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海苔弁から始まった

花子が短大を卒業した頃はバブル崩壊直前だったということもあり、成績も特段、良くもなかった花子だが、それなりの会社に入社出来る事になった。

 その会社は、自宅から一時間半ほど離れた場所にあった為、花子は一人暮らしを余儀なくされた。

 普段から、ずぼらな花子は朝食、昼食、夕食は全て弁当屋で買っていた。しかも、弁当屋も一つと決め、そこばかり行くものだから、その店のポイントカードはすぐにいっぱいになり、おまけに、店主からも可愛がられた。

 その店は、貞男さんと千夜子さんという老夫婦が、たった二人で切り盛りしていて、美味しいと評判だったからいつも長蛇の列が出来ていた。店名がキッチンチャコだった為、常連客からは、チャコ弁と呼ばれ親しまれていた。いつ行っても混雑していて昼食時は中々、買えない客もいた。

 けれど、花子だけは特別で、おかみさんが勝手口から手招きをして渡してくれた。

 キッチンチャコは奥さんの千夜子からとった名前で、チャ子と漢字まで同じだった。そのせいなのか、花子の人徳なのかは分からないが、余った惣菜を貰うことなどはしょっ中で、時には裏メニューまで持たせてくれた。

 花子は、いつの間にか二人を貞ちゃん、チャコちゃんと呼ぶようになり、花子もまた、花ちゃんと呼ばれ、可愛がられた。

 あの日も、花子は会社の帰りにキッチンチャコに寄った。

 相変わらず、店の前には客が列をなしていたが、花子に気がついたチャコちゃんが手招きをした。

 花子は、小さく会釈をし、いつものように勝手口にまわると、そこには一人の青年が立っていた。花子は、なんとなく距離を置いて、青年の後ろに立った。

 すると、その青年が花子に近寄ってきた。彼は、大きな瞳をこじ開けて、花子を凝視すると、

 「なぁ、花子ちゃんと違う?」

 大きな瞳の、その青年がそう言った。花子は驚いた。二十一年間、生きてきて、こんな男前に出会った記憶などなかった。もし、出会っていたら一生忘れないほどの美男子だったからだ。

 花子違いなんちゃうか?

 花子は心の中でそう呟いていた。けれど、その大きな瞳は、益々花子に迫ってきた。

 さすがの花子も緊張で体が硬くなり、息をするのも忘れるほどだった。更に顔を近づけて来る青年に、花子は海老のように反り返ったあと、仰向けに倒れてしまった。

 驚いた青年が花子に近寄ると、申し訳なさそうに花子を起こしてくれた。そして、花子の脱げた靴をとろうとした。が、その瞬間、花子は絶叫した。

 「やめて!」

 花子の絶叫に驚いたチャコちゃんが店から飛び出してきた。

 「どないしたん!」

 「すんません。僕が彼女を驚かしてしもうて」

 「ケンちゃん、花ちゃんと知り合いやったん?」

 「いや、知ってる子に似てるなぁ思うて近寄りすぎたら、彼女がひっくり返ってしもうて。ほんま、ごめんなさい」

 青年は、そう言うと、花子に向かって丁寧に頭を下げた。

 「そうなんかいなぁ。花ちゃんの叫び声聞こえたからびっくりしたわぁ」

 チャコちゃんは豪快に笑った。

 「どないしたんや?」

 貞さんも勝手口の声に、店内から顔を出した。

 「なんや、この二人お友達なんやて」

 「そうやったんかぁ。世間は狭いなぁ」

 

 花子は、尻もちをついた状態で、足を投げ出していた。左足の靴が電信柱にぶつかり、靴底が空を仰いでいた。

 青年は、慌てて靴を拾い、花子の前に置いた。

 「すんません。驚かしてしもうて。あんまり、知り合いに似てたもんやから、つい」

 青年は詫びるように頭を下げた。

 「知り合いの人も、花子って名前なんですか?」

 花子は脱げた靴を履きながら尋ねた。

 「はい。僕、原田健一言います。高校生の時に一度だけコンパをした時に会ったんやけど、それっきりで。でも、彼女にもう一度会って聞きたい事があったんやけど」

 聞きたい事。

 それを聞いた花子は嫌な予感にかられた。

 「あの、どこの高校ですか?」

 「神戸第一高校です。今は共学になったらしいんやけど、俺らの時は男子校で。友達が、女子校に知り合いがいて、無理やり連れて行かれたんです。あんまり、コンパとか好きやなかったんやけど」

