隣人が美人でビンビンになった男
アウグスト・シュケルナーは戦士だ。
先の戦争ではその大剣で数えきれないほどの敵を斬り、ゲールラント王国の勝利に貢献した。
その褒賞として、街のアパートに一人で住める権利を国王から与えられた。
狭い宿舎にぎゅうぎゅう詰めだった生活から、悠々自適の一人部屋に移り住めるのは、アウグストにとって有り難い褒美であった。
「荷物はこれで全部だ」
武具と衣服の他にはほぼ何もない少ない荷物だったが、持って運ぶのを手伝ってくれた奴隷に礼を言うアウグスト。
石畳の舗道を歩いていると、前方にそれが見えてきた。バロック様式を模した、アーチを描いた窓の並ぶ建物が、春の陽射しに輝いて見えた。
「これはよいアパートですね」
奴隷の青年が、おべっかではなく心から振り絞るように、羨ましそうに言った。
「うん。なかなか綺麗だし、泥棒も入り込めなさそうな頑丈そうなアパートだな。石造りだから火災にも強そうだ」
そしてアウグストは冗談口調で言った。
「これで隣人が美人のお姉さんとかだったら最高なんだがな」
二階の部屋に少ない荷物をあっさりすべて運び入れると、近所を散策してみたくなった。
春の陽気も手伝って、足が軽かった。戦争で負傷した左足も、軽やかに動く。
仕立屋、八百屋、魚屋、花屋──見るものすべてが新鮮に見えた。
楽しい気分でアパートに帰って来ると、前を歩く婦人の背中に追いついた。
アーチを描いたエントランスを入り、自分と同じ石段を、先に立って昇っていく。
彼女が自分の隣の部屋に入ろうとしたところで、声をかけた。
「失礼。お隣の住人ですか?」
女性が初めてこちらを振り向いた。
アウグストは目を見張った。
久しく女というものを見ていなかったこともあるかもしれないが、彼の目の中で、彼女は今まで見たどんな花よりも美しく花開いた。
「なんて美しいひとだ」
思わず声に出してしまった。
「……失礼。私は隣の部屋に越してきた、アウグスト・シュケルナーという者です。どうぞよろしく、お隣さん」
女性は柔らかい目元をさらに柔らかくして微笑んだ。ロマン主義絵画の中の女神のように見えた。
「こちらこそよろしくお願い致しますわ。お隣さん」
その声は海の底から湧き出るヴィーナスの泡を思わせた。
「わたくしはゲルトルート・ヴェヌスと申しますの」
あまりの美しさにアウグストの言葉が止まってしまった。
彼女に見とれながらただ頭を下げた。ゲルトルートは少し満足そうにまた微笑むと、会釈をして自分の部屋に入っていってしまった。
ベッドに横たわり、アウグストは耳を澄ませた。
時計は夜の八時を指し示していた。
彼女は一人暮らしなのだろうか? 何の物音も聞こえてこない。
しばらく彼女の生活音を探っていた。戦場で、敵の気配を探っていた時のように。
すると初めて、その音は聞こえてきたのだった。
ベッドのシーツが擦れるような音だった。それが次第に激しくなる。
やがてベッドがギシギシと軋む音が聞こえはじめ、それはやがて地震のように、激しくアウグストの部屋の壁までも揺らしはじめた。
アウグストは興奮した。彼女が亭主持ちなのか、それとも男を連れ込んでいる寂しい独り身なのかはわからなかったが、しかし昼間に見たあの貞淑そうな美人の顔が、淫靡な悦びの表情に歪んでいるのを想像すると、ビンビンが止まらなくなった。
しかし、声は何も聞こえてこない。どういうことだ。アウグストは頭の中で、さまざまな推理を巡らせた。
たとえ自分で自分を慰めているのだとしても、声は上げるはずだ。彼女の声はか細くあろうとも、小鹿のように甲高くよく通ることだろう。壁は薄いとまではいえないが、微かな声でさえ自分の耳は聞き逃さないはずだ。これだけ静かなのだから。また、自分は近づく敵の微かな気配さえも聞き分けられる戦士なのだから。
やがてノコギリを引くような音が混じりはじめた。なんだ、この音は。まるで人間の骨でも切断しようとしているような鈍い音だ。
もしや隣人の女性は猟奇殺人犯なのか? 連れ込んだ男を殺し、今、まさにその死体をバラバラに切り刻んでいるところなのか?
