消えた宝物
四年生の頃、低学年と高学年の中間でギャングエイジの私は相変わらずのスタンスで日々、過ごしていた。学生には、一年間に長い休みが幾度となくある。その中で最も子供達が楽しみにしているが夏休みで、もちろん花子自身も、その、ロングバケーション待ちわびていた。
夏は子供だけではなく、大人も開放的になり、えも言われぬ、ワクワク感がある。
中でも、花子が一番楽しみにしていたのが、児童会主催の宝探し大会である。
児童はもちろん、保護者や教師も一丸となり盛り上げる最も大きな催し物だった。
夜の七時に開始の花火が上がり、開催地である地元で一番大きな公園に大勢の人が集まる。普段は静かな公園も、その日だけは、銀座の賑わいとなるのだ。
宝探し当日の花子といえば、朝から浮き足立ち、心ここに有らずという感じで宿題もろくすっぽせずチャコに叱られていた。ゲンコツの嵐を食らっているにもかかわらず、嬉しさと、楽しみが先に立ち、チャ子の苛立ちもどこ吹く風と能天気に浮かれ再びゲンコツを喰らうという、負のスパイラルが夜7時まで続くというのが毎年恒例となっていた。
そうこうしているうちに、待ちわびていた開始の合図となる花火が上がった。その瞬間、花子は勢いよく玄関を飛び出して行った。
花子の家から公園は目と鼻の先にあったが、変出者が出るという噂もあった為、とりわけ女子児童は遊びに行くことを固く禁じられていた。
その反動なのか、花子は久し振りに入る公園に引き寄せられる様に突っ走って行った。
公園の広場に着くと既に沢山の子供達が集まっていた。その光景に花子の胸は踊った。
それも束の間、花子は大きなミスに気づいてしまった。なんと、夜の宝探しには不可欠な懐中電灯を忘れてしまったのだ。
開始、十分前という微妙な時間に気付く所が、花子の持って生まれた詰めの甘さだった。
しかし、花子は躊躇する事なく自宅へと猛スピードで走り出し、上がって来た公園の急な坂道を駆け下りた。
その途中、突然、花子の体がフワッと宙に舞い上がったかと思うと、勢いよく顔面から着地した。しかも、凄まじい音と共に。
その音に驚いた大人達が、倒れて動かない花子の元へ大勢駆け寄って来た。
坂には、車が入れない様に鎖が張ってあったのだが、錆びて黒くなっていた。それが、夜になると見えなくなるから危険だ。と、町内会の話題になっていた。
まんまと花子は、その犠牲者第1号となってしまったのだ。
そのうえ、4年生の平均体重よりも痩せていた花子は、かなりの高さまで浮いた後、飛距離を伸ばして落ちたのだ。その一部始終みていた父兄がチャ子に言っていた。
けれど、その時の花子は恥ずかしさの方が先に立ち、顔面血だらけで家の方へと逃げるように走って行った。
それは、まるで恐怖漫画に出てくるような形相だ。
息も絶え絶え、家に着いた花子は真っ先にチャコのいる台所へと向かった。
花子が泣きながらチャコの前に立った時には、エチオピアのムルシ族の様なファッショナブルな顔面になっていた。
恐らく走っているうちに血と涙と汗が混ざり、図らずも顔面アートとなったのだろう。
そんな花子を見たチャコは驚愕し、手に持っていたお気に入りの絵皿を落として割った。
しかし、そこはやはり母親である。歯が折れて出血したのだと瞬時に察知したチャ子は、花子を抱え、近所の歯科医院の玄関を何度も強く叩きながら叫んだ。
無論、とっくに閉院していたが、響き渡るチャコの雄叫びに、母屋で休んでいた老医が慌てた様子で、玄関の電気を付け、出てくれた。
チャコは、診療拒否をされまいと、花子を抱えたまま足先でドアを止め、半ば強引に病院の中へと入り込んだ。老医は一瞬面倒な表情を浮かべたが血まみれの花子を見ると、すぐに診察室へと入れてくれた。
老医は花子を椅子に座らせると、まずはガーゼで口の周りの血を拭いた後、口を大きく開けるように言った。
ところが、老医は嘆息をつき静かにこう言った。
「残念です」そう言って再び大きなため息をついた。