 青年は、苦笑した。

 花子の胸中は穏やかではなかった。花子という名前は関西人につけると、逆にネタになる為、敢えてそれをつける者は、そうはいない。

 つけたとしたら、次女、三女、もしくはそれ以上に子沢山家族で適当につけたか、関西ならではの笑いを取る為の、どちらかだ。

 花子の場合はその、どちらでもなく、ただ、顔が花子っぽい。それだけの理由だった。

 それに、コンパには頻回に参加していた。その二点だけでも、自分である確率が極めて高い。

 花子はそう思った瞬間、動揺した。なぜなら、今まで散々、コンパというコンパに参加してきたからだ。狩りの為ではなかったとしても他人はそうは思わない。

 不細工な上に、男好きの女豹呼ばわりされるのは真意ではない。が、どれだけ説明しても自分がコンパに参加し続けた理屈など他人には到底理解できるはずもなく、花子はただ煩悶していた。

 花子が、独り言を言いながら思い悩む姿を目の当たりにした青年は突然、小声で花子に耳打ちした。

 「やっぱり、高槻西南女子高の花子さんですよね?」

 花子の頭の中で鈴が鳴った。

 最悪や。

 花子は、地面に座っているにもかかわらず、腰を抜かした。その様子を店先で見ていた、貞さんとチャコちゃんは顔を見合わせ、微笑んでいた。

 「若いってえぇねぇ」

 「ほんまやなぁ」

 「うちらも、こんな時ありましたなぁ。公園の芝生で転んだ私を、お父ちゃん、照れ臭そうに起こしてくれて。その時の、ゴツッとした逞しい腕の太い筋にキュンとしたんやぁ。あぁ、この人について行こう、そう思ったんよぉ」

 チャコちゃんは少女のように顔を赤らめた。

 「なに言うてんねん。わしらはもう、じいさんとばあさんやで。寒い事言いなさんな」

 「えぇやない。うちらかて、いちゃいちゃ時代があったやない」

 「気色悪いわ!」

 二人の夫婦漫才のような掛け合いに、花子と青年は声を出して笑った。

 「なんか、えぇですね、年を重ねても夫婦一緒で。うちの親は僕が中学の時に離婚したから、そういうの微笑ましいです」

 全く意に介さない様子の青年にチャコちゃんと貞さんは、立つ瀬がない様子だった。

 けれど、花子だけは違った。

 「えぇやん。気の合わない者同士、我慢しておっても時間の無駄や。好きか嫌いか。一緒におりたいか、おりたないか。どっちかでえぇと思うで。子供のせいにして結婚生活続けられても、かえって子供は迷惑や。だから、あんたの親は正直やと思うで」

 地面に座り、夕焼けを見ながら平然とそう言った花子に青年の顔は穏やかだった。

 

 それから、四人は、貞さんの奢りで焼肉をご馳走になった。久しぶりの賑やかな食卓を楽しんだと青年は嬉しそうに言った。血の繋がりが無くても居心地の良い場所は探せば沢山ある。血の繋がりに縛られる事の方が愚かな事だ。そう言った、花子の言葉に青年は、運命ってあるんや。そう呟いた。

 それから二年後に、二人は結婚した。

 健一は、花子と初めて出会ったコンパで、特段、美人でもない花子から目が離せなかった。

 花子以外は化粧をし、着飾って本来の自分を消した女子ばかりがいる中、花子だけはすっぴんでねずみ色のトレーナーにジーパンだった。その姿は、かえって男子の目に止まった。健一以外は、花子を風変わりだと陰で笑っていたが、健一は違った。

 花子を他の女子とは違う次元にいる気がして心惹かれた。

 それ、一度きりで、二人は遭う事がなかったが、健一の中には、いつも花子の存在があった。それから、何人の女性と交際しても、一度しか会った事のない花子がその都度現れて、長続きする事はなかった。

 なぜ、たった一度しか会った事のない相手に、こんなにも執着するのか、健一自身も分からなかった。だからと言って、取り立てて探す事もしなかったのは、いつか会えるという説明しがたい確信のような、自信のような、そんなものが、常に健一の中に存在したからだ。

キッチンチャコの前で健一は花子と会った時、即座に花子だと、気づいた自分に驚いていた。

 運命や縁というものが、この世に存在するなら、今起こっているこれこそが、そうなのだろうと思った健一は、幸甚の至り。を、噛み締めていた。

 

 それから二人はは当たり前ではない穏やかで平凡な生活を送った。それは、とても自然で、互いの向かう先が同じだという事など意識せず、愛しているのかなど確かめ合う陳腐な言葉は一切言わず、呼吸をするように生活をした。

その上、意見が合わないと言って喧嘩する事など一度もなかった。それは、互いが違う生き物なのだと、無意識に了知していたからだ。

 食事一つとってもそうだった。

 花子はカレーライスを食べ、健一は餃子を食べる。互いに分け合う事など無く、二人には、それが自然だった。

 けれど、二人の間には子供が出来なかった。

 健一は、中学二年の時にかかった、おたふく風邪が原因だろうと花子に打ち明け謝罪した。けれど、花子は健一を責めるどころか歯牙にも掛けないといった口調でこう言った。

 「で?」

 で?

