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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ガラスの足の伯爵令嬢

作者: 大月 津美姫

「お嬢様、段差に気をつけてゆっくり降りてください」

「えぇ。分かっているわ。子どもじゃないんだから」


 心配性の従者の言葉にエレネルン伯爵令嬢のエラリー・スティールは苦笑いする。


 今日はエラリーが通う学園の新学期だ。

 登校日の朝、高等部の門の近くで馬車から降りるエラリーに従者は慎重に手を差し出していた。


「またお嬢様に何かあっては、旦那様と奥様に顔向け出来ません」

「わたくしも、痛くて不便な生活は懲り懲りよ」


 馬車から降りたエラリーは従者から鞄を受けとる。


「それじゃあ、行ってきますわね」

「私か侍女がエラリーお嬢様の側に付いて行ければ良いのですが……」

「いいのよ。戻って家の事を頼みます」


 エラリーはにこりと微笑んで従者が見送る中、学園へと歩き出す。


 エレネルン伯爵家は常に没落寸前の危機に直面していた。エラリーの父の叔父、つまり祖父の弟にあたる人物はギャンブルと酒癖が悪かった。それが原因で伯爵家の財産を使い潰したのである。


 数十年経った今でもその時の財政難が響いており、エラリーたちは貴族でありながら質素な生活を送っている。家の使用人は最低限しかいない。


 学園では使用人が休み時間や放課後に令嬢や令息に付き添ったり、授業終わりまで待機することができる場所があるが、エレネルン伯爵家は人手不足のため、馬車を走らせる御者と従者がエラリーの送り迎えのみを行っていた。


「あら、貧乏人が登校なさったわよ」

「ふふ。懲りずにまた古臭いドレスをお召しだわ。恥ずかしくないのかしら?」


 本人に隠すつもりがない声がエラリーの耳に届く。その中心にいるのはビドリー伯爵家の令嬢、ブリジットだ。彼女の友人であるリベセル子爵令嬢とベセトゼ男爵令嬢と共に、扇子で口元を隠しながらエラリーを窺っていた。


「学費が大変でしょうから、今度こそわたくしたちが長期休学にして差し上げなくては」

「わたくしたちなら上手くできますわ。ガラスの足の伯爵令嬢ですもの。簡単よ」


 あははと、響いてくる笑い声。

 エレネルン伯爵令嬢、エラリーは一部の生徒から“ガラスの足の伯爵令嬢”と呼ばれていた。


 それはエラリーが過去に足を三度骨折しているからである。


 最初の骨折は7歳の頃。階段から足を滑らせたことによる偶然の事故だった。その次は初等部の卒業間近に後ろからブリジットにぶつかられて転んだことが原因だ。そして、三度目は中等部の最終学年に入った頃。エラリーは階段の上段でブリジットに押された。

 二回目と三回目の骨折は嫌がらせによるものだ。

 骨折といっても、どれも骨にヒビが入った程度だが、それでも痛いものは痛い。


 そんなエラリーへの嫌がらせの理由は実家の財政難にあった。最初は小さな嫌がらせだった。特に二度目の骨折の時は「わざとじゃないわ」と、ブリジットはエラリーに釈明し、エラリーの反応を面白がっているようだった。そして、三度目の骨折では「よそ見をしている貴女が悪いのよ」と彼女は開き直っていた。


 その他にも、エラリーは骨折に至らずともブリジットたちから足を引っ掛けられて転んだり、危うく転びそうになるなどの嫌がらせを受けてきた。

 お陰で足を捻ったり、膝を擦りむいたりと散々な目に遭ってきている。


 足を怪我すると、怪我の程度によっては学園の授業に出られなくなるし、普段の生活も不便になる。

 特に骨折は足が治っても暫くは痛む上に、歩く動作がぎこちなくなるのか、何もない場所で躓くことが増える。

 なにより治療費がかかることと、身の回りの世話で普段より使用人の手を煩わせることになるのがエラリーは心苦しかった。


 もう絶対に骨折できないし、したくないエラリーは危険を回避するのに必死だった。


 エラリーがブリジットたちから嫌がらせを受けていることを知っているのは、主に同級生のCクラスとDクラスの令嬢だ。だが、知っていながら誰もが口を閉ざしていた。

 エレネルン伯爵家が没落寸前でありながら、伯爵位というギリギリ上位貴族の仲間であることが、気に入らないらしい。時にはそんな彼女たちがブリジットの真似をして小さな嫌がらせを仕掛けてくることもある。それぞれの家の思惑が、学園と言う小さな貴族社会の構図を作り上げていた。


 エレネルン伯爵家は困窮こそしているが、遥か昔から続く由緒ある家柄だった。ご先祖様は王家からの信頼で広いエレネルン伯爵領を任されたらしい。

 エレネルン伯爵領は土地こそ広いが、土壌が痩せている。そのため農業には適していない。そこで観光や工業、ドレスに使う生地作成に力をいれていた。


 だが、言わずもがな財政難のせいで十分な資金がないため開発が進まず、近年の領地収入は僅かだ。

 それでも祖父や父は領民の生活を思い、大幅な税の取り立てをすることなく、バランスをとって細々と領地とそこに暮らす人々を守っている。


 そんな頑張っている祖父や両親の手前、“嫌がらせに遭っている”などという心配を掛けたくないエラリーはその事を黙っていた。

 とはいえ、誤魔化すことが難しいこともある。何しろ嫌がらせの範囲は教科書や各課題の提出物の紛失にも及んでいるからだ。度重なるそれらは「うっかり失くしてしまった」と嘘を吐くのにも限界がある。


 そして怪我による欠席や教科書の紛失による授業内容の理解の遅れ、課題を紛失したことで未提出扱いになったが為の内申点の減点。

 エラリーは中等部まではBクラスを維持していたが、今はCクラスに所属している。


 このままでは出来損ないの烙印まで押されかねないと、焦っているところだった。


 少しでも勉強の遅れを取り返すため、そして嫌がらせから逃れるため。エラリーは新学期から昼休みに図書室へ籠ることにした。


 自習もできるように机まで配置された図書室は、落ち着いた雰囲気だ。こんなところにCクラスやDクラスの令嬢令息は殆んど訪れない。それに上級生や図書室を管理している史書の目もあるため、下手な手出しは出来ないと言うわけである。


 エラリーは持ってきた教科書とノートを机に並べ、それから貸し出し用の教科書で中等部の復習から始めた。

 ここは高等部の図書室だが、資料として初等部からの教科書も置かれている。

 基礎が分からなければ、今の範囲の問題に付いていけないことを理解しているエラリーは復習から行うことにした。


 エラリーには年の離れた兄がいる。今は父を手伝っているが、いずれエレネルン伯爵家を継ぐ兄の力になるため、このままではいられない。


 エラリーはいずれどこかの貴族家に嫁ぐことになるかもしれないが、実家は没落寸前の伯爵家。そして、“ガラスの足の伯爵令嬢”などと言う異名を持つ。そんなわたくしを娶ってくれる家などあるだろうか? と、不安を持ち合わせていた。


 エラリーが教科書に並んだ数式とにらめっこをしていると、トントンと机を指で弾く音がした。はっ、と顔を上げるとすぐ側に金髪碧眼の青年が立っている。


 初めて見る顔だった。おそらく上級生だろう。

 エラリーは社交界デビューを果たしていない。学園の入学式も新入生のみで行われるので、他の学年となると交流がなく、全く情報がなかった。そのため、同じクラスになったことがある同級生以外は殆んど誰だか把握できていない。


