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地獄の1丁目

花子も5歳になり、生まれてはじめて親からの独立を虐げられる事になった。


 その事をチャ子に宣告された花子は心が萎えた。


 なぜなら、花子にとってそれは、自由を奪われる事だと分かっていたからだ。


 とは言っても、ほんの数時間保育園に行くだけなのだが、花子にとって、そこは、享楽する、お花畑ではないのだ。


 花子が三歳の時、チャ子に連れられ、二歳離れた姉、恵子の保育園へ迎えに行った時の事だ。恵子とそのクラスの子供達が12月の発表会に向け、お遊戯の練習をなかば強制的にさせられていた。

クラスには30名程の子供がいて、そこには、要領が良い子、不器用で先生に叱られてばかりいる子、そして、花子の記憶の中で鮮明に残っていたのが、練習に行き詰まり、泣きながら部屋から脱走した一人の男子児童だった。


 その、男子児童に引きずられるかのように、我慢をしながら踊らされていた他の児童達も、堰を切ったように続々と部屋を飛び出して行った。


 その上、担任までも、脱走した児童達を追って行ったものだから、そのクラスには呆気にとられている数名の児童だけしか残っていなかった。 


 抜け殻となったその教室は、花子からしたら、突如、現れた広い草原のように思え、清々しくさえ感じた。


 それも束の間、花子は教室に残っている児童の中に、姉の恵子がいない事に気付いて驚いた。


 そうなのだ、集団脱走団の中に姉の恵子も入っていた。


 不満を口にせず、迎えに来る保育園のバスに毎日乗って行く姉を、花子は偉いと思っていた。


 しかし、生気のない顔で、お迎えのバスに乗り、決められた席にやんわりと座る姉を見ながら花子は愛ちゃんが読み聞かせてくれた日本昔話を思い出していた。


 その話は、幼い花子には強烈な内容だった。


 首に巻かれた縄を、鬼に引っ張られながら三途の川を渡り、閻魔大王の所まで連れて行かれ極楽と地獄に選別されるという話だった。


 バスに座っている恵子の顔は、閻魔大王に裁かれる前の、死人のような表情に似ていた。


 だから、花子は、先生という鬼から一心不乱に逃げて行った姉を思って正直ホッとしていた。


 何故なら姉は生きた人間だったのだと実感したからだ。


 花子は何気なく、クラス入り口の、古びた引き戸に目をやると、そこにはプラスチックで出来た細長いプレートが、これ見よがしに突き刺さっていた。


 そして、しっかりとした太い字で花組と書かれてあった。


 おそらく園長先生が書いたのだろう。その字の横にいかにも先生が描きそうな向日葵のイラストが添えられていた。


 それを見た花子は、泣きながら集団で逃げて行った児童達が、つい今しがたまでいた、このクラスを、もはや向日葵が咲き乱れるお花畑ではないと思い、部屋を見渡していた。


 それなのに、何故、そのプレートに花組と書かれてあるのか、花子は不思議でしょうがなかった。


 しばらくすると、担任をはじめ、園長、副園長といった幹部達が逃げ出した児童を一人残らず連れて戻り、教室に入れた後、入り口のドアを勢い良くピシャリと閉めた。


 花子は、ドアを勢い良く閉めた園長が閻魔大王、他の先生達が手下の鬼達に見え、背筋が凍った。


 そう感じた瞬間、気づくと花子はチャコの腕にしがみついていた。


 我に帰った花子が教室を見ると、捕まった児童達は、全員、項垂れ、観念していた。


 その中に恵子の姿もあり、何もしてやれない自分の無力さに花子は涙が溢れて止まらなかった。


 脱走した児童達は園長から少し説教をされた後、優しい笑顔で励まされ、あぁ、これが俗に言う飴と鞭か。と、花子は痛切に感じていた。


 とは言え、大人になるまでの過程で学びと経験は必須で、まずは、義務教育に入る前の地ならしを、保育園でしなければならない事くらい、幼い花子にも分かっていた。


 言うなれば、保育園こそが人間関係を一番養える場なのかもしれない。


 けれど、いかんせん、必死で鬼から逃げ出す児童達の地獄絵図のような光景が、花子の脳裏から離れずにいた。