 健一には、花子の口から出る、全ての言葉に裏がない事くらい是認していたが、今度だけは、すんなりと、で?を、受け取る事が出来ずにいた。

 健一は、花子に不妊治療を持ちかけたが、花子は必要ないと笑い飛ばした。

 けれど、そのとき見せた健一の蟠りを残したような表情が花子の心に引っかかったまま取れずにいた。

 「なぁ、けんちゃん。子供欲しいん?」

 「欲しい」

 「なんで欲しいん?」

 「花ちゃんの遺伝子を受け継いだ子が欲しい」

 健一が言ったその言葉に花子は驚いた。実の親ですら呆れて手を焼いた自分の個性を、残したいという人間が、この広い宇宙に存在している事実に驚いた。

 「けんちゃん、正気か?私やで?花子やで?分かってる?」

 「分かってるよ。花ちゃんは凄い人やん」

 「凄い?どの辺が?うちの身内は、けんちゃんの事をなんて呼んでるか、知ってる?」

 「知ってるよ。メシアやろ?」

 「せぇやで。救済者って言われて、崇められてんねんでぇ。こんな出来の悪い私と結婚してくれたけんちゃんに、うちの家族は、毎日拝んでんねんで。お母ちゃんなんて、結婚式の時に号泣したやろ?覚えてる?」

 「うん、覚えてるよ。凄い泣いてはったもんなぁ。びっくりしたわぁ。花ちゃんは愛されて育ったんやなぁ思うたで」

 「けんちゃん、甘い。あの号泣はなぁ、けんちゃんに対しての涙や」

 「僕に?なんで?」

 「あれは、けんちゃんを生贄にしたという罪悪感からくる号泣やったんや。お姉ちゃんも愛優美も分かってたでぇ。だから、あの二人は貰い泣きせんと、苦笑してたやろ?」

 「あぁ、確かに。それは覚えてるわ。何で、お姉ちゃんもあゆちゃんも顔が引きつってるんやろ?思うてた。そう言う事やったんやなぁ。しかも、お父さんは、寝てはった」

 そう言って、健一は腹を抱え、笑った。

 「笑うとこやないで、けんちゃん。お父ちゃんかて、狸寝入りや。お父ちゃんも、お母ちゃんとおんなじ気持ちやったんやから。生贄や。って言うたんは、お父ちゃんなんやで。だから、私の遺伝子なんか繋いでったらあかん!」

 花子は、健一にそう言って説得を試みたものの、それを聞いても意に介さない様子で笑っていた。

 「けんちゃん?私の言った事を理解してんの?」

 「理解してるで。なぁ、花ちゃん。実はな、会社の先輩の吉岡さん知ってるやろ?」

 「うん、知ってるよ。小太りの遅くに子供さん出来はった人やろ?」

 「そうそう。吉岡さんもな、子供のころおたふく風邪にかかって、中々、授からんかったんやて。けどなぁ、神戸にある、たまごクリニックって言う、不妊治療専門のとこで診て貰ったら、赤ちゃん出来たんや。花ちゃんに申し訳ないと思ったから行くんやない。僕が花ちゃんの子供が欲しいんや。駄目やろか?」

 花子は苦虫を噛み潰した顔をしたが、健一のあまりに真剣な申し入れに、思わず首を縦に振ってしまっていた。

 