 嫌がらせされていることを隠すために、家で開くお茶会も常に欠席しているし、友だちもいないので、エラリーがお茶会に招待されることもない。母もお茶会に頻繁に出席しているわけではないが、誘われても人見知りしてしまうことを理由にエラリーは同行を断っている。


 恐らくエラリーの社交界デビューは高等部の卒業パーティーになるだろう。

 両親はそんなエラリーを心配しているだろうし、お金がなくて新しいドレスを買えないから社交界に出ることを遠慮していると、自分たちを責めているかもしれないとエラリーは感じていた。それでも、嫌がらせを受けていることを知られらよりはずっと良いと考えてのことだった。


 そんな理由でエラリーは目の前の青年が誰だか全く分からない。だが、整った顔立ちのその人は、立ち振舞いからして上品だった。纏う雰囲気は気品に溢れているように見える。服もシンプルだが、上質な生地が使われているようだ。上位貴族の中でもかなり爵位が高い家のご子息だろうと推測できた。

 そんな彼が机を指で弾いたのも、女性であるエラリーに不用意に触れないための配慮だろう。


 青年は「やっと気づいた」と微笑む。その姿にエラリーの胸がドキッと音を立てた。


「隣、いいかい?」


 尋ねられて周囲を見渡せば、机はどこも満席だった。二人掛けの机で唯一人席分空いているのはエラリーの机だけだ。


「も、勿論です!」


 一人だからとはみ出して使用していたスペースを急いであける。「良かった。ありがとう」と言いながら隣に座った彼の声はとても優しかった。


「一年生?」

「はい」

「学園がある日は図書室に毎日来ているんだが、君は初めて見る顔だ」

「あ、それはわたくしが今日初めて昼休みに図書室に来たからです。……成績が落ちているので、中等部の内容から復習をしようと思ったんです」


 そう告げたあとで、これでは落ちこぼれだと自分から言っていることに気付いて、エラリーは急に恥ずかしくなる。


「そうか。それで声を掛けても気付かないほどに集中していたんだな」


 ふっと笑う青年に益々恥ずかしさが込み上げた。


「も、申し訳ありません! 先輩がいらっしゃることに気付かなくて……」


 そう口にすると、美しい顔の青年が目を丸くする。

 何か失礼があったかとも思ったが、エラリーはそもそも彼の名前も何もかも知らないのだ。


「申し遅れました。わたくしはエレネルン伯爵家の娘でエラリーと申します」


 座っているので、小さく会釈をする。


「エレネルン伯爵令嬢か」

「はい」

「私は高等部三年のクリスだ。クリスと呼んでくれ」

「クリス様ですね。分かりました」

「勉強の邪魔をして悪かったね。相席を承諾してくれたこと感謝するよ」

「いえ、とんでもないことでございます」


 そうして会話を終了するとエラリーは再び勉強を再開する。クリスの方も手にしていた経済に関する本を静かに読み始めた。


 その日からエラリーとクリスは毎日のように昼休みに図書室で会うようになった。


 初めて会った日に相席をしたからなのか、クリスは何故か他の席が空いていてもエラリーの隣に座る。

 同性の友だちすらいないエラリーはクリスがやって来る度に緊張した。だけど、クリスがエラリーの隣の席に来ることを楽しみにしている自分がいることに気が付いて、今まで憂鬱だった学園生活に楽しみができた。


 エラリーが図書室へ通うようになって3週間が経過した。この頃には、隣で読書をしていただけのクリスが勉強に行き詰まっているエラリーの様子を見て、勉強を教えてくれることがあった。


 クリスの教え方は実に丁寧で、エラリーはみるみるうちにその教えを吸収する。「エラリー嬢は呑み込みが早いんだね」とクリスは褒めてくれたが、「クリス様の教え方が上手いからです」とエラリーもまたクリスを褒めた。


 順調に嫌がらせを回避していたエラリーは、ある日いつものように昼休みに図書室へ向かおうとしていた。

 一昨日から図書室で資料を見ながらコツコツ進めていた歴史の授業のレポートを仕上げてしまおうと、ロッカーに入れていた用紙を探す。だが、どれだけ探しても書きかけのレポート用紙が見つからない。


 クスクスと笑う声が聞こえてきて、エラリーがはっとすると、ブリジットたちがゴミ箱の前でエラリーの方を見ていた。そして、エラリーの視線に気付くとどこかへ去って行く。


 まさか……


 嫌な予感がして、令嬢たちが去ったゴミ箱の方へ歩みを進めて中を覗く。


「っ……!」


 そこには昨日までエラリーが書いていたレポートがびりびりと破り捨てられていた。レポートだった用紙は細かな紙切れと化していて、全てを集めて書き写すのも容易な状態ではない。


 レポートの提出は明日の朝までだ。急がないと間に合わない。でも、急いでも間に合わないかもしれない。そうなったらまた欠点だ。


 エラリーは急いで準備をして図書室へ駆け出す。

 今まで使用していた資料と新しいレポート用紙を用意して、記憶を頼りにレポートを書き進めていく。


「エラリー嬢、こんにちは」


 すっかり聞き慣れてきたクリスの声がして、エラリーはビクッと肩を跳ねさせた。


「っ、クリス様! こんにちは」


 にこりと微笑みを取り繕って挨拶を交わす。

 いつもとは違う反応のエラリーが気になったらしいクリスは、首を傾げると、エラリーの手元を覗き込む。


「エラリー嬢、そのレポート用紙は? 昨日まで書いていたのとはまた別の課題かい? ……その割には資料が昨日と同じだね」


 一昨日、いつもの復習とは違う勉強を広げていたエラリーを不思議そうにクリスが尋ねてくるから、歴史のレポートを書いているのだと話していた。

 それが裏目に出てしまったようだ。


「は、はい。その、……気に入らないところがあって、書き直しているんです」

「……そうだったか。確か提出は明日の朝までだったね」


 なんとか誤魔化したエラリーの言葉をクリスは納得してくれたようだ。

 エラリーはホッとしながら「はい」と頷く。すると、彼から予想もしていなかった提案がなされた。


「レポートを書く上で力になれることがあれば何でも聞いてくれ」

「えっ?」

「あまり時間がないだろう? 資料集めや知りたいことの記述を一緒に探すぐらいなら、私が手伝っても怒られやしないさ」


 肩を竦めて、クリスがエラリーに優しい笑顔を向けてくる。


「ですか、クリス様は本を読みに図書室へ来られたのに、私のことで邪魔をしてしまう訳には……」

「私の読書は期限があるものではない。いつでも読めるからいいんだ。それより、提出期限が迫ったエラリー嬢のレポートが優先だ」

「!」


 想像すらしていなかった申し出と、クリスの優しさにエラリーは目の周りが熱くなる。


「……ありがとうございます。ではお言葉に甘えて──」



 それから、エラリーとクリスは昼休みが許す限りレポートの為に時間を使った。


 クリスが必要な資料探しを手伝ってくれたお陰で、昼休みが終わる頃には、レポートは殆んど埋まった。残りは放課後に書き足せば完成だ。


「クリス様! ありがとうございます。手伝って下さったお陰で今日中に提出できそうです!!」


 なんとか未提出を回避出来そうで、エラリーは嬉しさのあまり図書室だということも忘れて、大きな声を上げてしまう。


 ジロリと周囲の視線が向けられて、慌てて頭を下げた。そんなエラリーを見てクリスが「ふっ」と笑みを溢す。


「それは良かった」



 その後、エラリーは放課後にレポートを仕上げて無事に提出BOXに投函した。

 もう間に合わないと思われたが、これもクリスが手伝ってくれたお陰だ。久しぶりに期限内に課題提出を終えたことに、頬を緩めながら迎えに来ている伯爵家の馬車の元へ向かう。


