ネロ
あの日は大寒で、今年一番の寒さだと、朝から気象予報士がテレビでしきりに言っていた。
花子は冬が大の苦手だった。
日曜日だというのにコタツから出ようともせず、友達の誘いも断り、朝から日がな一日過ごしていた。
すると、自宅に一本の電話がかかってきた。台所で洗い物をしていたチャ子が急いで電話に出ると、驚いた表情で壁に向かって何度も頭を下げ、謝罪していた。
その様子から、電話の主が誰であるのか、花子は大体の検討がついていた。
嫌な予感がした花子は、コタツから上半身だけを出し、いつでも逃げられる体制を整えていた。すると、電話を切ったチャ子が、花子の側へ、ゆっくりと睨みながら近づいて来た。逃走体制をとっていたにもかかわらず、チャ子の全身から溢れ出る威圧感が、花子の体の動きを封じた。
「あんた、今日、なんか予定あったんと、ちゃうの?」
しまった!ばれた!と、焦った花子は、とっさに見え透いた嘘をついた。
「あのなぁ、最近うちなぁ、頭が忘れんねぇん!」
花子の意味不明な返答が、チャ子の憤激に油を注ぎ、大惨事となった。
逆上したチャ子は、コタツに入っている花子を憩いよく引きずり出した。
花子たち家族は、社宅に住んでおり、一階が政夫の職場、二階が住居と、会議室になっていた。会議室といっても名ばかりで、使う事は殆どなく、春になると観桜、夏は花火と、四季を堪能出来る、癒しの空間となっていた。何よりそこには、フランダースの犬に出てくるルーベンスの絵に似た、絵画が飾られてあった。
花子は優しいその絵が大好きだった。チャ子に叱られる度、その前に寝転がり会議用においてある、ふかふかの座布団を二つ折りにし、「パトラッシュ・・」と、可哀想なネロになりきり自分を慰めていた。
かかってきた一本の電話に激怒したチャ子は、例外なく花子を暖房設備もない会議室へと放り込んだあと、住居に戻り鍵をかけた。
いくら会議室が好きとはいえ、寒さが苦手な花子にとって、大寒の会議室は獄門島となる。この日、花子はそろばんの検定試験だった。
3級の検定に8回も落ち続け、いい加減、嫌気がさしていた花子は受験を放棄した。
チャ子がひたすら謝っていた電話の相手はそろばん塾の先生で、花子が来ていない事を心配して連絡してきたのだ。
しかし、花子の家から受験会場は車で30分はかかった。どんなに急いでも試験開始時間に間に合わないと判断したチャ子は、先生に謝罪し棄権する事にしたのだ。
冬でなければ、これ幸いと遊びに行くところだが、なにしろ大寒だ。外は辺りが見えないほど吹雪いている。
「八方さいだ」花子は呟いた。
おそらく、八方ふさがりと言いたかったのだろう。花子は根っからのお馬鹿なのだ。
機密性のない会議室の窓からは冷たい風が静かに入ってくる。
極寒の中、花子は後悔していた。こんな事になるのなら、まだ暖かい試験会場でそろばんの珠を適当に弾いていた方がマシだったと心の底から後悔したのだ。
花子は学習能力が全くない子供だった。
しかし、済んでしまった事は仕方がない。とにかく暖を取らねば!そう思った花子は慌てて押し入れを開けた。すると、そこには硬くて四角い座布団、四枚と、花子がパトラッシュと名付けた、ふかふかの座布団が一枚入っていた。花子は急いでそれらを出し、壁にもたれながら硬い方の座布団を三枚周りに立て、最後の一枚を屋根代わりにした。
追い込まれると、気の利いた知恵が出るところも花子の特徴だった。
そして、パトラッシュを抱き、その中で横になった。
暖かかった。
交感神経と副交感神経が逆転した花子は急に眠くなった。
「パトラッシュ、疲れたやろぉ?私も疲れたわぁ。なんや眠たなってきた。パトラッシュ・・」
芝居染みたところのある花子は、ネロになりきり本当に眠ってしまった。
どのくらいの時間が経ったのだろう。会議室のテレビから流れる笑点の曲で目が覚めた。と、同時に会議室のドアが開く音がして、慌てたチャ子が花子の周りに立ててあった硬い方の座布団を倒して花子を揺さぶった。
「花ちゃん!大丈夫か!寒かったやろぉ、お家に行ってミルクティー飲もうな、かわいそうに、こんなに冷たなって!」
チャ子が花子を、ちゃん。を、付けて呼ぶときは、大抵、分が悪いときだ。
しかし、チャ子の凄いところは、それでも決して謝らない。
プライドは、人一倍高いのだ。
チャ子は台所の椅子に冷え切った花子を座らせ、ストーブを横に置いた。
そして、手際よく鍋に牛乳と、普段は絶対に飲ませてくれない高級な紅茶とハチミツを入れ、ミルクティーを作って花子に手渡した。
ガラス窓は白く結露して、涙のように水滴が次々と下へと落ちていた。
「ほれ、飲み。体あったまるで。寒かったなぁ、なぁ」
激怒して会議室に放り込んだチャ子と、今、目の前で微笑むチャ子が、とても同じ人物とは思えないと花子は思った。
しかし、またここで花子の悪い癖が出てしまった。
下手に出るチャ子に気を良くした花子は、強い口調でこう言った。
「こういうのを、世間ではDVとか幼児虐待って言うのやで!」
ご多分に漏れず、ゲンコツをくらった花子は、その衝撃でミルクティーを床にこぼし、再びチャ子に叱られた。
チャ子は、やはりチャ子だったのだ。反省はしても、信念を曲げない。それがチャ子なのだ。
そして、静かにチャ子が言った。
「そこに愛があったら虐待とは言わんのや」そう言い放った後、大好きな島倉千代子の「東京だよ、おっかさん」を歌いながら、台所に立った。
鼻歌を歌い、締め出した事など、気にする様子や反省の色など全くないチャ子の背中を眺めながら花子は改めて思った。
恐るべし、チャ子。
そう呟いた花子は、ゲンコツされた頭を撫でながら、こぼしてしまった生温いミルクティーを雑巾で拭いた。