 たまごクリニックの予約を入れた健一は、レンタカーを借り、花子と二人で神戸に向かった。

 「レンタカーまで借りる必要あったかぁ?」

 助手席の花子が横目で健一を見てそう言った。けれど、健一は、気に留める様子もなく上機嫌で鼻歌を歌っていた。

 健一は、わざと高速には乗らず、下道で遠回りをした。

 それはまるで、烙印を押されるのが怖いという健一の本音が垣間見え、花子は気持ちが晴れなかった。

 すると突然、白い綿のような、雪のようなものが沢山舞い上がり二人の車を包み込んだ。

 「何これ?」

 花子が前のめりになり、フロントガラスに顔を近づけると、その白い正体が真っ白な羽根だと分かった。

 花子には白い羽根が、自然で自由に見え、思わず顔がほころんだ。

 「けんちゃん、これ羽根やで」

 「ほんまや。ワイパーに引っかかってるなぁ」

 「ふわふわしてるなぁ。一体なんの羽根やろ?仰山、舞ってはるけどぉ」

 二人は前方を凝視した。すると、花子たちの車の二台前のトラックに、夥しい真っ白な鶏が大きな柵に整然と並んでいた。

 その柵の隙間から、彼らの白い羽根が抜けて宙に舞っていたのだ。

 「鶏やったんやなぁ」

 花子が呟いた。

 「どこに行きはるんやろかぁ?」

 健一も呟いた。

 「食用なんかなぁ?」

 花子が再び呟くと、健一は首を傾げた。

 「この子ら、人間に食べられる為に、それか、卵を産む為だけに人工的に生を受けたんやろか?」

 そう言った花子の表情が何か納得いかないといった感じに見えた。

 花子の言葉が健一の胸に突き刺さった。今から自分達が向かう先が、自然ではなく、人工的なものの様な気がして胸の奥が苦しくなった。

 フロントガラスから見える鶏を見つめている花子の表情が痛くて仕方がなかった。

 宙に舞う白い羽根が段々と多くなって、ワイパーの隙間にびっしりとしがみついていた。

 その羽根は、本意ではないのだ。そう言っている様に思えた。

 健一は、ウィンカーをあげ、車を左側に静かに止めた。

 「どないしたん?」

 「花ちゃん、行くのやめよう」

 「えっ、なんで?」

 「どうしても、子供が欲しい訳でもないのに、ただ、花ちゃんの遺伝子を残したいから不妊治療するやなんて、やっぱり間違ってる。ほんまに、子供が欲しい人達に失礼や。

 それに、親が子供を選ぶんと違う。子供が親を選んで来てくれるんや。あの、鶏達みたいに、何かを背負わされて生まれて来るのは可哀想や。花ちゃん、ごめんな」

 健一は、初めて花子の前で泣いた。

 花子は、泣いている健一の頭を数回撫でた後、車外に出た。そして、ワイパーに挟まった白い羽根を一つ摘むと運転席の窓を二回叩いた。

 涙を拭いながら、窓を開けた健一に、花子はその羽根で自分の鼻の下を数回撫でた。

 「花ちゃん、何してるん?」

 「ケンちゃん、やってみぃ。気持ちえぇよ」

 そう言って花子はふわふわの白い羽根を健一に渡した。

 花子が渡されたその羽根を健一は鼻の下に左右に数回ゆっくり動かすと、さっきまでの自己嫌悪感が綿飴みたいに溶けてなくなるのが分かった。

 「気持ちえぇなぁ」

 「せぇやろ。そういう事やと思うで」

 そういう事。

 健一は、花子の言ったその言葉に斟酌した。そして、助手席に乗り込んだ花子を乗せて、来た道を引き返した。

 ワイパーに、びっしりと絡みついた白い羽根が、引き返した途端、宙を舞って消えて無くなった。

幻のように消えて無くなった。

それから二人は、しばらく黙ったまま、景色の移り変わりだけを眺めていた。

やんわりと空がピンク色に染まった頃、花子が突然、口を開いた。

 「なぁ、ケンちゃん。動物のヘルパーって知ってる?」

 「ヘルパーさん?」

 「ちゃうわ!動物のヘルパー言うんは、母親の代わりに子育てする個体を言うんや」

 「へぇ、偉いなぁ」

 「ミーアキャットって知ってる?」

 「知ってるよ。キャットって言うけど、マングースの仲間なんやよなぁ。で、そのミーアキャットがどないしたん?」

 「ミーアキャットは、おかんが子供を産むんやけど、その子供たちが産まれた子供を育てるらしいねん。よう考えてみたら、うちかて、お母ちゃんに産んで貰ったけど、お姉ちゃんに、仰山、お世話して貰ったし、それで救われたことは数知れずや。だから、別に親じゃなくても人間かて愛情さえ与えたら、ちゃんと生きて行けるんちゃうかなぁって思うんよ。そこでな、子供に選んで貰うたらどうやろうか?」

 健一は、花子の言った意味が理解しかねる。そう言った表情を一瞬浮かべたが、

 「花ちゃん、ちょっと分からへん。ん?何?どういう事?」

 そう言った健一は、腕を組み、花子の方へ耳を近づけた。

 「要するに、養子を貰うって事。ケンちゃんが、うちなんかの遺伝子を受け継いだ子が欲しいって言うけど、人は環境が一番大切やと思うねん。一緒に住んでたら、自然と似てくるんちゃうかなぁ?全部は無理でも、十分の一くらいは似るんちゃうかなぁ?