 明日、クリス様に改めてお礼をしなくちゃ。


 少しの高揚感を胸にエラリーは下校した。



 翌日、エラリーは昼休みになったらクリスに会ってお礼を言おうと、一日中そわそわとした気持ちで過ごしていた。


 そうやって気が緩んでいた状態で歩き出したのがいけなかったのだろう。踏み出した右足がつるりと滑って、エラリーの体が後ろに傾く。

「きゃ!」と小さく悲鳴を上げながら咄嗟に左足を踏み込んだが、堪えきれずにその場で尻餅を付いた。


「あぁ、うっかりハンカチを落としてしまったわ」


 ブリジットが眉を寄せて申し訳なさそうな顔で告げる。


「でも、エラリー様が踏みつけたせいで、わたくしのハンカチが汚れてしまいましたわ。お気に入りでしたのに、どうしてくださるの!?」

「それは申し訳ありません。ですが、わたくしも態と踏みつけた訳ではありません」


 謝罪の言葉を口にしつつ、事実を告げるとブリジットの友人であるリベセル子爵令嬢とベセトゼ男爵令嬢が、彼女を庇うように前に出た。


「まぁ! 口答えなさるの!?」

「反省なさるのが先ではなくて?」


「は、反省?」


 きょとんとするエラリーに子爵令嬢が「そうですわ!」と口を開く。


「人の持ち物を汚してしまったのよ。口先だけの謝罪ではなく、誠心誠意謝るのが筋ではなくて?」


「それは……、!」


 エラリーは最初に“申し訳ありません”と謝罪している。彼女の言う、“口先だけではない誠心誠意の謝罪“が意味することを理解して息を呑んだ。


 深く頭を下げろ、と強要されているのだ。


 そんなこと出来るわけがない。仮にブリジットがうっかりハンカチを落としていたとしても、エラリーだって態と踏みつけた訳ではないのだ。


 尊厳を踏みにじられているのだと嫌でも分かる。


「……出来ません」

「まぁ! エレネルン伯爵令嬢ともあろう方が謝罪も出来ないだなんて!」


 クラス中に聞こえる声でブリジットが声を上げた。それをきっかけに、まばらに教室に残っていた生徒たちの視線が滑って床に座り込んだままのエラリーに向けられる。


「っ」


 好奇と軽蔑の視線にエラリーは怯んでしまった。

 だけど、エラリーはそこまでの謝罪を求められることはしていないのだ。


 エラリーは床に落ちたままのハンカチを拾うと、立ち上がるために足に力を入れる。そのときに左足首にズキッと痛みが走った。恐らく滑った足を庇ったときに捻ってしまったのだろう。

 それでもなんとか立ち上がると、まっすぐブリジットたちを見た。


「わたくしは、きちんと言葉にして謝罪しましたわ。ブリジット様に悪意があったわけではございません。それでも気に入らないとおっしゃるなら、こちらは我が家で洗濯してお返しします。それでいいかしら?」


 ハンカチを見せながら言えば、ブリジットがフンッと鼻を鳴らす。


「仕方ありませんわね。それで許して差し上げますわ」


 ブリジットはそのまま踵を返すと、教室を出ていく。それを合図に好奇の視線を向けていたクラスメイトたちも、ひそひそと噂しながらそれぞれの休み時間に戻り始めた。


 クラスメイトたちは、エラリーが転んだ瞬間を把握していない。そのため状況的にエラリーがブリジットのハンカチを踏みつけたと思っているのだろう。


 エラリーはブリジットのハンカチを制服のポケットにし舞い込む。そして、歩き出そうと足を踏み出せば、やはり左足に痛みが走った。


 今日は、図書室へ行くのを諦めるしかないわね。


 エラリーは机や壁を伝って、ひょこひょこと足を庇いながら、目的地を図書室から医務室へ変更した。



 医務室で手当てを受けたエラリーは、校医から捻挫と診断された。無理をして悪化してはいけないので、暫く安静にするようにとのことだった。


 一週間ほど学園を休んで様子を見ることになった。エラリーは早退する為、荷物を取りに教室へ戻る。

 こういうとき、友人の一人や二人いれば良いのだがエラリーに友人はいない。


 一瞬クリスが頭に浮かんだが、彼は先輩だし、図書室での付き合いしかない。迷惑は掛けられない。それに、クリスもエラリーもお互い学年は知っていてもクラスまでは知らないのだ。


 手当てのお陰で少しばかり歩きやすくなった足で、エラリーはゆっくり教室を目指す。


 早くしないともうじき昼休みが終わってしまう。

 授業が始まってしまう前に教室を目指していると、「エレネルン伯爵令嬢」と歴史の教師に呼び止められた。そしてエラリーは告げられた一言に耳を疑う。


「……、どう言うことですか?」

「ですから、レポートが提出出来ていないのは、貴女だけです。エレネルン伯爵令嬢」

「そんな筈はありません! ……確かに昨日の放課後、BOXにレポートを提出しました!!」


 どう言うこと? と困惑するエラリーに、教師は呆れた顔をすると諭すような声で「……エレネルン伯爵令嬢」と口にする。


「レポートの作成を忘れていたのであれば、素直にそう言いなさい」

「え?」

「課題を出す度に期限通りに提出できず、“提出した”と嘘をついたり、“課題を提出する直前で失くした”と騒いでいるのは貴女だけです。こういったことがこれ以上続くようであれば──」


 その時、エラリーは教師の声が全く耳に入らなくなった。

 毎回、提出物を期日通りに出せないエラリーを教師は信用していない。勿論、信じてもらえなかったこと事態がエラリーにとって悲しいことだ。だけど、それ以上にエラリーは傷付いた。


 視界の隅にクリスがいて、エラリーを見て立ち尽くしていたからだ。


 どうして一年生の教室がある廊下にクリス様が?

 一緒にいらっしゃる男性はクリス様のご友人?


