犬も喜ぶホワイトバレンタイン
2月14日。
朝から雪が降り続いた。
その結果、夫は雪で帰るのが遅くなると、連絡がきた。
一方、娘はバレンタインチョコレートを渡して、彼氏ができて遅くなると連絡があった。
『お父さんが帰ってくる前に、帰りなさいよ』
一応、夫のために、メールを送る。
振替輸送のバスで疲れ果てて帰って来たのに、『娘に初めて彼氏が出来ました♡だから帰りは遅いです♡』では、あまりにも気の毒すぎる。
妻である私からのチョコレートだけでは、元気にならないだろう。
私も仕事から帰って来たばかりで疲れているが、我が家のアイドル犬・コタロウが散歩に行こうと催促してくる。
「くぅん」
やめて。その瞳で見ないで。
秋田犬のように、もふもふころころとした体を使って懸命にアピールしてくる。
アピール内容は『おさんぽ、いきましょう!』。
「コタロウ〜、今日はお休みしない?」
ダイニングテーブルに頭をのせて、休みたいという飼い主からのアピールは無視をされた。
コタロウはリードをくわえて、ぶんぶんとシッポをふっている。
椅子に座る私の左膝にそっと前脚を交互に乗せてくる。
……くっ、かわいい!
そういえば、コタロウは雪が大好きで、公園の広場で大はしゃぎするタイプだ。
「……うう…、公園行ったら帰るからね」
せめてもの妥協として、コースの短縮をお願いした。
コタロウは、『なんでもいいから、いこういこう!』と、私の周りをぐるぐると回るだけだった。バターになるよ、と言っても分からないか。
ふう、と諦めのため息をひとつ落として、私は散歩に行く用意を始めた。
日没時間は過ぎているのに、一面の雪あかりで、明るい。
まるで夢の中にいるように、光源が曖昧でどこにも影がないようだった。
踏みつけられた雪の道をコタロウと一緒にゆっくりと歩く。
さくさくさく。
コタロウが新雪の方に足を踏み入れる。
立派な毛皮が濡れるのも構わず、どんどん進む。
リードをきゅっと軽く引っ張ると、チラッとこっちを見るがまた雪の方に。
「だーめ。コタロウ、公園に行くよ」
もう視線も向けずに歩き始める。
コタロウが少し抵抗した感触がしたが、すぐに私の横に並んであるきはじめる。
どさっ、と急に音がした。
電線からの雪が落ちたようだ。
コタロウがびくっと跳ねて私を見て、『驚いてないよ?』という顔をする。
私は、ふふっと笑って歩く。
時々、雪の上にお犬さまの粗相を見つける。真っ白い雪の上に黒い塊は、ちょっとあまり見たくない。
「ちゃんと持ち帰ってよねぇ〜。雪の上って目立つじゃない」
ぷんぷんと怒りを表現しながら、コタロウの隣を歩く。
怒らないと寒くてやっていられないから。
誰もいないのに、これ見よがしに新聞紙とスコップの入ったビニル袋を大きく振りながら歩いた。
公園に着いたけれど、当然誰もいない。
いつもの散歩コースで会うのは小型犬ばかり。
きっとこんな雪の降った日に外に出しては風邪をひいてしまうだろう。
コタロウはもこもこの毛皮を持っているので、ダウンジャケットを着込んだ私よりも暖かそうだ。
公園に着いてから、リードの範囲内であっちこっちの雪に頭から突っ込んでいる。
しっぽがブンブンと千切れそうなほどに。
誰もいない真っ白い公園の中で、コタロウのリードを外してやりたいと思ったけれど、そうなると絶対に帰れなくなる。
雪の中の茶色い毛皮に向かって、私は叫んだ。
「寒いから、ぐるっと回ったら終わりよ!」
へっへっへとコタロウがこちらを向いて返事をしたので、一番短い周回コースへと向かった。
さく、さく、さく。
へっへっへっ。
足音とコタロウの息だけが響く。
雪があると、どうしてこれほど静かなのだろう。
空を見上げる。
星も空もない。雲が覆っている。
私のブーツとコタロウのもこもこの素足が雪を鳴らす。
誰もいない雪の公園。
これはこれで楽しいかもしれない。
だんだんと雪の世界でテンションが上がってきたのか、コタロウが駆け出した。
あっと思う間もなく、リードが手元から離れた。
その時。
雪に覆われた常緑樹の茂みのそばに、リードを持った白い服の女の人が立っていた。
真っ白い壁のような雪の塊の前で、女の人は足元に近いところにある雪の落ちた茂みの方を見つめていた。
その茂みだけが、深い緑を保って見えた。
リードの先は茂みの中に消えていて、太めに見えたので大型犬かなと思った。
「こんにちは」
一応、マナーとして近くを通る前に声をかけた。
女の人がこちらを向いた。
さらりとした黒髪が、真っ白いベンチコートの上をすべり落ちた。
あら、美人さんだわ。
すっと通った鼻筋に、柳眉の下に二重の大きな目。
かすかに口を微笑みの形にして、私に向けて軽く頭を下げた。
少し、リードが揺れたけれど、茂みの中のワンちゃんが何か動いたのかしら。
「寒い中、散歩は大変ですね」
ありきたりな挨拶をして通り過ぎた。
少しコタロウが茂みの方に興味を示したけれど、私を見ると再び走り出した。
と、思ったら。
しやがった。粗相。
リードが手元に戻ったのはいいけれど、ぷるぷると頑張っているコタロウが終わるまで動けない。
私はコタロウの粗相が終わってから、スコップで黒い物を拾い上げると、ビニル袋の中の新聞紙へそれを落とした。きゅっと袋の口を締める。
「コタロウ、すっきりしたねー。さあ、行こうか」
その後は、コタロウは素直にてくてくと歩いて家まで帰ってくれた。
トイレしたかっただけなのだろうか。
そう思ったのが甘かった。
あちこちで山になった雪かきの塊にごんごん突っ込む。
戦わなくていいから、帰ろう!寒い!
