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食事を終え、ココロネはエイミーを出ると仕事に向かう。 スリを止める仕事だ。
視界に入る者たちに変な動きはないか、隙のある観光客はいないか、と注意をしながらも、頭の片隅で考える。 一体どうやって名前を考えるか。
人に名前などつけたことがあるはずもなく、ヒントに出来るのは自分の名前くらいだった。
私の、このココロネという名前は自分でつけたものじゃない。 随分前に人間につけてもらった名前だ。 その人間は願いを込めて、私の名前をつけた。 文字で書くと心の音と書きココロネ。 ちゃんと意味があるのだ。
少年の名前も、どうせならそういった意味のある名前がいい。 しっかりと少年を表す名前を。
仕事を終え、ココロネはエイミーに帰ると、またバーカウンターで少年は机に伏せて眠っていた。 待たなくてもいいと言うことを忘れていた。
すやすやと眠る少年を起こし、二階へと上り自室のベッドで寝かせると、再び一階に降りてくる。
そしてロビーにあるテーブル席のイスで腹を見せながらイビキをかいて眠っているオリバーを起こす。
しかし揺らした程度では起きる気配は見せない。 少しずつ揺らす勢いも強くさせたが、それでも起きない。
いい加減、堪忍の尾が切れたココロネはオリバーの頬を強くビンタした。
ばちんっと勢いのいい音が静かなロビーに響き、さすがのオリバーも衝撃で目を覚ます。
それでも何が起こったのか分かっていないみたいで、目の前にいるココロネに「よお、ココロネ」と呑気に言いのけるのだ。
オリバーの片頬はココロネの手のひらの形にくっきりと腫れているが、オリバーは気づかないし、ココロネもわざわざ言わない。 知っているのは、二人以外に唯一いたバーのマスターくらいだ。 バーのマスターはオリバーがビンタされても、にこにこと笑っていていつもと何も変わらない。
「オリバー、頼みがある」
オリバーがまだイスに横になった状態で、ココロネが見下ろすようにして言う。
「おお、一体どうした? ……というか、なんか頬がピリピリするような……」
「字を覚えたいんだ。 教えてはくれないか」
「……字ぃ? また突然な……ああ、少年のためか」
オリバーは体を起こし、熱のこもった頬をさする。
「ああ、そうだ」
「うーん……」
オリバーは少し悩んだ。 なんていったって、文字を教えた経験などほとんどない。 記憶にあるのは娘のエイミーが小さい頃に教えてやったくらいだ。 それも少しくらいで、ほとんどは妻がやっていた。 だから、うまく教えられる自信はなかった。 デールじいさんの所へ行かせることも考えたが、ココロネの仕事上、教えるのは夜になるだろう。 スリを止める仕事はしばらく続くし、あの人は早寝だから夜更かしには向いていない。
「まあ、いいか。 少年のためだしな」
オリバーは頷き、立ち上がる。
「オレもココロネも仕事があるし、その後からになっちまうが、いいか?」
仕事とは体力を使うものだ。 もちろん精神も使う。
仕事が終わった後は、一息ついてぐっすりと眠りたい。
それを我慢して夜更かしして勉強を教える。 それは大変なことだ。 金にだってなりやしない。
けれどココロネはエイミーのギルドメンバーだ。
オリバーはギルドマスター。
ギルドメンバーが助けを求めたとき、手を貸すってもんがギルドマスターの務めである。
「もちろんだ」
ココロネだって仕事後の勉強は大変だろう。 無知な状態から覚えなければいけないのだ。 けれど、そのくらいでココロネは諦めたりしない。 だって、これは少年の最後の願いを叶えるためなのだから。
「じゃあ、さっそく明日からだ。 途中で諦めるなよ?」
ココロネは絶対に諦めることはしない。 そのことはオリバーも分かっていたが、あえて言った。 挑発と応援の意味があった。
「ああ」
その返事にオリバーはいつものようにココロネの背中を強く叩く。 この行為はオリバーなりの鼓舞であった。
「……おい、子ども、調子に乗るなよ」
それは早朝のことだった。
少年はバーのマスターの手伝いをしていた。
早朝には決まってバーテーブルの一番隅に、全身黒い格好をした男が座っている。 先端が折れている特徴的な帽子を被っていて、その隙間からは漆黒の髪と黒曜石のような瞳が見える。 その瞳はいつもどこか遠くを見ているようで、孤独が浮かんでいる。 中性的で美しい容姿をしているが、重たい闇のような雰囲気を纏っているせいで近づきがたい。
そんな男は決まってコーヒーだけ飲んでいた。
今まで喋ったこともなく、黒い男のいきなり発せられた言葉に少年は驚いた。
「……な、ななにをを?」
いきなりのことだったから、すぐに反応は返せなかった。 言葉の意味を考えたが、よく分からず返事を返す。 初めて喋る人には何を言って良いかわからず緊張した。
「あの人のことだ。 名前を考えていただくなんて大それた真似、よくできたな」
無感情だった瞳が鋭く尖って少年を睨みつけている。 少年は自身に敵意を抱かれていることに気づく。
「……えっと……ああの……」
その瞳が怖くて少年は黒い男の視線から逃げるように、そっと視界を外す。 それでも黒い男の睨みつける行為は続く。
沈黙が続き、少年は何か言わねばならない、と思った。 でも、何を言えばいいか正解がわからない。
「あ、あの……こ、こころね、が、すき、なの?」
だから少年は抱いた疑問を素直に尋ねてみた。
すると黒い男は一瞬目を見開き、鋭い眼光で少年を見つめる。 そしてまだ温かいコーヒーが入ってるカップを持ってカップごと少年へと勢いよく投げつけた。
カップは少年の頭に当たり、中のコーヒーで頭と体を濡らす。 からん、とコーヒーカップは床に落ちると割れてしまった。