 そんな疑問がよぎるが、そんなことよりも黒く重い感情がエラリーの心を支配していた。


 エラリーを説教する教師の話をクリス様に聞かれている。


 そう認識すると、エラリーは絶望的な感情に陥った。

 ふらりとクリスが身を翻して去っていく。


「っ!」


 クリス様から軽蔑されたと理解した途端、自分が真っ直ぐ立てているのか分からなくなるほど、エラリーの感覚が歪んだ。


 そこからはいつ話を終えて、どうやって馬車に乗り込んだのか、よく覚えていない。


 気が付くと、従者が「お嬢様? エラリーお嬢様?」とエラリーを呼んでいた。

 エラリーは首を動かしてぼんやりと従者を見る。


「伯爵邸に到着しました」



 ◇◇◇◇◇



 エラリーは一日ぼうっとしながら療養の日々を過ごした。


 勉強も好きな読書も、何も手につかない。

 食事も空腹を感じず、少し食べるとすぐに満腹感を覚えて、あまり喉を通らなかった。



『クリス様! ありがとうございます。手伝って下さったお陰で今日中に提出できそうです!!』


 エラリーがレポートのお礼をしたとき、「ふっ」と笑みを溢したクリス様は『それは良かった』と、喜んでくれていた。



 だけど────


 クリス様は歴史の教師に叱られるエラリーを見て、レポートを提出しなかったと思ったに違いない。


 折角手伝ってもらったのに、絶対がっかりさせた。

 毎回提出物をきちんと出せていないことを知られた以上、レポートは最後まで完成できなくて、教師に提出したと嘘を吐いたと思われた。


 足が治っても、どんな顔でクリス様に会えば良いのか分からない。きっとクリス様がわたくしに微笑み掛けてくださることはもうない。


 ズキン、ズキンと捻挫した足よりも心が痛んだ。



 ◇◇◇◇◇



 療養の一週間はあっという間に過ぎていく。

 両親も兄も、いつになく落ち込むエラリーを心配した。


 五日も経てば、エラリーも流石にそれに気付いて、落ち込んでばかりはいられないと、怪我から一週間後に学園へ復帰することにした。

 家族にはもう大丈夫だと笑顔を見せ。ブリジットのハンカチは綺麗に洗濯して、学園に復帰する前に使用人を通してビドリー伯爵邸へ届けさせた。


 エラリーが学園に復帰する頃には足の痛みも殆んど治まっていて、無理をしなければ普段通りに過ごせる程度には回復していた。


 エラリーには休んでいた間の授業を教えてくれる友人などいない。早く遅れた分を取り戻さなくてはいけない。だけど図書室には行けない。クリスにどんな顔をして会えば良いか分からないからだ。


 エラリーは休み時間にふらりと教室を出ると、静かな場所を探して校舎を歩いた。そうして辿り着いたのは、校舎裏にひっそりと置かれているベンチだ。


 建物の陰に隠れて日陰になっているそこは、静かなだけではなく、日差しから遮られて涼しい。


 エラリーは持ってきた教科書を広げる。けれど、何も頭に入らないままその日の昼休みは過ぎていった。次の日もその次の日もそれは変わらない。



「やっと見つけた」


 それはエラリーが学園に復帰して4日目のことだ。

 久しぶりに聞く声がして、振り向き様に顔を上げるとそこにクリスが立っていた。


「っ……、クリス、様……」


 今、一番会いたくない人物。だけどエラリーは心のどこかで、会いたいとも思っていた気がする。

 そんな矛盾する複雑な心境を抱えてエラリーは立ち上がると、後ずさった。


「どうして、こちらに?」

「それは私の台詞だ」

「っ」

「……何故、図書室に来なくなった?」


 痛いところを突かれて、エラリーは目を泳がせる。


「……それは、……その、勉強するのが、嫌になって……」

「それなら、何故今の君の手元には教科書がある?」


 指摘されて、エラリーはさっと身体の後ろに教科書を隠した。


「た、……たまたまです」

「休み時間にこんなところに来て? たまたま持っているのか?」

「はい……」


 コツ、とクリスが一歩踏み出した足音がする。

 その分、エラリーはズリッと足を引きずって後ずさる。だけど、クリスは構わずエラリーとの距離を詰めて来ようとする。


「っ、クリス様ごめんなさい。わたくし用事を思い出したので、これで──」


 言葉にしながら、挨拶もマナーも忘れて逃げるように去ろうとしたエラリー。


「エラリーッ!」


 だけど、クリスはそんなエラリーの手を掴んだ。


「っ!!」


 エラリーはぎゅぅぅぅぅっと、胸が締め付けられる。

 クリスが“エラリー”と初めて呼び捨てにした。

 掴まれた手は痛くない。けれど、振りほどけないように、力強くエラリーを引き留める。


「お願いだ。逃げないで。……私と、話をしよう」


 クリスに何を言われるのか、エラリーは考えただけで怖かった。


 きっと、レポートを提出しなかったことを責められる。レポートを完成させられなかったからと、教師に提出したと嘘を吐いたことを責められる。

 そんな人だったのかと。ガッカリしたと言われるに決まっている。


 そんなの、聞きたくない!!


 泣きそうなほどにエラリーの心は、そう叫んでいた。


「ぃや、です」


 やっと絞り出した声は、驚くほど小さくて震えていた。


「クリス様に話すことは、何も、ありません……」

「私はある!」

「っ! 聞きたく、ありません!」


 パサッと音を立ててエラリーが手にしていた教科書が地面に落ちる。そうして、エラリーは空いた手で片方の耳を塞いだ。


「エラリー嬢、君は努力できる人だ。そして、教えられたことを理解できる力も十分にある。一月前からその姿を近くで見ていた私が言うんだ。間違いない!」

「っ、」

「レポートの作成をあんなに頑張っていたじゃないか。嬉しそうに私にお礼を言って笑っていた君が、そのレポートの完成を放り投げて提出を怠るとは思えない」


 クリスに掴まれたままのエラリーの手が震える。


 責め立てられると思っていたのに、クリスがそれとは逆の言葉を掛けてきたからだ。


「クリス様は、わたくしを、信じてくださるのですか?」

「私は、自分の目で見てきたエラリー嬢を信じるよ」


 力強いクリスの声にエラリーの手から力が抜ける。

 エラリーが逃げる心配がなくなったとわかったクリスは、そっと手の力を緩めるとエラリーを呼ぶ。


「こっちを向いてくれるだろうか?」


 優しい声だった。だけど、エラリーは振り向けない。今にも泣いてしまいそうな顔をクリスに見せたくなかったからだ。


「ごめんなさい。……今は、ちょっと……」


 なんとか答えると、ふわりとエラリーの頭にクリスの手が乗せられた。


「分かった。では、放課後に時間はあるだろうか? またここで話をしよう」

「……はい。分かりました」


 返事をしたとき、授業開始5分前を知らせる鐘が鳴った。

 はっと、近くの時計を探す。いつの間にか随分と時間が経っていたようだ。


「戻ろうか」


 エラリーの手を優しく握ったままのクリスは、エラリーが落とした教科書を拾うと、エラリーに差し出した。

 エラリーがそれを受けとると、優しく手を引いて歩き出す。俯いた状態でエラリーはそれに従った。だが、捻挫が治りかけの足で早くは歩けない。


 三年生のクリスは一年生のエラリーとは教室が離れていて、彼の教室はエラリーよりも遠い場所にある。

 クリスはエラリーに合わせてゆっくり歩いてくれているが、このままでは授業に遅れてしまう。

 生徒たちが教室を目指して周囲から、どんどんいなくなっていく。その様子を目の当たりにして、早く歩かなくてはと焦るあまり、無理をしてしまったのか、エラリーの左足首に鈍い痛みが蘇ってくる。