ぎっちり手に巻いたリードでなんとかコタロウを引っ張りつつ、帰宅。
染み渡る。家の暖かさよ。
「ふう……ようやくこれで休める」
玄関の三和土でコタロウの足とお腹を拭いて、靴を脱ごうとした途端、ビニル袋の中にスコップが無いことに気がついた。
「ああ〜、あの時だ。うっかりしてた」
公園でコタロウの粗相を拾った時に、スコップを置いてきてしまった。
雪の上に置きっぱなしだと、目立つような気がする。
誰かに持っていかれたら、買いに行かなければならなくなる。
店は公園より遠い。面倒くさい。
「仕方ないなぁ。行ってくるかぁ」
もう夕飯は冷凍庫にあるものをあたためるか、袋麺とか簡単なものでいいや。
どうせ娘は彼氏と食べてくるだろう。
コタロウをゲージの中に入れて、私はひとりで公園へ向かった。
ちょっと連れてけ、という顔をコタロウがしていたのは気のせいじゃないな。うん。でも、まだまだ元気なコタロウと一緒では、いつ帰れるか分からないから留守番しててね。
さっきよりも薄暗くなった雪の公園は、やっぱり誰もいなかった。
ちょっと怖いなぁと思いながらも、これだけ真っ白い世界なら、悪いものはすぐ見えそうだから逃げられるなぁと、のんきに歩いた。
確か茂みの近くを通って…。
さっき通ったばかりの道をたどり、発光する雪の中でスコップを見つける。やっぱり置き忘れていたようだ。
やれやれ。
しゃがみこんで拾うと、少し離れた所で雪の落ちる音がした。
しゃがんだまま顔を上げると、茂みの上に乗っていた雪がはらはらと落ちるのが見えた。
なんだ、茂みの雪が落ちただけか。誰もいないとちょっと怖いな。
そう思ってよく見ると、黒い髪が動くのが見えた。
雪の落ちた茂みの前には、さっきの美人さん。
白いベンチコートが薄明の中、保護色のようになって見えなかったようだ。
白いベンチコートの指先から伸びるのは、さっき見たリード。
そのリードの先には青いチェックの何か。
大型犬なのに服を着せているのか。
あ、雪だからレインコートかな。
そう思ってよくよく見ると、リードの先には男性の頭。
頭?
自分の見たものが信じられなくて、私は固まった。
いや、頭は青いレインコートから出ていて、首元にはリードが付いている。
リード?
青いチェックの服を着た男の人は、素足で美人さんの前に跪いていた。
従属の姿勢のまま、美人さんを見上げて「くうん」と鳴いた。
美人さんは、「いい子ね」と言ってから、ベンチコートのポケットから小さなボールを取り出すと、雪の上に何個か投げた。
それは雪の上にぼそぼそと音を立てて落ちた。
美人さんは汚らわしいものを見たかのように、眉を寄せると、
「雪の上だと、チョコレートは目立つわね」
すっと指を男の人から、雪の上の焦茶色の塊へと順に指差して、
「早くお食べ」
歌うように、笑うように、命令を下した。
すると、男の人はためらうことなく雪に顔を埋めた。
「おいしい?バレンタインチョコよ」
男の人は、雪に埋めた顔を勢いよく上げると、嬉しそうに、
「わん!」
と、大きな声で、鳴いた。
私は音を立てないように、ゆっくりと2人に見つからないように公園の出入り口へと踵をかえした。