 狼に育てられた少年みたいなもんやて」

 「狼少年ってほんまの話なん?」

 「さぁ?」

 「さぁって。適当やなぁ。せぇやけど、養子って考えてなかったから、いきなり言われても想像つけへんなぁ」

 「あのな、この前なぁ、仕事で施設に行ったんよ」

 「いつもの老人ホーム?」

 「そっちじゃなくて、児童養護施設のほう」

 「なんで?珍しいなぁ」

 「あのなぁ、美容組合の会長さんがボランティア活動してはってな、施設の子供達のカットをしたいって言いはって。うちらも日頃、美容室さんや、理容室さんにはお世話になってるやろ?こんな不景気でも、うちにって材料を注文してくれはるさかい、うちの社長も協力する事になってぇん。でな、カットクロスとかバリカンとか型落ちのをいくつか寄付したんよ。それを、社員が手分けして運んでん。私は柊園って施設に行ったんやけど、その時なぁ、誰もいない食堂で一人ぽっちで座って空を見ている女の子がおってなぁ。なんや自分でも分からんけど、いつの間にか、その子の側まで行って横に座ってたんよ。その女の子も驚いてたけど、またすぐに空を眺めて、一言も喋らんかってん。

 一言も話さんかったのに、うちなぁ、全く違和感なくて驚いたわ。それどころか、居心地がえぇ言うか、ずっとこのままでおりたいと思ったんよ。不思議やけど、帰りの車の中で考えてたら分かってん」

 「何が分かったん?」

 不思議そうな顔で尋ねる健一に、花子は目を輝かせながら言った。

 「波長!」

 「波長?」

 「せぇや、波長や!波長がおうたんやないかなぁ。絶対にそうやと思う。目には見えないけど、通じるものがある。上手い事、説明出来んけど、そんな感じやねん。あれから、毎日、あの子の事を思い浮かべるようになってしもうたんよ。どないしてんのやろぉ?って。分かる?うちの言う事、分かる?」

 花子は、更に細い目を見開き、健一を見た。

 「それは、直感なんちゃうかなぁ?」

 「直感?」

 「うん、直感。ここで、この子と出会ったのは必然なんやという直感。そして、縁という直感。花ちゃんの直感は、将棋の羽生さんよりも勝ってるからなぁ」

 健一は、真剣な面持ちで言うものだから、花子もそれを茶化す事など出来なかった。

 二人は、狭い車内で互いに腕組みをし、フロントガラスに広がる青い空を仰いだ。

 しばらく続いた沈黙の後、健一が口火を切った。

 「なぁ、今からそこに行こう!」

 「そこって?」

 「せぇやから、柊園!そこに行って、その女の子に、うちらでえぇか決めて貰わへん?それって、子供が親を選んで来てくれる事にならへん?」

 健一の突拍子もない発言がなぜか花子にはしっくりときたと同時にその言葉を待っていた。

 鶏の白い羽根も、仕事で行った柊園も、全て必然であったののではないかと花子は思った。

 引き返した道の先には、二股に分かれた道があり、そこには柊園と書かれた看板が立っていた。二人はその時、確信した。

 これも必然だと。そう、確信したのだ。

 柊園までの道は、途中でアスファルトから砂利道に変わった。これは、苦難とか困難とか、そういう兆しではないのか。健一は心の中で、一瞬だがそう思ってしまった。

 ところが、花子が突然、大声で笑いだした。

 「ケンちゃん!跳ねてる!うちら、跳ねてる!体と心が跳ねて喜んでるで!なぁ!」

 そう言った、花子は子供のようにはしゃいだ。 

 健一の口角が無自覚に上がり、改めて花子との出会いに感謝した。花子と縁を持たせてくれた、顔も見た事もない、声も聞いた事もない、目にも見えない誰かに心から拝謝していた。

 砂利道の脇には夥しいコスモスが咲き乱れ、風に揺れていた。

 それはまるで、自分たちをを歓迎するかのようにも感じ、二人の心は満たされていた。

 柊園の黄色く塗装されたトタン屋根が見えてくると、子供の笑い声が聞こえてきた。

 そして、水色で塗られた門が見えると、その側で子供達が元気に駆け回っていた。

 車のタイヤが、砂利道を踏みつける大きな音がすると、遊んでいた子供達の間にモーゼの十戒が出来た。そして、花子と健一が車から降りると年齢さまざまな子供達は警戒したような、憎悪の目で二人を見ていた。