「っ、クリス様」

「なんだい?」

「わたくしはゆっくり戻りますから、先にお戻りください」

「それは無理な相談だ。足を痛めているエラリー嬢を残して先に戻るなんて出来ない」

「え? どうして、それを……?」


 エラリーは捻挫したことをクリスには話していない。にも拘らず、彼はそれを知っていた。


「あの日、エラリー嬢は足に包帯を巻いていただろう? 先ほども少し足を引きずるように動いていたし、今も歩き方がいつもよりぎこちない」


 指摘されて、クリスの観察力にエラリーは驚く。

 図書室に行けなかったあの日、教師に怒られていたエラリーが包帯を巻いていたことをクリスは見ていたんだ。

 エラリーはゆっくり歩いている自覚はあったが、ぎこちないと言われるとは思ってもみなかった。


「そこまで分かっていらっしゃるなら、なおさら先にお戻りください。クリス様が授業に遅れてしまいます」


 自分の都合でクリスを授業に遅れさせて、迷惑をかけるわけにはいかない。そう思っての答えだった。


「分かった」


 クリスの答えにエラリーはホッとする。

 だがそれも束の間。「少し失礼するよ」なんて声がした次の瞬間、繋がれていた手が離されたと思うと、エラリーの膝裏と背中ににクリスの腕が回って、軽々と抱き上げられてしまった。


「きゃ!? へっ!? あああっ、あのっ! クリス様!?」


 パニック状態のエラリーは、急な浮遊感に教科書を持っていない方の手で、クリスのシャツにしがみつく。


「大丈夫、顔は見ないから。そのまま下を向いていて」


 落ち着かせるような声が耳のすぐ近くで聞こえて、エラリーは顔が熱くなる。顔を見られたくないエラリーを気遣うクリスの優しさが、エラリーの胸を甘く締め付けた。


「教室の少し手前まで送る。これなら私も遅刻しない。だからエラリー嬢は何も気にしなくていい」

「ぅ、……わ、かりました」


 あまりの恥ずかしさに、エラリーはそれ以上何も言えなかった。ドキドキと忙しなく音を立てる胸を感じながら、ただクリスに抱えられている姿を誰にも見られていないことを祈った。



 エラリーはそのあとの授業に、ろくに集中できなかった。クリスに抱えられたことを思い出して、その度に顔が熱くなるからだ。


 放課後まで残りあと一限というとき。小休憩の時間に入った途端、廊下が騒がしくなった。そして、そのざわめきは段々とCクラスに近付いていた。それはどうやらAクラスの方から来ているようだった。


「いらっしゃったわ!!」


 そんな声がして、普段すれ違う程度にしか知らない令嬢たちが、エラリーめがけて一目散に歩み寄ってきた。


「先ほど、殿下が運ばれていたのは貴女ですわね!?」

「新学期から殿下と図書室で親しげにお話ししているのは見かけていましたが、どうやってお話しを!?」

「ねぇ、よろしければ聞かせてくださらない?」

「殿下を独り占めだなんて、ずるいわ!」


 きゃあ、きゃあと騒ぐ令嬢たちからエラリーは質問責めにあう。だけど、彼女たちから刺々しい敵意は感じられない。どちらかと言うと、教えをこうような、羨望の眼差しを向けられていた。


「貴女たち、彼女がお困りよ」


 注意する声がして「はぁい」と言う声と共に、それまでぐいぐいと質問していた令嬢たちの声が止む。


「はじめまして。わたくしたちAクラスとBクラスの者ですわ」


 そう言って、注意をしてくれたご令嬢がエラリーの前に出ると、まず自己紹介を始める。彼女がミダヤム侯爵令嬢であることを聞いて、エラリーはピンッと姿勢を伸ばした。

 順番に紹介が終わり、エラリーも自身の名前とエレネルン伯爵令嬢であることを明かした。


「まぁ、エレネルン伯爵令嬢でしたのね! 道理で初めてお会いする筈ですわ!!」

「それで!? 窓から見えたのだけれど、先ほどは何故、殿下に抱えられていましたの?」

「どうしたら殿下とお話しできるか、ぜひ聞かせて頂戴」


 エラリーに向けられた瞳が期待に満ちていてキラキラと輝く。

 エラリーは戸惑った。こんなにポジティブな好奇心でいっぱいの瞳でご令嬢たちから見つめられることがなかったからだ。


 そして、戸惑う理由はもう一つあった。

 先ほどから彼女たちが口にする“殿下”と言う言葉。この国でそんな呼び方をする人物は限られている。


 だが、エラリーはまだ信じられない。


「えっと、……その前に、殿下(・・)と言うのは……?」


「そんなの、この国唯一の王子様。クリストファー殿下のことに決まっていますわ!!」


「っ!?」


 お茶会への不参加は勿論のこと、社交界デビューをしておらず、友だちがいないエラリーでもその名前は知っている。


 クリストファー・スプリングフィールド。

 この国の王子であり、エラリーとは関わりがない筈の人物の名前である。


 エラリーは学園にクリストファー殿下も通っていることは知っていた。


 でもまさか、クリス様がクリストファー殿下だったなんて……。クリストファー様……それで“クリス”を名乗ったということ?


 今までのことを思い出して、エラリーはサァッと血の気が引いていく。


 エラリーは王子様に勉強を教わっただけでなく、レポートの手伝いをさせた。あげく数日の間、王子様を避けて、それから彼に教室の少し手前まで運んでもらったのだ。


 それに思い返してみれば、エラリーの態度は? 話し方は? 知らなかったとは言え、王子様相手に失礼がなかったと言えるだろうか。


「エラリー様?」


 顔を青くして黙り込んだエラリーを令嬢たちが心配そうに覗き込んでくる。


「ごめんなさい、急に大勢で押し掛けてしまったから、混乱されているわよね」


 ミダヤム侯爵令嬢が呟いたとき、授業の始まりを知らせる鐘が鳴響いた。


「続きはまた今度お聞かせくださいね」


 そう言い残して、令嬢たちがそれぞれのクラスに戻って行く。


 エラリーは今度は先ほどとは違う理由で、次の授業もろくに集中することが出来なかった。



 ◇◇◇◇◇



 社交界の噂とは、あっという間に広がる。それはこの小さな社交界である学園でも同じだった。


 王子様に抱えられていたエラリーがエレネルン伯爵令嬢であると知った人は好奇と羨望の眼差しを彼女に向け、エラリーの“ガラスの足の伯爵令嬢”という異名を知る人は複雑そうに、そしてエラリーに嫌がらせをしてきた人は、面白くないと苛立ちを隠せない様子でエラリーを見ていた。


 そんな中、エラリーは未だ状況が呑み込めないでいた。つい数時間前にクリスがクリストファー殿下だと知ったばかりで、頭の中はぐちゃぐちゃだ。


 今まで良くしてもらっていた学園の先輩が王子様だった。通りで、優しく気品に溢れていた訳だと納得もした。


 しかし、エラリーはそこであることを思い出す。



『では、放課後に時間はあるだろうか? またここで話をしよう』


 そうだ! わたくし、クリス様と放課後に約束を……! あぁっ!! でもどんな顔をして会えば良いの? 

 わたくしがレポートを提出出来なかった理由を話すのよね!? でも、どう説明を!?