 そこで花子はまずは軽くチャ子に提案してみた。


 「あのな、保育園行かんでも、花ちゃんは小学校行けると思うねぇんけど」


 すると、チャ子もまた、鬼の形相でこう言った。


 「何言うてんの!あんたはアホなんやさかい、アホはアホらしくアホなりに言う事聞いて保育園に行ったらえぇのや、人並み以下なんやさかい!そしたらみんなと一緒に小学校に行けるのやで。保育園に行かんと小学校なんか行ってみ、そんなもん、赤ちゃんを東大に放り込むみたいなもんやで!」


 チャ子は捲し立てる様に言ったのだ。


 花子は、チャを天才だと思った。


 こんな長い説教の中、アホという不快な言語を四個も入れておきながら、それでいて説得力があり腹が立たない。


 辛辣な言葉を浴びせられたにもかかわらず、花子はチャ子を尊敬の眼差しで見ていた。


 言う甲斐なし。


 悟ったチャ子は「あんたを、これからどうやって育てよう」そう呟き、深いため息をついた。




 あの脱走事件から二年が経ち、とうとう花子も閻魔大王と鬼が待つ地獄へと連れて行かれる日がやって来た。


 その日までに、几帳面なチャ子は、地獄へ持って行くものを準備し、名前を一つ一つ丁寧な字で書いたあと、忘れ物がないか、入念にチェックしていた。


 それは、大変、混雑で、面倒な事だが、花子から見るとチャ子は楽しんでやっている様に見え、まるで、自分が鬼に売り飛ばされる娘のような気がした。


 一日の大半、花子と過ごし、気を揉んでいたチャ子は、僅かでも自由な時間が欲しいと思っていたのだろう。鼻歌を歌いながら、楽しそうに支度をしているチャ子を見ているうちに、花子はなぜか気持ちが楽になって行った。


 こんな自分でも、人を幸せにする事が出来るのだと嬉しくなった。


 花子はどこまでもポジティブ思考だった。




 そして、とうとう地獄に行く日がやって来た。


 バスが迎えに来る時間が、刻々と迫りくる恐怖と戦いながら、チャ子に手を引かれた花子は、自宅の角を曲がってすぐの雑貨屋に着いた。


 花子は、口を一文字に固く結び、巌流島の戦いに臨む宮本武蔵のような境地になっていた。弟子を付けず、たった一人で佐々木小次郎に向かう武蔵を、政夫と大河ドラマで観ていた花子は、中々、骨のある奴だと感心していた。


 武蔵役をやった俳優が、あまりにも男前だった事も相まって、内容も鮮明に覚えていた。




 スローモーションのように迫り来る地獄行きのバスが道路にうつる花子とチャ子の影を飲み込んだ。


 勢い良く開いたバスのドアから優しい笑みを浮かべた可愛い鬼が降りてきた。


 恵子は、逸早く鬼に挨拶を済ませ、自分の席へと座った後、花子を見て、コクンと、うなずいた。


「さぁ、お前も覚悟を決めて来い!」そう言っているようだった。


 意を決し、花子は繋いでいたチャ子の手を思い切り振り払った。


 そして鬼の前に立ち、深々と頭を下げた。


 その時、花は巌流島の戦いに挑む武蔵以外の何物でもなかった。「いざ!」という気持ちでバスに乗り込んだ花子は手招きをする恵子の横にドシッと座った。


 窓から見たチャ子は、憑き物が取れたように清々しい顔をして花子に手を振っていた。


 バスに揺られ、15分程で地獄の一丁目に到着した。


 ビーッ!


 バスのドアが、なんとも耳障りな音を鳴らして開いた。


 花子には、その、ビーッ!が、この世の終わりを告げる音に聞こえて仕方がなかった。


 他の園児達は吸い込まれるように鬼が立っている玄関に入って行った。


 しかし花子はどうしても席から立つ事が出来ず、心配した恵子は花子の頭を撫でてこう言った。


 「花子、行くで!」


 「うん!」


  そう言って二人はゆっくりとバスを降りた。二人を降ろしたバスは役割を果たしたと言わんばかりに真っ黒な排気ガスをお尻から勢い良く吐き出し、去って行った。


 その時、花子はもう引き返せないのだと腹をくくり、項垂れていた顔をグッと上げた。


 が、その瞬間、花子は驚愕した。


 既に地獄の入り口では、閻魔大王が花子を待ち構えて立っている。


 早い!