 おそらく、ここに来る大人達は一人ずつ仲間を奪っていく敵だと思っているのだろう。


 「人攫いや!」

 低学年くらいの男児がは、そう叫ぶと、二人に向かって砂をかけた。

 砂は、風にまって花子の目に入った。思わず顔を歪め、瞼を閉じた花子に、男児が、やばい!そんな顔をした。

 花子は、何度も瞬きをした後、男児に近寄って行くと、彼はの体は瞬時に硬直したのが分かった。

 口を真一文字に結び、花子を上目遣いで恐々と睨んでいた。

 けれど、花子は男児の目線まで腰を落とすと、急に大声で笑いだした。男児や、他の子供達も呆気にとられ、二人を見ていた。

 「なぁ、何で笑うてるん?」

 「せぇやかて、おもろいやん!」

 「何がや?」

 「おばちゃんの目、見てみぃ。めっちゃ細いやろ?」

 「うん、めっちゃ細い」

 すると、二人のやりとりに笑い声が一つ二つと顔を出した。

 「考えてみぃ。こんなに細い目にこんな細かい砂を入れた、あんたは天才やなぁ。野球選手になる素質あるで」

 「素質って何や?」

 「素質って才能って事や。あんた名前は?」

 「そら

 「へぇー!かっこえぇなぁ!どんな字書くん?」

 「宇宙の宙や」

 「へぇー!そらまた、凄い壮大な名前やなぁ!あんた、宇宙飛行士になったらえぇわ!」

 「そんなん無理や」

 「なんで?」

 「俺、捨て子やし、お金ないから大学とか行かれへん!」

 「そんな事、なんで分かるんや?それは思い込みって言う、風邪や」

 「かぜ?」

 「そうや。吹く風邪と違うで。病気の方の風邪や。風邪は、ご飯をぎょうさん食べて、ぎょうさん寝て、心が元気なら必ず治る。そしたら夢かて叶うんや。くだらん風邪に負けたらあかん。えぇね」

 瞬きしながら花子は、男児の坊主頭を手の平で優しく摩った。

 すると、男児の顔が急に心細い表情に変わった。健一や、他の子供達は固唾を飲んで見守っていた。

 「おばちゃん」

 「なんや?」

 「目、痛い?」

 「そりゃぁ、痛いわぁ。せぇやかて砂入ったからなぁ」

 「ごめんなさい」

 男児は目に溢れんばかりの涙を溜め、小さく頭を下げた。そのとき落ちた彼の涙が地面に黒くて丸い影を作った。次々と影が出来て、地面は黒い水玉模様が広がった。

 「凄い!水玉や!皆んな見てみぃ!」

 花子の突然の大声に子供達と健一が駆け寄ってきた。

 「ほんまやぁ!水玉や!」

 小一の女児が感嘆して見ていた。他の子供達も、それに見入っていた。

 泣いている男児に近寄った健一は、

 「希望の水玉やなぁ」

 一言、そう呟いた。

 なんやそれ?と、いう表情の子供達を他所に健一は男児の坊主頭を撫でながら再び言った。

 「希望の水玉や」

 「ほんまや。希望の水玉や」

 花子も、それを優しく見つめながら言った。

 男児が泣き止むと同時に、子供達は彼を羨望の眼差しで見ていた。


 花子がふと横を見ると、柊園の食堂の大きな窓から、花子が以前出会った女の子がその様子を見ていた。窓には夕日が写って真っ赤に染まって、女の子の髪の毛が薄ピンクに見えた。