 嫌がらせの件は家族にも秘密にしているのだ。貴族令息のクリス様に話すのも躊躇われる内容を王子様のクリストファー殿下に話すだなんて、到底出来っこない。


 兎に角、王子様の貴重な時間を私のために割いて、お待たせしてはいけない。

 クリスが言っていた“ここで”と言った約束場所は、校舎裏のベンチだ。


 エラリーは急いで荷物を纏める。そんなとき、エラリーの前に人の気配がして、「エラリー様」と名前を呼ばれた。

 顔を上げると、ブリジットたち3人がエラリーを囲んでいる。


「何でしょう」

「お話がありますの」


 どこか高圧的な態度に、一瞬怯みそうになる。だけど、断るとそれこそ何を言われるか分かったものではない。


「……分かりました。人と約束をしていますので、手短にお願いします」


 ここでは人が多いからと、ブリジットは場所の移動を提案してきた。エラリーはそれに頷くと、ブリジットに付いて教室を出る。


「エラリー様は王子殿下とお知り合いでしたのね」


 歩きながら話しかけられた言葉に、どう答えるべきか迷う。エラリーは当たり障りの無い範囲で言葉を選ぶ。


「……そうみたいです。わたくしも先ほど、他の方から教えていただくまで、王子殿下だとは存じ上げていませんでした」

「それは嘘よ!」


 即座に否定の言葉が返ってきて「え?」と、エラリーは顔を上げる。


「この国の王子様のお名前を貴族令嬢が知らない筈がないでしょう? エラリー様は知っていて、クリストファー殿下に近付いたのね!」


 正面玄関ホールに続く階段の前で、ブリジットがくるりとエラリーへ振り向く。


「違いますわ。わたくしは本当に知らなかったの。お名前をクリス様だとお聞きしていたものだから」

「やはり、エラリー様は嘘を吐かれるのね。歴史のレポートだって、提出したと嘘を吐いたのでしょう? そんな嘘に付き合わされる先生方のご負担を思うと心苦しいですわ」

「……っ」


 どうして今、その事を持ち出すのだろう。と、エラリーは困惑する。


 正面玄関ホールに続くこの階段は下校する全校生徒が通る場所だ。エラリーたちの不穏な会話に、先ほどから生徒たちの視線がちらちらと向けられている。中には立ち止まって様子を伺う生徒の姿もあった。


「そうやって、わたくしのハンカチも盗んでいないと、嘘を吐くおつもり?」

「え?」


 ハンカチと言われて思い出すのは、エラリーが学園を早退したあの日、捻挫する原因を作ったブリジットのハンカチだった。


「それは、使用人を通してビドリー伯爵邸へ届けさせましたわ」


 エラリーが答えると、一緒に付いてきていたブリジットの友人のリベセル子爵令嬢とベセトゼ男爵令嬢が怪訝そうな顔をする。


「持ち主のブリジット様の手元に戻っていないから、こうして尋ねていますのよ?」

「エラリー様はブリジット様が嘘を吐いていると仰いますの?」


 二人がエラリーに詰め寄る。


 雰囲気がどんどん怪しくなり、通りすがりの生徒が立ち止まってエラリーたちを見る割合が増えてきた。


「やはり、エラリー様は嘘吐きね。レポートやハンカチの件で嘘を吐くだけでなく、クリストファー殿下のことも知らなかったと嘘を吐くなんて! エラリー様はクリストファー殿下のことも騙すつもりだったのね!!」

「違っ──!」


 エラリーは否定しようとして、言葉に詰まる。

 ブリジットの後ろに、少し先から歩いてくるクリスの姿を見つけたからだ。


 周囲はブリジットの言葉にざわめいていた。ここまで騒がれてしまっては、クリスの耳に届かない筈がない。


 数日前のあの日、歴史の教師に叱られていた時の事を思い出す。


『私は自分の目で見てきたエラリー嬢を信じる』


 クリスはそう言ってくれたのに、今度こそ失望されたかもしれない。


 エラリーは休み時間の時とは比べ物にならないほど、胸が痛んだ。持っていたカバンの持ち手をぎゅっと強く握り込む。


「エラリー嬢……」


 ブリジットの奥に立つエラリーの姿を見付けたクリスがエラリーを呼ぶ。


「っ、クリス様……」


 こちらに近付いてくる彼を見て、今度こそダメだとエラリーが思った時、「きゃあ!」とベセトゼ男爵令嬢が悲鳴を上げて、エラリーの手を掴んだ。


 掴まれた力に引かれたエラリーの体が横に傾く。その反動を利用して、ベセトゼ男爵令嬢は反対側の廊下へ身を投げ出した。

 エラリーは咄嗟に踏み留まろうとした。だけど、治りかけていた足首は咄嗟の負荷に耐えきれず、ズキリと痛む。


 その痛みでバランスを崩したエラリー。倒れた先にあるのは、数十段の階段だ。


 エラリーはゾッと背筋が凍る。頭の中を【死】が駆け巡って、ぎゅっと目を瞑った。


「っ!!」


 ドサッとエラリーの体が何かにぶつかる。

 足が凄く痛かったが、体はそれほど痛くない。


「エラリー!! 大丈夫か!?」


 そんな声で目を開けると、心地よい温もりがエラリーの体を抱き留めていた。


「ぁ、っ! クリス様!」


 心配そうに眉を寄せたクリスの美しい顔が悲痛に歪んでいる。


「殿下! 無茶しないでください!! お怪我をされたらどうするのですか!!」


 側でそんな声がしてエラリーが視線を動かすと、見覚えのある殿下の友人が焦った顔をしていた。


「な、んで?」


 ポロリと溢れた疑問を口にすると、クリスは困ったような顔をした。


「何で、か……。それは、……私にとって君が大切だからとしか言えないな」


 その一言に、ドキッとエラリーの心臓が跳ねた。


 クリスは階段の中腹で片手で手すりを掴んで、片方の手でエラリーを抱き留めていた。その体制を整える。


「エラリー、立てそうか?」と尋ねられて、エラリーも慌てて手すりを掴む。だけど足に体重を掛けようとして、やめた。


「!!」


 何とも形容しがたい感覚とジンジンと主張する痛みに、“あぁ、これは……”と、エラリーは嫌な予感がした。


 唇をきゅっと引き結んでそれ(・・)に耐えるエラリー。その様子に何かを察したらしいクリスは、数時間前のようにエラリーを抱き抱えた。


「えっ!? あ!!」


 戸惑うエラリーに「いいから」と微笑みかけるクリス。こんな時だと言うのに、エラリーは不覚にもときめいた。


「殿下! わたくしは悪くありません!!」


 叫び声がして、エラリーとクリスが顔を上げると、ベセトゼ男爵令嬢が叫んでいた。


「エラリー様が突然わたくしの手を引っ張られて、わたくしはそれを振り払っただけです!! 本当なら階段から落ちていたのはわたくしの方です!!」


 令嬢の訴えに、クリスは「分かった」と答える。


「君たち、来てもらえるかな? 続きは下で話をしよう」


 昼間にクリスから同じ台詞を聞いた筈なのに、エラリーの耳にはそのときよりも低く怒りを孕んだ声に聞こえた。


 クリスの指示通り、ブリジットたちは階段下に降りてきた。

 クリスは一緒にいた友人に何か耳打ちすると、友人はどこかへ走り、すぐに椅子を持って戻ってきた。


 その頃には野次馬が増えていて、生徒たちがこちらの様子を窺っている。椅子を置いたクリスの友人が、「見せ物ではないから関係ない者は帰るように」と、追い払うと半数以上は去っていった。