 心の準備が出来てへぇん!


 心の中で、何度も、そう叫んだ花子は、気持ちより先に体が反応して思わず後ずさりをした。


 不測の事態が起きたのだ。


 花子の頭の中は、なんでやねんっ!の、渦がグルグルと回っていた。


 「何で?いきなり閻魔さんなん?心の準備が出来てへんわっ!」


 ガラガラ、ビヤーン!


 花子は自分の体と頭がバラバラになる音が聞こえた。


 すると、花子の異変に気付いた大王と手下の鬼達はジリジリと花子に近寄ってきた。


 大王の貫禄に花子の小さな体は金縛りにあった様にピクリと動かなくなり、叫ぼうにも声すら出なくなっていた。


 奇妙な笑みを浮かべ、ズンズンと近づいて来る大王と手下の鬼達は小さな花子を、みるみるうちに取り囲んだ。


 と、同時に花子の上に広がる真っ青な空が消えて無くなった。


 すると大王は、花子の目線まで腰を屈めてこう言った。


 「花子ちゃん、ようこそ地獄へ(平和保育園へ)」


 それを聞いた花子は、恐怖の余り、恥ずかしくも失禁し、気を失った。


 驚き、慌てふためく大王と家来の鬼達は、小さな花子を抱えて保健室へと走った。


 その時、花子は夢を見ていた。


 ジョンレノンとオノヨーコがベッドで戯れながら、突っ立っている花子に指を二本立て、こう言った。「


 「ラブ アンド ピース!花子!」


 痛哭した花子は二人に、「ここ、LOVEでもPEACEでもないわっ!」そう叫んでいた。


ところが、その瞬間、花子は閻魔大王に首根っこをつかまれグツグツと煮えたぎった大きな鍋に放り込まれたところで目が覚めた。


 脂汗をかき、飛び起きた花子が慌てて辺りを見回すと、そこは保健室のベッドの上だった。


 しかも、目を覚ました花子を優しく看護してくれていたのは、何を隠そう園長だった。 うなされた花子を気遣い、ずっと側にいてくれたのだ。そして、園長は優しく花子に言った。


「花子ちゃん、具合はどう?初めての登園で緊張していたのに気付かなくてごめんね」


 花子は驚いた。


 そう言って、優しく花子を見た時の園長の表情が、何かに似ていると思った。


 崇高で穏やかな、何か。


 花子は記憶をたどって、ようやく思い出した。


 家族旅行で奈良へ訪れた際の中宮寺で見た菩薩半跏像に似ている!


 花子は思わず細い目をこれでもかと見開き園長を再度見た。何回見ても、その優しく穏やかな微笑みは、子供ながらに見惚れてしまった菩薩半跏像にしか見えなかった。


 そのとき花子は思った。思い込み程怖いものはない。自分の勝手な観念で、人を、そして世の中を判断してはいけないのだと心底思った。


 しばらくすると、保育園から花子が失禁し、気を失ったと連絡を受けたチャ子が血相を変え、保健室へと入って来た。


 当然、花子は自分を心配して、駆けつけてくれたものだと思い込んでいた。


 けれど、その思い込みは、あくまでも思い込みでしかなかった。


 中に入るや否や、チャ子が花子を罵倒したのだ。


 「おもらししてからに、恥ずかしい!うちのチョン子でも、ちゃんと砂の上で用をたすのに、あんたはチョン子以下やでっ!」


 チョン子とは長年、花子の家で飼っている老いた三毛猫である。そんな老いたヨボヨボの猫ですら失禁などした事がないのにと、チャ子は心底呆れたのだろう。


 それを聞いて花子は、ハッ、とした。


 閻魔大王。


 それは、どこでもない、まさに我が家にいた事を、花子は、そのとき気付いたのだ。






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