花子は視線を感じて園の玄関に目をやると園長先生が穏やかな表情で立っていて、花子に会釈をした。

 花子も彼女に会釈をすると、それに気づいた健一も園長に深々と頭を下げた。

 二人が柊園の中へ入ると、壁には隙間も惜しむように、子供達の成長を記す写真が貼ってあった。

 花子に砂を投げつけた男児の産湯に浸かっている写真には、宙、お湯がにがて。丸くて可愛い字で、そう書かれてあった。

 花子が写真に見入っていると、あの時、食堂で会った少女の写真もあった。

 けれど、なぜか彼女の写真には幼い頃のものはなく、今の彼女ばかりだった。

 花子は写真に顔を近づけると隅の方に小さな字で桃子六歳と書かれてあった。

 桃子。

 その名前を見たとき花子は天意を感じた。そして、園長に事情を話し終わった健一を呼び、彼女の写真を指差した。

 「桃子」

 健一が優しく呟いた。

 まだ会ってもいない写真の中の桃子を呼び捨てにした健一も、また、宿命を感じずにはいられなかった。

 「なぁ、ケンちゃん。今、うちと同じこと考えてる?」

 「多分」

 「うちらって、凄いなぁ」

 「そうやね」

 二人は顔を見合わせ大笑いした。

 その笑い声につられるように、子供達と園長も笑いだした。玄関に並べられた大小様々な靴に夕日が当たって全部、真っ赤になった。それは、絆を意味しているように見えた。

 二人は園長に案内され、園の一番奥にある食堂へと向かった。

 廊下を叩くスリッパは、沢山の音が混ざり合って、園内に心地よく響いた。

 そして、花子と健一が食堂に入ると、他の子供達も息を潜めて窓から中を覗いていた。

 「こんにちは」

 花子は、囁くように声をかけると、桃子はゆっくりと振り返った。そして、花子をしばらく、じっと見つめると、二人の方へ近付いた。

 けれど桃子は、花子との距離を一メートル空け、それ以上、近付こうとはしなかった。

 花子も立ち止まったまま、ただ黙って会釈をした。

 すると、桃子はゆっくりと口を開いた。

 「私に何か用ですか?」

 「はい、桃子ちゃんに聞きたい事があります」

 「なんですか?」

 「私達の子供になってくれませんか?」

 窓から覗いていた子供達は、やっぱり。と、いう表情を浮かべたが、桃子の返事を固唾を飲んで見守っていた。

 「あきませんか?」

 花子が再び尋ね、桃子との距離を少し縮めた。

 「私では、あきませんか?桃子ちゃんのお母さんは務まりませんか?」

 花子は、いつもと変わらず呑気な感じで、身構えているのは子供達の方だった。すると、柊園ではリーダー的存在で、しっかり者の百合子が桃子に向かって声をかけた。

 「桃子、行きやぁ!」

 子供達も、その方がえぇ。と、頷きながら桃子を見ていた。

 桃子は少し間をおくと、花子の手にそっと触れた。それを見ていた健一は、思わず、右足を前に出したが、それをすぐに引っ込めた。 

 桃子は、静かに目を閉じたまま、花子との宿命を確認しているかのように、手に触れたり、離したりを繰り返した。

 園長は、桃子がなぜ、こんな事をするのか理解していたが、敢えてそれを言わず、静かに二人の様子を見守っていた。

 五分程、そんな動作を続けた桃子が、突然、花子の手を離し、小さな声で言った。

 「私を貰ってください。お願いします」

 桃子は、そう言うと小さな頭をちょこんと下げた。

 花子は、そんな桃子の細い指を触りながら、

 「桃子ちゃん。人はあげたり、貰ったりは出来ひんよ。一緒におりたいから、おるんやで。だから、私もけんちゃんも、桃子ちゃんとおりたいんよ。それだけなんよ。なんで、桃子ちゃんなんか、私にも分からん。けど、桃子ちゃんなんよ」

 後方で見ていた子供達や園長も安堵したように笑った。


 レンタカーの後方に桃子を乗せ、家を出た時とは全く違う状況に花子は奇跡を感じずにはいられなかった。

 桃子は、手を振る仲間達に一度も手を振り返す事はなかった。おそらく、振ってしまったら、本当の別れになると思ったのだろう。

 桃子は、涙が落ちないように体全体で踏ん張っている事を花子は気付いていた。

 バックミラーに映る、柊園の子供達が、幸せの雲に乗れるよう、花子は切に願いながら、夜空に光る星を眺めていた。

 

 桃子は、口数の少ない子供だったが、すぐに新しい環境に溶け込んでくれた。

 むしろ、花子にとって想定外だった事は、桃子がチャ子に一番懐いた事だ。こんな、強烈で強引な性格のチャ子と時間を過ごしている時の桃子は生き生きしていた。

 花子はそれが、何よりも理解しがたい事だった。

 花子は桃子に聞いた。

 「なぁ、桃子、おばあちゃん好きなん?」

 「うん!好きやで」

 「へぇー、あんた変わってんなぁー」

 奇異の目で桃子を見ると、

 「お母ちゃんは、おばあちゃんが好きやないん?」

 「好きとか、嫌いとか、そんな問題やないなぁ。あの人は、うちらと次元が違う所にいる人やから、あんまり理解出来ひんねん。ゴリ押しするし、我が道を行くし、自分が一番正しくて、苦労人やと思い込んでるふしがあんねん。子供の頃から、お姉ちゃんと顔色ばっかり見て育ったから、あの人には敵はいいひんのんや」


 「そうかなぁ。おばあちゃんには、愛があるよ」


 愛がある。


 花子は、その言葉を久し振りに聞いた気がした。


 「愛があんの?」


 「あるよ。桃子には分かんねん。だって、ほんまの孫やないのに、テストが悪いと怒るし、食べ方が汚いと怒るし、行儀が悪いと怒る。それに、習い事もせなあかんで!って、うるさいし。でも、言うた後、ミルクティー作ってくれんねん。あとはぁ」