 そっと椅子の上に座らせてもらったエラリーは、クリスにお礼を言う。


 クリスは優しく微笑んだあと、切り替えるように「さて」と口にすると、ブリジットたちへ顔を向けた。


「君はエラリー嬢に腕を引っ張られて、階段から落ちそうになった。そう言いたいんだね?」


 クリスの言葉に「はい」とベセトゼ男爵令嬢が頷く。


「わたくしとっても怖くて、夢中で腕を振り払ったんです。そうしたら、エラリー様が階段から……」


 そう訴えかけるベセトゼ男爵令嬢は自身を抱きすくめた。


「なるほど? だが、私にはそうは見えなかったのだが、他の者はどうだろう?」


 その問いかけに、ブリジットとリベセル子爵令嬢はベセトゼ男爵令嬢の肩を持つ発言をした。

 3人もの証言があれば事実はどうであれ、もはやそれが真実だ。エラリーが俯き掛けたとき、「お待ちください」と声がした。


 野次馬を掻き分けて現れたのは、授業の合間の小休憩でAクラスからエラリーを訪ねてきた。ミダヤム侯爵令嬢だった。


「わたくしには、そちらのご令嬢がエラリー様の手を引っ張ったように見えましたわ」


 その証言を支持するように、彼女に付いてきていた令嬢たちもエラリーを味方する声をあげる。よく見ると、それはミダヤム侯爵令嬢と一緒にエラリーを訪ねてきた令嬢たちばかりだ。


「っ、それは皆さんの見間違いではないかしら? 一番近くにいたわたくしたちが、見たのですから間違いありませんわ。それに、エラリー様は嘘がお得意なのですよ? 皆さま騙されてはいけませんわ」


 ブリジットが言えば、クリスが口を開く。


「その件についてだが、話はなんとなく理解しているつもりだ。君たちはエラリー嬢が嘘を吐いていると言いたいんだね?」


 クリスの問いかけに、子爵令嬢と男爵令嬢は怯んだ。だけど、ブリジットは顔つきを変えると「えぇ」と頷く。


「クリストファー殿下はご存じないと思いますが、エラリー様は日頃から、各教科の提出物を期日内に提出できていませんの。最近も歴史のレポートを“提出した”と、先生に嘘を吐いていらしたわ」

「何故、嘘だと分かるのかな?」

「それは勿論、エラリー様が常習的に提出物を失くしたと言って、提出日を守っていらっしゃらないからですわ」

「その事を何故君は知っている?」

「いつもたまたま先生方にお叱りを受けている姿を見かけるからですわ」


「いつもたまたま、か……」そう呟いたクリスが次にエラリーを見る。


「エラリー嬢、君はよく提出物を失くすのか?」


 どう答えようか迷うが、王族である王子殿下に嘘を吐くわけにもいかず、「はい」と答える。その様子を見てブリジットたちは、自分たちの証言の有利を確信したらしい。


「きっと、エラリー様は期間内に仕上げられないから、失くしたと嘘を吐いて時間を稼いでいらっしゃるのです」

「エラリー嬢、ブリジット嬢が言ったことに間違いはないか?」

「……いいえ。少し違います」


 まさかエラリーが言い返すとは思っていなかったらしく、ブリジットが狼狽える。


「課題にはいつも手をつけています。ですが、提出する直前でロッカーから失くなったり、提出したあとで提出出来ていないことを担当教師から教えられます」

「ですから! それが嘘だと言っていますのよ!」


 ブリジットがムキになる。そんな彼女にクリスの友人が「落ち着け」と声をかけた。


「ところで以前、私の護衛が気になるものを見付けたんだ」


 クリスは急にそう言うと、ズボンのポケットからボロボロの紙を取り出して広げた。


「っ、それは……」


 姿はすっかり変わってしまっているが、エラリーにとって見覚えのあるものだった。

 破かれていた紙をテープで張り付けて復元したらしいそれは、エラリーがクリスの力を借りて纏めた歴史のレポートだ。


「どうして、殿下がそれを……!」


 口にしたブリジットがはっと口元を押さえる。


「おや? ブリジット嬢はこれが何か分かるのかい?」


 顔色を悪くしたブリジットが、ふるふると首を横に振る。


「私はよく知っているよ。これはエラリー嬢が昼休みに図書室で、私の隣(・・・)で取り組んでいた歴史のレポートだからね。どうしてこうなったのか、エラリー嬢と話をするために持ってきたのだが、こんなところで役に立つとは思わなかったよ。……まぁ、この件は教師の方々にお任せするとしよう」


 そう言って、クリスはボロボロのレポート用紙を畳むと、またポケットに仕舞う。


「話がずいぶん逸れてしまったね。でも、今のでエラリー嬢が期限内に歴史のレポートを提出出来るように取り組んでいた事は分かったんじゃないかな?」

「お待ちください、殿下! 彼女がついている嘘はまだありますわ!」


 ブリジットは喰い下がることなく言葉を発する。


「わたくしのハンカチを盗んだ件と、クリストファー殿下のことを知らなかったことです! この国の貴族であれば王族である殿下のお名前を知っていて当然のこと! にも拘らず、先ほどエラリー様は殿下が王子様だと存じ上げていませんでしたわ!!」


 それまで成り行きを見守っていた一部の生徒がざわめく。だけど、クリスはにっこりと微笑むだけだ。


「ハンカチの件は調べる必要がありそうだね。後で、エレネルン伯爵邸とビドリー伯爵邸へ調査のための人を送らせよう。だけど、エラリー嬢が私を王子だと知らなかったのは、私が図書室で彼女と初めて会ったときに、身分を明かさずに“クリス”とだけ名乗ったからだよ。君も私と同じパーティーに出席するまでは、私の顔を知らなかっただろう? どちらかと言うと、身分を隠していた私が彼女に嘘を吐いていたのかもしれないね」


「なっ」と音を発して、だけどブリジットはそれ以上何も言えなかった。


「これでエラリー嬢が嘘つきだという疑惑を少しは晴らせたかな?」


 完全にエラリーの疑惑が晴れたわけではない。だが少なくとも、ブリジットの証言を信じるには、いささか疑問が残る結果となった。


 クリスがエラリーを見る。


「エラリー嬢、待たせてしまってすまない。すぐに医務室へ向かおう。その足を診てもらわないと」


 クリスの視線がエラリーの左足に向けられる。

 先ほどからずっと、エラリーはジンジンと響く痛みに耐えながら、自身の疑惑に関する話を聞いていた。


「こんなことに巻き込んでしまって、申し訳ありません……」


 エラリーが謝罪を口にすると、クリスの手が優しくエラリーの頭を撫でた。


 そして、やれやれと言った様子で野次馬場だった生徒が散り散りになり、場が解散していく。それでも、エラリーに有利な発言をしてくれたミダヤム侯爵令嬢たちは心配そうにエラリーを見ていた。


「お待ちください! 殿下は騙されているのです!!」


 一度は口を閉ざしていたブリジットが、再びクリスに呼び掛ける。


「ブリジット嬢、それを決めるのは君じゃないよ。心配はいらない。きちんと調査した上で、確かめる。だけど……」


 そこまで言うとクリスはスッと目を細めて、ブリジットを見た。


「私に証言した言葉が嘘だと分かれば、君は王族に嘘を吐いたことで不敬罪に問われる。私は争い事は好きじゃないけれど、あれだけ目撃者がいれば今の話を私の心の内だけに留めておくことは難しい。だから、覚悟をしておいてくれ」

