「ジェネラルルージュの凱旋」
ミステリーではどうだろうか。
小説原作だが、実写邦画の方を考察したい。
「ジェネラルルージュの凱旋」は、私のオールタイムベストだ。
以下、ネタバレあり、あらすじなしで書くので、ご覧になっていない方はぜひ鑑賞いただきたい。
日本映画でも屈指のテンポの良さを誇る名作です。
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ミステリーを考察してみたが、あまり芯を食った解釈ができなかったと反省している。
生ぬるい目で読んでいただきたい。
ミステリーは事件がそのまま非日常にあたる。
解決されれば、また日常に戻る。
日常
↓
事件
解決
↓
平和な日常
事件という非日常へのダイブに、登場人物は渋らなければならない。
葛藤があり、飛び込む勇気が要るほうが、物語として引きがあるからだ。
竹内結子演じる医師の田口は、タレコミ文書を何者かによって診察室のポストに投じられ、院内の不祥事について、真偽を確かめるよう要請される。
院長に頼まれる形だ。
事なかれ主義の田口が事件に首を突っ込むのには、それなりの理由がいる。
自分からは飛び込まないだろう。
院長の頼みも、本来ならば当然断ってしまうはずだ。
しかし、もっと面倒な、院内の倫理委員会の委員長という席に、なかば強制的に座らされているという経緯がある。
これを田口は引き合いに出して、調査に成功したら委員長の座を降ろさせて欲しいと交渉する。
条件つきで、キャラクターに無理なく事件へと足を向かせる。
探偵役は、二人いる。
静の田口と、動の白鳥だ。
白鳥というのは、交戦的で、事件には自分から首を突っ込んでいくタイプだ。
実は白鳥にも、同様の差出人不明タレコミ文書が届いていた。
動だけでも事件は解決するかもしれないが、葛藤がない。
静だけでは、葛藤はあっても、事件が解決しない。
うまくできている。
クライマックスについて。
この映画はどこがクライマックスか迷うほど怒涛の展開となる。
そう感じるのは、ミステリーが真相究明自体をクライマックスとしているからだ。
そこに映画的な葛藤=クライマックスが被さって、怒涛の盛り上がりのように感じる。
①ミステリー(真相と犯人)
②葛藤
倫理委員会という見せ場において、真相が明かされる。
ここでタレコミ文書を誰が書いたのか等が明かされる。
ただし、事件はもう一つ起こっており、それについては保留されるが、大事なのはこの真相究明自体が、物語上の葛藤についての解説になっている点である。
物語上の葛藤は、堺雅人演じる速水センター長の葛藤に重なっていく。
その後、間髪入れずにデパート火災が起こり、病院に大量の負傷者が運び込まれる。
これが②葛藤のクライマックス、つまり物語上、ひいては速水の葛藤である。
この映画における葛藤とは何か。
それは、「人の命と、カネ」の問題だ。
人の命は救うべきだ。
しかし現実問題として、経済、経営的観点からの要請は常につきまとう。
これらは両輪であり、どちらも蔑ろにされてはならない。
しかし、パワーバランスが崩れ、経営側が力を持ち過ぎていた。
そこにデパート火災という事故が起こり、倫理の側が虐げられながらも積み上げてきた努力が身を結ぶ。
人の命は軽んじられてよいのか?という葛藤に、否、軽んじられて良いはずがない、というカウンターパンチが入るのだ。
物語上の逆転が爽快に起こるのである。
面白いのは、そのさなか、真犯人が明かされる。
もう一つの殺人事件の真犯人が、さらっと、しれっと、コミカルに断罪されるのである。
そして日常へ。
日常に戻ってからも、とにかく面白い。
退職を心に決めるほど葛藤していた救命救急センターの速水センター長は、先のデパート火災の一件があったうえでなお、辞めるという。
それを、田口が止めるのだが、速水がいつもチュッパチャプスを舐めているというキャラクター造形が、そのまま伏線となっていることが判明し、またしても唸らされるのである。
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「PSYCHO-PASS」というアニメの脚本を務めた虚淵玄が「設定上のクライマックス」という言葉を使っていたのを思い出し、今回、ミステリー上のクライマックスという言い方をさせてもらった。
葛藤を乗り越える、という言い方では、ちょっと意味がわからなくなってしまう。
よりわかりやすいのは、世界観の転換だろう。
葛藤を乗り越える、殻を破る、自動思考を制することで、新しい世界観、解釈、ものの見方、自分に出会える。
その解放を、クライマックスと呼びたい。
単にド派手な爆発や、ラスボスの討伐、勝利、を指す場合もあるかもしれないが。