 桃子もまた、口籠って、言いにくそうな表情とバカにしたような笑みを同時に浮かべた。

 花子は、大人気なくも、桃子の態度に一瞬ムッとしてムキになった。

 「あとはぁ。って、なんやの?感じ悪っ!」

 子供のようにムキになる花子を桃子は好きだった。正直で真っ直ぐで、そして、彼女もまた、愛に溢れていた。

 桃子は、それをちゃんと知っていた。

 「言うたら、お母ちゃん怒るもん」

 「怒らんわ!言いなさい!なんやの?」

 「うーん。ほんまに怒らん?」

 「あんたも、しつこいで。ほんまに怒らんって言うたら怒らんわ!」

 「じゃぁ言うで。おばあちゃんがなぁ、桃子は花子と違って、顔も可愛らしいし、頭もえぇから安心したって。あの子に育てられたら、馬鹿になるんちゃうかと心配したけど、あんたはえぇ子で良かったって。おばあちゃんは桃子が大好きやで。って言うてた」

 花子の顔は引きつり、足は小刻みに震えていた。

 「珍しい。お母ちゃんが子供を褒めるやなんてなぁ」


 「お母ちゃんは道頓堀橋に捨てられとったって、おばあちゃん言うてたけど、ほんまなん?」


 「そう言えば、子供の頃そんな事言われてたなぁ」


 「ショックやなかったん?」


 桃子は、六歳の時に母親に捨てられた。

 母親は十代で桃子を産むと、男に捨てられ水商売を生業としながら桃子を育てた。

 元々、子供が嫌いで、男好きな母親は、買い物に行くからと六歳になったばかりの桃子をアパートに一人残し家を出たまま帰ってくる事はなく、隣人が異変に気がつき、幼い桃子は柊園に引き取られる事になった。

 母親がアパートを出る時、桃子の小さな手を握り、お土産を買って来るからと言った。

 桃子はまだ幼かったが、いつもと違う香水の香りと、普段はハゲると醜いと言ってマニキュアだけは塗らなかった母親が自分を捨てる日に真っ赤なマニキュアを塗っていた事で自分が捨てられる事を察した。

 柊園へ訪ねて来た花子の手を握った桃子の行動は、花子の本気を確かめる為の行為だったのだ。

 

 実の親に罵倒された事も溺愛された事もない桃子にとって、チャ子に捨て子だと虚言を吐かれても尚、それを、気にした事はない。と言う、花子の差し措く強さが桃子にとって憧憬の対象だった。

そして、「全くショックやなかったわ」

 そう言って、軽く笑い飛ばした花子が誇らしかった。

桃子が高校三年の時、カナダで経営の勉強がしたいと健一と花子に打ち明けた時、花子は桃子の前で初めて泣いた。

 正直、桃子は驚いた。今まで、何があっても家族に涙など見せた事のない花子が嗚咽を漏らし、子供のように泣いた。同じく健一も、花子を諭しながらも声を殺して泣いていた。


 「お母ちゃん、お父ちゃん、ごめん。やっぱり行くのやめるわ」

 「やめんでえぇ」

 健一は、桃子に言明した。

 「せぇやかて、お金がかかるし。えぇねん。聞かんかった事にしてな。就職しても経営の勉強は出来るし、その方がリアリティーあるわ」

 「桃子!」

 花子は、泣くのをやめ、今度は大声で桃子を叱咤した。

 「アホ!お母ちゃんのは、嬉し泣きや!嬉しゅうて、嬉しゅうて、目から涎が出たんや!これは、涙やない!」


 「もっと、ましな言い方あるやろうに」


 健一は、呆れた口調で呟いた。

 桃子も、花子が言っている意味が分からず困惑していた。

 「お母ちゃんは、あんたのほんまのお母ちゃんなんやなぁ、そう思うて嬉しかったんや。せぇやかて、どっかで気を使ってたら、留学したいって言わへんやん。せぇやろ?血が繋がっていても、お母ちゃんは、おばあちゃんにお願い事なんぞ出来ひんかったで。あんたは、お母ちゃんとお父ちゃんに甘えてくれたんやろ?そうやろ?」

 花子は、息継ぎも忘れるくらい興奮していた。

 「お母ちゃんは、あんたのお母ちゃんで誰のお母ちゃんでもない。私はずっと、そう思ってる。これからもずっとや」

 花子は、何度も頷きながら、再び大声で泣いた。

 

桃子は目の前で泣いている花子という人間の生き方に感服し、何があろうとも、母親のように、只々、真っ直ぐに生きて行こうと心に決めた。

 

 

 

 


 

 

 


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