残念です。ハァー(ため息)」が、即座には理解出来ず、心細い声でチャコが尋ねた。
「先生、残念ってなんですの?」チャコが老医に尋ねると、花子も不安気に老医を見つめた。
すると、老医は古びた椅子に腰掛け、治療する術もないという面持ちでやんわりと言った。
「前歯がねぇ、生きて無いんですわぁ」
前歯が生きていない。
どういう事だ?チャコと花子は顔を見合わせた。
「生きて無いとは?」再びチャコが尋ねた。
すると老医もまた神妙な面持ちで答えた。
「要するに、永久歯やった前歯が二本とも根こそぎ無いのです」
根こそぎ。
その言葉に花子は聞き覚えがあった。
以前、祖父の隆二と草刈りをしていた時のことだ。 草を全て刈り終えた後、「モウハエテコナーズ」とプリントされた袋を、隆二が納屋から持ってきた。毒々しい色をしたその袋は、いかにもといった感じで、少々、慄いた花子は隆二に尋ねた。
「じいちゃん、この派手な袋、何なん?」
すると、隆二はわざと不敵な笑みを浮かべてこう言った。
「あのなぁ、これはなぁ、それは、それは恐ろしい毒なんやでぇ。この粉を一度巻くとなぁ、未来永劫、草は生えてこんのやぁ。未来永劫やでぇ」祖父はそう言って花子を怖がらせた。
「じいちゃん、未来永劫ってなんやねぇん?」花子は恐る恐る聞いた。
「未来永劫ってなぁ、一生ってことなのやぁ。この粉を撒くと、草は根こそぎ死んでまうねんでぇ。恐いでぇ。根こそぎやでぇ!せぇやから、子供の花子は勝手に触ったらあかんでぇ。えぇか?」
「分かった。根こそぎは恐いから触らへぇん」
根こそぎ=未来永劫。花子は理解した。
隆二は身震いをして怖がる花子の頭を「よしよし」と撫でて笑顔になった。
その時、隆二が言った根こそぎの恐ろしさを花子は忘れてはいなかったのだ。
無機質な診療室で、老医の口から出た「根こそぎ」は、花子の頭を真っ白にした。
チャコもまた、途方に暮れた表情をしていた。が、突然、老医の服を掴んだチャコが叫んだ。
「先生!この子は腐っても女の子ですねぇん!前歯が無いと嫁にも行けませんわ!なんとかして下さい!お願いします!お願いします!」
チャ子は興奮し、老医の胸ぐらを掴み、前後に揺らした。
「くっ、くっ、苦しい」老医のなんとも苦しそうな表情に我に返ったチャ子は、老医にひたすら謝った。
すると老医は、助かったぁ。と、いう表情でチャ子に言った。
「あのねぇ、お母さん。あんたがそんな不安な顔をしていたら、お嬢ちゃんが余計不安になるでしょう?心配いりませんよ。今は昔と違って技術も良いし、本物の歯みたいな差し歯かて、あります。安心しなさい」
老医の言葉に、全身から力が抜けたチャコと花子は一気に表情が穏やかになった。
「ただなぁ、今すぐにという訳にはいかんのや」
ホッとしたのも束の間、チャコと花子に再び緊張が走った。
「なんで、今すぐじゃあダメなんですか!?」
焦燥感に駆られているチャ子に、老医は渋い顔でこう言った。
「いかんせん、まだ子供やしねぇ、これから歯茎かて、まだまだ成長するし。でもねぇ、高校生に上がる時には成長も止まるから、そのタイミングで差し歯を入れたらえぇですわぁ」
「じゃあ先生、それまで、この子は、歯抜け状態や無いですか!」
チャコが強い口調で言い返すと、老医は慌てて弁解した。
「いやいや、それまでは入れ歯で凌げばえぇんですよっ!」
「入れ歯?」
思わず花子は呟いた。
「まぁ、入れ歯と言っても、となりの歯に金具で引っ掛けるだけのもんやし、いっときは、それで辛抱して、高校生になる時、お母ちゃんに、ごっつい、えぇ歯を入れて貰おうなぁ。それまでのお楽しみやでぇ!」苦し紛れに笑いながら花子にそう言った老医の顔は、引きつっていた。
入れ歯。
絶望感で花子は泣く事すら出来なかった。
あの時、懐中電灯さえ忘れなければ、あの時、あんなに走らなければ、あの時あの時。 花子の頭の中は後悔という渦がグルグル回って止まる事を知らなかった。