「っ!!」


 ブリジットから血の気が引いていく。足に力が入らなくなったのか、ブリジットはふにゃふにゃとその場にへたり込んだ。


 その後、またしてもエラリーはクリスに抱えられて医務室へ運ばれた。エラリーがクリスの友人だと思っていた彼は、クリスの護衛だった。


「私がエラリー嬢をお運びします」と申し出た護衛の彼に「護衛の手が塞がっては、いざというときに護衛が出来ないだろう?」と論破されて、それ以上言うのを諦めていた。


 それを目にして、大人しくクリスに運ばれたエラリーは、校医に足を診てもらった。腫れ具合や痛がり方からして、骨折の可能性が高いようだ。怪我をした直後に感じたエラリーの直感は間違っていなかったらしい。ひとまず固定して、後は病院で詳しく診てもらうことになった。


 患部を冷やしながら、エラリーは校医がエラリーの足の状態を説明するついでに呼びに行った伯爵家の使用人が迎えに来るのをふかふかの長椅子に座って待つ。


 クリスの護衛は医務室の外で待機していた。どうやら護衛の彼はクリスが図書室にいる時も、見えるところから離れてクリスを護衛していたらしい。

 そんなわけで、エラリーは今、隣に座るクリスと二人きりだった。


 聞きたいことや言いたいことはお互いに沢山ある筈なのに、どう切り出してよいかわからず、黙り込んでいた。

 だけどその沈黙を最初に破ったのはクリスだ。


「ずっと王子であることを黙っていて、すまなかった……」

「そ、そんな……! わたくしの方こそ、王子殿下だとは知らずに、沢山失礼なことをしてしまいました。申し訳ありません!」


 エラリーが慌ててペコペコと謝ると「君は悪くない」と即座に否定される。


「私が隠していたのだから。嘘つきは私の方だ」

「でも、クリストファー殿下は、私が恐縮してしまわないように隠してくださったんですよね?」


 初めて会った日、エラリーがクリスを「先輩」と呼んで驚いた顔をしていたことを思い出す。

 きっと、身分を明かせばエラリーが緊張して、勉強に集中出来なくなると考えたのだろう、とエラリーは考えた。


 エラリーの問いかけに「それもあるが……」とクリスは話し始める。


「多分あの頃から、私はエラリー嬢と仲良くなりたかったんだ。だから、身分を隠した。そして、結果的に君を傷付けてしまった……」


 それまで遠くを見ていたクリスが、エラリーを見る。


「提出物の件、あれは嫌がらせだろう? それを君は隠してきた。だけど、先ほどの話し合いでそれを多数の生徒たちに知られてしまうことになってしまった……」


「もう、いいんです。……ずっと隠すなんて、無理があったんですよ」


 何しろ嫌がらせが原因で教科書を失くした回数は、何冊目か分からないのだ。遅かれ早かれ、明らかになったであろうことが、今分かっただけだ。


「どうせなら、あの場でエラリー嬢の潔白を証明できれば良かったんだが。すまない。時間がかかりそうだ。……だめな王子だな、私は」


 自嘲するようなクリスの言葉に、「そんなことはありません!」とエラリーは反射的に告げていた。


「クリストファー殿下は、とてもお優しくて、カッコいい王子様です!!」


 ズイッとクリスに詰め寄っていることに気付いて、エラリーは慌てて距離を取ろうとする。


「も、申し訳ありません!!」


 だけど、クリスの手が逃げようとするエラリーの手を掴んだ。


「エラリー嬢、もう謝らないで。私は君に、隣にいて欲しいんだ。エラリー嬢が学園を怪我で休んでいたとき、君が再び登校する日をずっと待っていた。それなのに君は図書室に来ないし、教室にもいない。随分探したんだよ」


 そっと、クリスがエラリーの髪を撫でる。その眼差しや手付きはとても優しくて、エラリーの鼓動が早くなる。


「クリストファー殿下は、……何故わたくしに構われるんですか?」


 ドキン、ドキンと緊張しながらクリスの答えを待つ。足の痛みを忘れるほど、エラリーはいっぱいいっぱいになっていた。


「それはきっと、私がエラリー嬢を好意的に想っているからだね」


 エラリーから「へ……」と間抜けな声が漏れる。

 そんな風に言われては、エラリーは期待してしまう。どうせなら突き放すか、もっと濁してくだされば良かったのに。と、胸が苦しくなった。


「クリストファー殿下はお優しいですね。没落寸前の伯爵家の娘にそんな言葉をかけてくださるなんて。ふふっ。ありがとうございます! 帰ったら家族に自慢します!」

「エラリー嬢」


 エラリーの髪を撫でていたクリスの手が、顔を逸らしていたエラリーの頬に添えられて、くいっと強制的に視線を合わせられる。

 誤魔化して笑い飛ばそうとしたエラリーをクリスの真剣な瞳が捕まえて、エラリーは目が離せなくなる。


「何度も言うが、逃げないで。この気持ちを無かったことにしたくない」

「っ!!」


 本当に? わたくしの思い上がりではないの?


 そんな疑問がエラリーの頭を埋め尽くす。


「クリストファー殿下は……」

「クリス」

「……」


 呼び方を戻すように言われて、一瞬戸惑いながらもエラリーは言い直す。


「クリス様は、わたくしが一部の生徒から何と呼ばれているかご存じですか?」


 尋ねると、クリスが黙り込んだ。

 知らないのか、知っていてエラリーを傷付けるかもしれないと躊躇っているのか。それはエラリーには分からなかった。


「“ガラスの足の伯爵令嬢”……何度も骨折するから、密かにそう呼ばれるようになりました。そんなどんくさいわたくしが王子様のそばにいるわけにはいきません」


 そっとエラリーは視線をはずすと、固定された自分の足を見つめる。


 クリスはこの国でただ一人の王子だ。

 成績で決まる学園のクラス分けで、Cクラスに振り分けられた没落寸前のご令嬢では王子様に釣り合わない。王子様のそばにいるのは、もっとしっかりしたご令嬢であるべきだ。


 そう思っているエラリーにクリスは微笑みかける。


「では、繊細なエラリー嬢の足に似合う、美しい靴を贈ろう。もう君に怪我をさせないように、君をエスコートして歩くよ。だから、エラリー嬢は私の隣で笑っていてくれないか? それだけで私は何でも頑張れそうな気がするんだ」

「……ですがわたくしは、学園の成績も良くありません」

「それは問題じゃない。それに、これからはエラリー嬢の提出物が失われることも無いだろう。努力家の君の実力はCクラスじゃ収まらない。エラリー嬢に勉強を教えた私が言うんだ。それでも信じられないかい?」

「クリス様……」


 もうエラリーがどんな言い訳を並べても、きっとクリスはそれを越える回答を提示するのだろうと、エラリーは悟る。だから、「分かりました」と観念する。


「クリス様を信じます。だから、……クリス様のそばにいても良いでしょうか?」


 顔だけではなく、身体中が熱い。エラリーはクリスの顔を直視できなかった。


 満足げに頷いたクリスはそっとエラリーを抱き締めた。




 それから数年後、クリスはエラリーへのプロポーズで約束通り、エラリーに似合う美しい靴を贈った。


 それは美しく繊細で、この世で一組しかない、ガラスで作られた靴だった。

最後までお読み頂きありがとうございます!


少し書き始めたら楽しくてサクサクと筆が進み、2日で書き上げた作品ですが、楽しんでいただけていれば幸いです。

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