それはそれでアウグストは興奮した。心の奥にある何かがビンビンになった。戦場で敵の肉を斬る時の興奮が蘇る。そんな非日常的な興奮が、こんな平和な街中の平凡な景色の中にも生まれることに、興奮していた。
やがて音も震動も止まり、彼女の気配もなくなった。
アウグストはさらに耳を澄ませたが、もうどんな気配も窺うことは出来ず、まんじりとしているうちに、いつの間にか眠ってしまった。
次の戦争が始まるまでの、おそらくは長い休暇だった。それでも鍛錬は怠らず、毎朝城にある訓練場へ出掛けていく。
アウグストが部屋を出ると、ちょうど隣の部屋からもゲルトルートが出てきた。
「あっ。お、おはようございます」
つい、吃ってしまった。
彼女は今朝も美しかった。昨日見た時よりも、妄想の力も手伝って、魅力的に見えた。昨夜の謎が彼女に神秘のオーラを纏わせていた。
ゲルトルートはにっこり挨拶を返すと、仕事へ出掛けていくのか、急ぎ足で石段を先に降りていった。
アウグストはまた朝からビンビンになっていた。これが隣人が得体の知れない醜い男だったならすぐさま大家に通報していたことだろう。しかし、通報することなど考えもしなかった。これは自分一人の楽しみにしたかった。
とりあえず今朝の彼女から血の匂いのようなものは一切しなかった。一体、彼女が、夜遅い部屋で、何をしていたのか、それを解き明かすのが彼の楽しみとなった。
『もしかして……、寝相がとんでもなく悪いとかなのだろうか?』
そう考えてみたが、それはそれで、彼の頭の中には『ギャップ萌え』という、この時代にはまだなかった彼の造語が浮かぶのだった。
城での訓練を終え、アウグストが帰宅すると、またエントランスのところで彼女に出会った。
「やあ、ゲルトルートさん。今、お仕事の帰りですか?」
声をかけると彼女はびっくりしたように振り返り、アウグストの顔を認めると安心したように、またあの美しい微笑を浮かべた。
「あら、アウグストさん。よく帰りが一緒になりますのね! 相性がいいのかしら」
気になっていたことを、アウグストは聞いてみることにした。
「ご主人はお帰りが遅いのですか? まだ挨拶もしていない」
すると彼女は彼を喜ばせることを言った。
「主人はおりませんわ。独り身ですの」
嬉しさがつい、顔に出てしまった。手で口元の笑いを隠しながら、アウグストは彼女を心配するふりをする。
「それは少し不安だな。女性の一人暮らしは狼に狙われやすい」
すると彼女は今度は彼を少しがっかりさせることを言う。
「ご心配ありませんわ。息子と二人暮らしですの」
「息子さんがいらっしゃるのですか」
アウグストは恋仇が突然現れたような気分になり、少しうなだれた。
しかし、新たな妄想が彼の脳裏ににょっきりと生まれてきた。もしかして、その息子と、ベッドを軋ませるようなことを……?