チャ子と花子が病院を出た頃には、既に宝探しも終わり、誰も歩いていない真っ暗な道を二人、肩を落としながらへたへたと歩いていた。
すると、前方から声がした。
「おーい!花子ぉ!」
中年の男が、点滅している電柱の下で手を振っていた。
花子は、その声の主の方向に目やると、酒に酔った政夫が立っていた。
政夫は、昭和の酔っ払いの代名詞のように、右手に寿司折を持ち、上機嫌で足元も覚束ない感じだった。
花子とチャ子は政夫に駆け寄った。
寄ったはいいが、政夫の半径一mは、アルコール臭のバリアが張られ、近寄る事が出来なかった。
花子は思わず「くしゃ!(臭)」と言った。
「花子、なんや喋り方がおかしないかぁ?」
妙な喋り方に違和感を持った政夫が花子に聞いた。すると、激高したチャ子が町内中、響き渡るような声で政夫を怒鳴った。
「あんた!何を能天気にっ!宝探しに行って花子の前歯がのぉなったんやで!高校生になるまで、この子は入れ歯や!入れ歯やで!女の子が!入れ歯やで!」チャコは、入れ歯を連呼し、一人で抱え込んでいたものを一気に吐き出した。
「花子、あーんしてみぃ」
政夫が言うと、花子が言われた通り口を大きく開けた。 すると、政夫は突然笑い出した。
「花子お前、宝探しに行って宝を落としてきたんか!」
それを聞いて花子は、「落語の落ちみたいや」と、感服した。
が、その瞬間チャ子は政夫の手にぶら下がった寿司折をぶん取り、顔面に投げつけた。
おそらく、事態の重要性も理解せず、政夫の呑気な言動に腹が立ったのだろう。
寿さチャ子に投げつけられた寿司折は政夫の頭に当たると空中分解して落ちた。そして、政夫ご自慢の角刈りには、タコの寿司ネタがのっていた。偶然とはいえ、政夫の頭にタコがのった事が滑稽で、花子は前歯の事など、どうでもよくなっていた。
花子がふと、街灯の下を見ると、マグロやアジ、うなぎにウニ、銀色に光ったシャリがキラキラ光りながら散乱していた。
それを見て、花子は、前歯を失くしたことより、高級寿司を食べられなかった事の方が無念でならなかった。
花子が前歯を無くした一週間後、高校生になるまでの6年間を共にする入れ歯が出来上がってきた。 生まれて初めての入れ歯に違和感はあったものの、歯抜けがばれて、男子からいじられる辛さを考えると、入れ歯の不快感など、たいした事ではないと花子は思った。
確かに、老医が言うように大きく口を開けなければ、銀色の金具は見えない。その日から花子は上唇を前歯に被せながら笑うようになった。
すると男子は妙な笑い方をする花子に「の〜女」とあだ名をつけた。なぜなら、「のー」と伸ばす感じに似ているとからだと馬鹿な男子が言っていた。
どの道、笑われるのなら、その方がマシだと花子は思い、馬鹿な男子の、あし様に言う事にも耐えた。
ちょうど六年後、政夫の転勤が決まり花子達家族は富山に引っ越す事になった。
片付けが一段落したチャ子は、早速、近所に引っ越しの挨拶がてら、富山で一番はやっている、デンタルクリニックを聞いて回った。
すると病院のリサーチが趣味という町内会長の奥さんから、界隈で一番腕が良いと評判のクリニックを紹介して貰える事になった。
町内会長の奥さんと、クリニックの院長夫人がゴルフ仲間という事もあり、すぐに連絡を入れてくれた。本来なら一ヶ月先の予約をチャ子がお礼にと持って行った、高級菓子とワインに気を良くした町内会長の奥さんが、ごぼう抜きで診てくれる様院長夫人に頼んでくれたのだ。
その上、チャ子は夫人に渡す為、関西で有名な高級和菓子を愛子に頼んで送って貰っていた。
花子には、ただの饅頭にしか見えなかったが、箱の上に皇室献上菓子と明記してあるだけで、大人からすれば、それは特別な饅頭になるらしい。
大人は、中身より肩書きの方が好物なのだ。
高校生になった花子は、これが忖度か。と、少し嫌な気持ちになり、それ以来、花子はそれを、忖度まんじゅうと呼ぶ様になった。
