪色と合ったクラシカルなドレスが、華奢な身体を包んでいた。
細い両手の指に、いくつかの指輪をはめている。
氷と水が入ったグラスを、その白い指が支えていた。
彼女の傍には火のついたロウソクを立てた燭台が置かれ、背後にはきめ細やかな模様のカーテンが薄光を透かしている。
まるで1枚の絵画の如き美しさに惹きつけられ、深月はフリーズしてしまった。
「どうしたの、かわいいお嬢さん」
娘が口を開いた。
「あ…あのっ…私…」
深月は、たどたどしくも事情を説明した。
「そう」
美しい娘は頷いた。
「そのうち思い出すでしょう」
そう言われても、不安は拭えなかった。
「とにかく、まずはお座りなさい」
娘が対面の椅子を指した。
深月が従う。
面と向かえば、なおさら娘の美貌と、何やら人離れした神秘的な雰囲気が眩しかった。
娘は立ち上がり、奥の部屋に入って、氷水入りのグラスをひとつ持ってきた。
「ここ、暑いでしょう?」
娘がグラスを深月の前に置いた。
言われてみれば、若干暑い。
深月は白い夏用ワンピースを着ているので、さほど気にならなかった。
美しい娘も、汗ひとつかいてはいない。
ひと口、水を飲むと心が落ち着いた。
「道の先は、もっと暑くなるわ。近づけば近づくほどね」
娘が、元の席に座った。
彼女に見つめられる照れくささから逃れるため、深月は「あなたは…」と訊いた。
「ああ、そうね。わたしは五差路の魔女」
「魔女?」
「ええ」
魔女が頷く。
「ここには、本来は何もないの。皆が決められた自分の道を進むだけ。4つの道のうちのひとつにね」
「4つの道?」
「あなたが来た道以外の4つよ」
深月は黙った。
何も思い出せない現状では、進むべき道など分かりはしない。
「わたしは、この辺りの特別なマナを集めているの」
「マナ?」
「簡単に言えば魔力ね」
魔女も暗紅い唇で、水をひと口飲んだ。
「記憶が戻れば、あなたが進む道も自然と分かるわ。リラックスして待ちましょう」
「はい…」
胸騒ぎがした。
家のドアが、勢いよく開いた。
スーツ姿の小太りな中年男が入ってくる。
「頼む、聞いてくれ!」
大声を出し、男は2人に詰め寄った。
「そりゃ、オレは金を儲けた! だが、それはそんなに悪いことか!?」
男の必死の形相に、深月は圧倒された。
「わたしに言っても仕方ないわ」
魔女が冷たく返す。
「あなたの審査は、もう終わってるでしょ? 決まった道に進めばいいわ」
「ああ、分かってる!」
男は、テーブルをバンッと叩いた。
深月と魔女のグラスの氷が、カランッと崩れる。
「納得いかないのね?」と魔女。
「当たり前だ! オレは真っ当にやっていた! ビジネスだ!」
「本当は分かってるでしょ。あなたを調べた方々は、絶対に見逃さないわ。必ず何かしたはず」
「それは…」
男は唇を噛んだ。
「皆、多かれ少なかれ、やってる…」
「そんなことない」
魔女が、男を真っ直ぐに見つめた。
男は怯んだ。
「ここで騒いでも遅いの。もう、結果は変わらないわ」
「くそ!」
男は眼を逸らし、扉から出ていった。
「今の人は」
深月が、ようやく口を開く。
「自分の行くべき道を知っているんですか?」
「ええ、そうよ」
魔女が頷いた。
「自分に嘘はつけないわ。ここに来たら、どんな言い分けも通用しない」
深月は記憶を取り戻すのが、恐ろしくなってきた。
4つの道の先に、何が待っているというのか。
再び、ドアが開いた。
深月は男が帰ってきたのかと思ったが、それは違った。
今度は30代半ばほどの女だ。
ブラウンミドルヘアで、事務制服を着ている。
部屋に入ってきた女は、細い眼で深月と魔女をにらんだ。
「ここで休めるの?」
女が訊いた。
「ええ」
魔女が答えた。
「水なら出せるわ。でも、あまり意味はないかも。あなたは、もう進む道を知ってるでしょ?」
「そうね」
女が眉をしかめた。
「でも、おかしいわ」
先ほどの男と同じく、不満を洩らした。
「私は、あの娘が大してかわいくもないのに、チヤホヤされて調子に乗ってるから…少し懲らしめただけよ」
「そう? なら、やりすぎたのね」
魔女が、女をじっと見つめた。
女が眼を逸らす。
「とにかく…道の先には行きたくないわ」
「ここに留まっても、事態は好転しない。グズグズしていれば、彼らがやって来る。そして、あなたを決まった道に連れて行くわ。ここでゴネても、結果は同じ。自分の足で行くか、引き摺られて行くかのどちらかよ」
魔女の言葉に、女は青ざめた。
「そんなの嫌!」
女が深月を指した。
「その女は、ゆっくりしてるじゃない!」
「彼女は記憶を失ってるの。思い出せば、すぐに自分の道を進むわ」
本当だろうか。
深月は言い知れぬ恐怖を覚えた。