しかしすぐにその妄想を打ち消した。彼女は若い。そんなことの出来る大きな息子がいるとはとても思えない。
結局、彼女に息子がいるということ以外には何もわからず、アウグストの興味は日に日に高まっていくばかりだった。
その物音は毎晩、聞こえてきた。
就寝時間までには収まるので安眠妨害になるようなことはなかったが、しかしアウグストは物音が収まってもしばらく興奮してしまって眠れない夜が続いた。
彼には誇り高き戦士としてのプライドがあった。覗き魔の真似事のような気がして今まではしなかったのだが、壁に耳を当てて隣室の音を聞くようになった。
すると今までは聞こえなかった生活音も聞こえてきた。どうやらこのアパートの壁は結構厚いようだ。壁に耳を当てることで、ゲルトルートが食器を鳴らす音や歩く音、椅子に腰掛ける音などもしていることがわかった。
そして毎晩ベッドを軋ませる物音にも、他の音が混じっていることもわかった。
ハァハァと荒い吐息のようなものが、そういえば聞こえる。それはどう聞いても女性の、か細い喉から発生しているものだった。しかしそれが大きくなると、あのノコギリを引くような音に変化していたのだ。獣が喉を鳴らしているような、そんな音にも聞こえた。
息子の声はまったく聞こえてこなかった。
男を連れ込んでいるような気配もない。部屋にはおそらく、彼女一人だけだ。
『ハハァン……』
アウグストには推理の目星がつきはじめた。
『息子がいるなんて、嘘だな? 女の一人暮らしだということを隠すための、あれは作り話だったのだ。俺という狼から、身を守ろうとしたのだろう』
思わず顔がニヤリと悪人のように笑ってしまった。
『それでいて、ほんとうは寂しいんじゃないか。あんなに激しく、毎晩己を慰めているなんて』
そしてビンビンな妄想は止まらなくなった。
『もしかして……、俺の顔を思い浮かべながら……、その指が止まらなくなってるんじゃないか?』
彼もまた、美しいゲルトルートを思い浮かべながら、その手が止まらなくなった。
遂に我慢がしきれなくなった。
城での訓練にも身が入らなくなってしまっていたある日、アウグストは夜の八時に隣の部屋の戸を叩いていた。
ランタンを手に、中から出てきたゲルトルートはセクシーなランジェリー姿だった。
「あら、アウグストさん。こんな夜更けにどうなさったの?」
「あ……、いや……」
悪いことをする気満々だったのが、彼女の美しい顔を見ると、気後れしてしまった。
「その……。毎晩、今ぐらいの時間から、少し……ね。物音が聞こえるんで……、何だろう……と」
ゲルトルートは含み笑いをするような顔で、謝った。
「あ、すみません。息子がうるさかったですか?」
「いや……。息子さんが何かしてるのかい? そんな気配もないんだが……」
「ちょうどよかったですわ」
ゲルトルートが何かを思いついたように、細い腕をぽんと手で打った。
「息子がアウグストさんと仲良くしたいと言っていましたの。会ってやってくださいます?」
ほんとうに息子がいるらしいことに拍子抜けした。
お茶をご馳走してくれるとも言われ、何より彼女のあの物音の正体がわかることを期待して、招かれるままに彼女の部屋に入った。入るなり、ベッドの上にあるものを見て大声をあげかけた。
ベッドの上に横たわっていたものは、男の死体のように、一瞬、見えた。しかしすぐにそうでないとわかったのは、それがとても出来の悪い、布で編んだ抱き枕だったからだ。どうやら手作りのものらしく、描かれているマッチョな男の姿は歪にデッサンが狂っている。なぜか尻の部分に穴が空いていた。
「こ……、これがもしかして、息子さん……ですか?」
アウグストが尋ねると、ゲルトルートは罠にかかった獲物を見て喜ぶように身を弾ませ、扉を後ろ手に閉めた。
「まさか! それはわたくしの息子のお友達よ」
そして、アウグストは、見た。
寝間着のスカートを捲りあげた彼女の、下腹部からそそり立っている、その、逞しい息子を。
隣人は美人だが、抱き枕を相手に毎晩ビンビンになっている『男』だったのだと、知った時にはすべてが遅かった。