しかし、そうも言っていられない。兎にも角にも、入学式までにこの前歯をなんとかしなくては、自分の甘酸っぱい高校生活が台無しになってしまう。
饅頭くらいで、まともな高校生活が送れるのなら、忖度。も、それはそれで、ありなのだ!と、花子は自分に言い聞かせた。
待ちに待った受診日の朝、花子は前歯を失った6年間を思うと感慨深いものがあった。
思い起こせば、失ってしまった前歯のお陰で花子の人生はずさんだった。
一番辛かったのは、国語の授業で本読みをした時の事だ。
さしすせそ、の、す、の発音の時に緩くなっていた入れ歯が友達の後頭部を直撃した。
更に運の悪い事に、その子は学童野球をしていて坊主頭だった為、カバー力の無い彼の後頭部が切れて出血したのだ。
そのとき花子は、何が凶器になるか分からないと怯えた事をはっきりとを覚えている。
そして、当然、花子は男子達の格好の餌食となった。
次に忘れられないのは、六年生のスキー合宿での出来事だ。寝る時は飲み込む危険性があるから、入れ歯は外すようにと老医から言われていた。が、一目を気にした花子は、外す事を躊躇し、一睡も出来ず寝不足となった。
お陰で翌日のスキー遊びでリフトに乗りながら爆睡してしまった花子は、降りるタイミングを逃し、友達やスキー客に笑われながら一周する事を余儀なくされた。
おそらく運動神経の悪かった花子は、スキー板を履いたまま降りる事が出来なかったのだと誤解されたのだろう。入れ歯にまつわる辛酸は言い出したらきりが無い。それも、今日で全て報われる!生きていて良かった!と、高校生となった花子は車窓から咲きそうで咲かない、じれったい桜を万感の思いで見ていた。
自宅から車で10分ほど走ると、その歯科医院はあった。何とも小洒落た外観の歯科医院はまるでディズニーランドの様で花子は高揚した。
白い外観、大きな噴水、エントランスには色とりどりの花が並んでおり、花子はお城に連れて来られたシンデレラの様な気分になっていた。
チャコと、その歯科医院を入って行った花子は、待合室で待つ患者を尻目に、すぐさま診察室に案内された。
先から待っている患者達は、えっ?という表情をしていて、花子は申し訳ない気持ちになったが、ごめんなさい!と心の中で何度も繰り返しながら、丁重に案内する看護師の後ろをおずおずとついて行った。
診察室に入った花子は、6年前、チャ子に抱えられ運び込まれた、あの老医の無機質で古びた病院との違いに驚いた。さすが人気歯科医院だと感心した。おそらく院長夫人の趣味なのだろう、診察室は、高価な胡蝶蘭で埋め尽くされ、BGMは鳥のさえずりが心地よかった。
リアル森林浴だ。
花子の自律神経は見事に副交感が優位になっていた。
クッション性の高いユニットはまるでトトロのお腹にのっているようだと花子は思った。
すると、シルバーグレーの草刈正雄似の院長が花子の横に腰掛けた。
これもまた、あの老医とは雲泥の差だった。
そして、森本レオのような、透き通った声で院長が花子に言った。
「花子ちゃん、はじめまして。院長の低津です。前歯がなくて辛かったね、よく我慢しましたね」
院長の言葉に、やっと暗くて長かったトンネルを抜け出す事が出来る!と、心の中で叫びながら、花子は年の離れた院長を乙女の眼差しで見つめた。
そして、言われた通り大きく口を開けた。
ところが、洞察力の高い花子は一瞬だが院長の眉間にしわが寄り、困惑した表情を見逃さなかった。思わず花子は不安気に院長を見上げた。
「ちょっと、お母さんに入って貰って」
院長に、そう言われた看護師は、急いでチャ子を呼びに行った。
おいおい、この期に及んで、まだ何か問題か?花子は心の中でそう叫び、不安で頭がクラクラしていた。
看護師に呼ばれ、澄ま仕込んで診察室に入って来たチャ子は、体を傾げ、院長に頭を下げた。
ところが、院長は少しばかり強い口調でチャ子に、こう言った。
「お母さん。どうしてもっと早くお嬢さんに差し歯を入れてあげなかったのですか?」
どうして?
