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突然のことに事態に把握できていない少年は、目をぱちくりと開いて動けないでいると、黒い男はイスから立ち上がる。
「いいか、このことはあの人に言うなよ。 言ったらもっと酷い目に見せてやる」
黒い男は冷たく言うと、そのままエイミーを出て行ってしまう。
少年は、黒い男の行動にショックを受けているかというと、そうでもなかった。
ココロネはあんなにも魅力的なのだから、他に好きな人がいても当然だ、と思った。
コーヒーがぽたぽたと髪から垂れ、バーのマスターが慌ててどこからかタオルを持ってくる。 受け取ったタオルはふわふわで顔を拭くと気持ちが良い。
心配そうに気を遣うバーのマスターに少年は、大丈夫、と笑いかけた。 敵意を向けられたにも限らず、悲しみはなかった。 それよりも、闘志があった。
――ぜったい、ぼくのほうがココロネを好きだ。
それに、あの言葉はまるで嫉妬じゃないか。
あの男はココロネにきっと好かれていないのだろう。 いつもココロネの傍にいるが、ココロネがあの男と話しているところは見たことがない。
そう思うと、少年は笑みが浮かんだ。 いかに自分がココロネに愛されているか、わかるからだ。
あの男の存在なんか知らないままでいい。
少年はこのことをオリバーとココロネに言わないようバーのマスターに口止めをするのであった。
ココロネが仕事から帰ると、オリバーが寝ないで待っていた。 イスに座り、本をぺらり、とめくって読んでいるようだった。 机上には本が積み上がり、オリバーの熱意が感じられる。
それを見るとココロネは今から大変なことをしようとしている気がした。
今更、文字の勉強などばかばかしい行為なのではないか。
そう考えるが、少年に名前を与えると約束した。 変な名前などつけられない。 そのためには少なくとも、字の勉強をしなければ。 そう思い覚悟を再び決める。
「ただいま」
ココロネの声にオリバーは気づくと振り返って立ち上がる。
「おお、ココロネ。 待ってたぞ! 仕事はどうだった?」
「特に。 普通だったよ」
最近は仕事にも慣れてきて、トラブルになるようなこともなくなった。 スリを止める者が存在していることは、噂にもなっているようで事件が発生することも少ない。
「そうかそうか、お疲れ様。 先に飯を食え。 それから勉強するとしよう!」
言われたとおりココロネはバーカウンターに向かう。
バーのマスターと少年がココロネの帰宅に気づいていて、机越しに待って待機していた。
「お、おおかえ、り!」
少年は嬉しそうに言う。 何となく、いつもよりテンションが高いように見えた。
「ああ、ただいま。 なにか、あったか?」
軽く微笑んでココロネも返事を返し、イスに座る。
「……う、うううん。 なんに、も! き、きょう、は、なに、にす、る?」
にこにこ顔で答える少年だったが、内容は話してくれないらしい。 無理やりに聞くことでもない。 少年のすべてを把握しようなど、やりすぎだ。 ただ、少年に嬉しいことがあったのなら、それでいい。 少年の笑顔にココロネも微笑を浮かべる。
「少年にお任せで」
どうせココロネの希望は通らないことを知っている。 それにせっかく少年が作るのであれば、サンドイッチ以外のものを食べたかった。
「わか、った」
少年は微笑むと、料理の準備をし出す。 マスターに身振りで指示をもらいながら、こなしていく。 決してスムーズな動きとは言えないが、それでも頑張っている様子が現れている。 それを微笑ましく思いながら見ていると、仕事の疲れが癒やされていく気がした。
「どう、ぞ」
とん、とテーブルの上に料理が盛られた皿が置かれる。 その食べ物はパスタだった。 フォークでパスタを巻くのが面倒であまり食べることをしない料理だ。
「れたす、と、しーちきん、の、ぱすた、で、す」
そう言って少年はココロネの表情をうかがった。
「おいしそうだ」
それを安心させるようにココロネは言うとフォークを手に取る。
一口分の束を絡ませて、くるくると巻いていく。 あまり食べることがないだけで、苦手ということではない。
きれいにパスタがフォークにまとまると、ココロネは口の中へと入れる。
どうやら柑橘類の果汁を使ったソースを使っているようだ。 さっぱりした香りと味が口の中に広がる。 しゃきしゃきとしたレタスは歯ごたえがあって噛むだけで楽しいし、シーチキンの淡泊な味もソースによく合っている。
「おいしいよ」
ココロネが食べる様子をそわそわとしながら見守っていた少年に、感想を口にすると嬉しそうに飛び上がる。 顔一杯に笑顔を浮かべて、うれしそうだ。 その表情を見るだけで、ココロネもうれしくなる。
あっという間にパスタを食べ終えると席を立ち、オリバーのいるテーブル席へと移動した。
するとオリバーは待っている間が暇だったのか、机に頭を置いて眠っている。 開いた口からは涎が垂れている。
ココロネは体を揺らすと、まだ眠りが浅かったのかオリバーはすぐに目覚めた。
「お、おお。 寝てたか」
オリバーは頭を起こし、目を擦る。
「疲れているところ、すまない」
ココロネがそう言うと、オリバーはきょとんとし次には笑顔になった。
「何言ってんだ。 お互い様だろ」
そう言ってオリバーは口元に残る涎を拭く。
ココロネに横に座るよう言うと、積まれた本から一冊取り出して、表紙を開く。 開かれた本は分かりやすく大きな文字で書いてあり、可愛らしいイラストもついている。
そして、ココロネの勉強が始まった。
ココロネはペンの持ち方すらも知らなかった。
オリバーが「見本の文字の通りに書いてみろ」と言えば持ちにくそうにペンを握った。 その動作があまりにも拙くて、 何でもそつなくこなしてしまうココロネが小さい子どものように見えた。 普段は表情も無表情が多く、何を考えているか想像しにくいココロネの内面の一部が見えた気がした。
オリバーは娘のエイミーの小さい頃を思い出した。 今はどこにいるか分からない娘の存在に切ない思いを馳せながらも、意識を戻す。
「こう持つんだ」
オリバーは隣で自分のペンを持ち握り方の見本を見せる。 ココロネはそれを見て、ペンを握り直すがイマイチうまく握れていない。
仕方ないのでオリバーはココロネに近づくと、ココロネの手をオリバーの大きな手で覆い、正しい持ち方をさせてみせた。
その様子に気づいた少年がむっとした表情で二人を見ていた。
しかし、そんなことに気づくわけもなくオリバーはそのまま手を動かし、紙の上でペンをなぞる。
「これでココロネって書くんだぞ」
オリバーがココロネの手を使い書いた文字の羅列はココロネという名前の単語だった。 ココロネはじっとその文字を見つめた後に「……近い」と言ってオリバーの覆い被さった手を払ってみせる。 オリバーはそのことに文句をいうこともなく指導を続ける。
かちかち、と時計が進む音。 紙にペンを綴る音。 そしてオリバーの解説。
夜から深夜に渡るココロネの勉強はオリバーが眠気で音を上げるまで続けられた。




