プロローグー2・月明かりに見放された存在
「えっ、男……? あ、いや……ごめんなさい……」
後ろに立っていた二人の男性のうち、声をかけてきたチャラい印象の金髪の男が、うろたえたように隣にいる黒髪で眼鏡をかけた、きっちりした雰囲気の男と顔を見合わせた。
その反応は、まるで予想外の展開に戸惑っているようだった。
「見た目はともかく、男ですよ。記憶がなくても、それくらいは今、自分で把握できます」
少年Aは、自分の体をペタペタと触れながら言った。
記憶は曖昧でも、自分の身体の感覚から、“自分が男である”ということは確かに分かる。
「いや、それはすまない。君の肌は綺麗だし、髪もふんわりしていた。
それに、控えめだが香水のような香りもしたので……私も女性かと勘違いしてしまった」
理知的な印象を持つ黒髪眼鏡の男性が、落ち着いた口調で言った。
その言葉を受け、少年Aは思わず鼻を近づけて自分の体の匂いに意識を向ける。
(……確かに、優しくて甘い匂いがする)
どこか懐かしさすら覚える香りが、風に乗ってかすかに鼻をかすめる。
そういえば、ここに来る途中にも「なんかいい匂いがするな」と思った記憶がある。
けれど、それが自分自身から発されているとは思いもしなかった。
「す、すいません……自分でも今の状態に気づいていませんでした。なにせ……」
と、そこまで言いかけて、言葉が止まる。
――記憶喪失だということを、この二人に話していいのだろうか?
一瞬、躊躇が頭をよぎる。
だが、その逡巡を見透かしたかのように、金髪の男が先に口を開いた。
「記憶喪失、なんでしょ?」
「えっ? なんでそれを……」
突然核心を突かれ少年Aは驚きの声を上げた。
軽い口調のわりに彼の言葉は鋭く的を射ている。
「いや、さっき自分で言ってたじゃん? ……まあ、仮に言ってなくても、僕たちは知ってたよ」
にこりと笑う彼の表情には、どこか余裕があった。
まるで最初からすべてお見通しだったかのように。
「な、なんでですか……?」
少年Aの問いかけに対し、彼は少しだけ真剣な顔に戻り言葉を続ける。
「君の記憶喪失の“原因”に、僕たちは心当たりがあるんだよ。
だから、その話をしたいんだけど……ほら、初対面の男二人に“ついてきて”って言われても、さすがに警戒するよね?」
その言葉に、少年Aは小さくうなずいた。
確かに、いきなりそんなことを言われて、はいそうですかとついて行くほど無防備ではない……はずだった。
「あ、はい。まあ……」
曖昧な返事をしつつも、彼の言葉に含まれる“核心”が気になって仕方なかった。
記憶喪失の自分にとって、「自分に関係のある情報」は喉から手が出るほど欲しい。
だが、警戒心もまた確かに残っている。
「とはいえ、記憶のない君には“何が正しくて何が危険か”の判断がつかないだろうから……この場で、ちょっとした証拠を見せるよ」
「証拠……?」
その言葉に、少年Aの体がわずかに前のめりになった。
何よりも今、自分が欲しているのは――自分の状況を理解するための“手がかり”だった。
「うん。あの坂の上までで良いからちょっとついてきて」
金髪の男に促されるまま、少年Aは二人の後を追った。
坂道を登ると、冷たい夜風が頬をかすめた。
空はすでに暗くなっており、満月が地上を静かに照らしている。
ふと目をやると、広がる公園の一角に何人かの人影が見えた。
彼らは円になって談笑しているように見える。
「じゃ、よく見ててね」
軽く笑うように言うと、金髪の男は人影の一人に向かって――いきなり拳を振り上げ、殴りかかった。
「えっ!? ちょっ、待っ――」
少年Aが慌てて声を上げたときには、すでに拳が相手に届く寸前だった。
だが――その拳は、信じられないことに空を切った。
まるで霧を突き抜けるかのように、拳はその人物の体をすり抜けていく。
しかも殴られたはずの相手は、まるで何も感じていないようだった。
反応どころか、振り返ることすらしない。
「な、なんで……」
少年Aは、言葉を失った。
理解が追いつかない――いや、それ以前に、現実そのものを拒絶したくなるような光景だった。
「これが、今の君や僕たちの“状況”。
ある存在のせいで僕たちは月から見放されているんだよ」
金髪の男が静かにそう言った瞬間、その言葉が少年Aの胸に深く突き刺さった。
――“月から見放されている”。
重く、冷たい現実が突きつけられた気がした。
少年Aはその後、自分自身でも同じように試してみた。
近くにいた人に触れようと手を伸ばす。だが――やはり、何も感じなかった。
誰にも触れられず、誰からも気づかれない。
月明かりの下では、まるで“自分たち”が存在していないかのようだった。
「……分かりました。お二人についていきます」
静かに、だがはっきりと、少年Aはそう言った。
そして、深く頭を下げた。
その背に、夜風がそっと吹き抜けていった。