その言葉の意味が さすがのチャコにも理解出来なかったようで、眉間にしわを寄せていた。
韓国ドラマにありがちな、病気になったヒロインの親が医者から言われる「もっと早く来てくれたら助かったかもしれないのに、どうして!」
花子は、それに似ていると思い、心中穏やかではなかった。
すると、チャ子が突然、ネイティブな関西弁で院長に捲し立てた。
「どうもこうもありますかいな!この子が、6年前に前歯を折った時に診てくれはった医者が、成長が止まる高校生くらいに差し歯にせぇ言うたから、それを信じて、うちらも我慢したんやないですか!それは、私のせいやと言いはるんですか!?」
やってしまった!花子は心の中で呟いた。
上品という鎧が取れ、完全に本来のチャ子が剥き出しになってしまった。
チャ子の形相に慄いた院長は慌てて折り返した。
「お母さん、言い過ぎました。しかし、最近のお子さんは成長が早いのです。ですからあと一年ほど早ければ、なんとかなったのですが」そう言って、院長はお茶を濁した。
周りにいた看護師も「うんうん」と、うなずいていた。
しかし、チャ子はおさまらない気持ちを更に院長にぶつけた。
「先生!どない、したらえぇんですか!?」
ネイティブな関西弁のチャ子に北陸育ちの、はんなりと上品な院長は一瞬怯んだが、そこはやはりプロである。今度は、毅然とした態度で説明を始めた。
「結論から申しますと、花子ちゃんの前歯が入るスペースは一本だけです!」
一本だけ。
花子は、院長の言葉が、なぜだか、遠くに聞こえた。
そして、チャ子もまた、理解に出来ず、しばらくは茫然自失となっていた。
側にいた若い看護師は肩を震わせ、笑いたい気持ちを必死に堪えているようだった。
花子は逃げ出したかった。そして、今すぐにでも、アメリカに行きたいと思った。アメリカに行って最新の治療で前歯を二本にしてほしいと思った。なぜ、アメリカなのか花子も分からなかったが、その時は、とにかくアメリカだった。
お金に糸目はつけず、保険適応外の高級な差し歯を入れてやると言ったチャ子の言葉を信じて、ひたすら入れ歯で堪えた花子の辛抱が、一瞬にして水の泡となった。
けれど、花子は諦めるわけにはいかなかった。
他にも何か良い方法があるかもしれない。そう思った花子は意を決し、院長に聞いてみた。
「先生、他に方法はないですか?前歯はやっぱり二本が普通やし、一本はちょっと」
「そうだよね。我慢してきた花子ちゃんにしてみたら辛いよね。強いて言えば」
「強いて言えば?」花子は恐る恐る聞き返した。
「強いて言えば、一本の所に細い歯を二本入れる事くらいかな」
笑顔を取り繕う院長の言葉に、若い看護師が堰を切ったように笑い出した。それにつられて、他の看護師や患者までもが笑い出した。
花子は、言葉を失った。そして、今度はドイツに行きたいと思った。なぜ、ドイツか分からないが、ドイツに行ってまで、前歯を二本にしたかった。
けれど花子は、突きつけられた残酷な現実を、真摯に受け止めようと思った。受け止めた上で再度、尋ねた。
「先生、細い歯を二本入れると、ねずみ男みたいになりますよね?」
そして、我慢しきれんとばかり、そこにいた全員に笑われた。
「そうだね、違和感があるね。だったら、一本の方が目立たないと僕は思うな」
なだめる様に、そう言った、草刈正雄は最後までやさしく、そして真摯だった。
花子は院長に、すべてを任せようと思い、その意を伝えた。すると、院長は、花子の青春を守る為に頑張ると言ってくれた。
一通りの治療を済ませ、花子とチャ子が帰路に就いた頃には、街灯が灯り、空には一番星が輝いていた。その星を見て花子は思った。今日、起こった出来事が、例え最悪でも、昨日よりマシで、明日も少しだけマシであったなら、それでいい。
そう自分に言い聞かせて花子は溢れ出る涙と一本しかない仮の歯を見せながら無理やり口角を上げた。
花子は、どこまでも花子で、どこまでもポジティブだった。
前歯は一本になってしまったが、チャ子が自分だけの為に時間をさいてくれた事に感謝しようと思った。
だが、そんな花子の思いもむなしく、チャ子が嬉しそうに呟いた。
「前歯一本分、儲けたわぁ」
それを聞いて、花子は、どこかホッとしていた。
なぜなら、チャ子が自分の為だけに裂いた時間が、花子には、どこか不慣れで、こそばゆかったからだ。チャ子と花子の関係は、いつもの距離感でバランスがとれている。
なぜなら、それがチャ子なのだから