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クロワッサンとハートビート

作者: 逢坂 透

夜明けが闇を払いはじめ

マナの寝顔の輪郭が浮かび上がってくる


僕はそれを見つめながら

二人の出逢いを思い返していた


※ ※ ※


代官山のヒルサイドパントリー

毎週、火曜日の開店時間


出来たてのクロワッサンをトレイに載せていたマナ


階段を上がったテラスには

いつも二人の自転車だけが並んでいた


最初のペダルからグッと踏み込んで、漕ぎ出すマナ


僕は何度も近づき、迷い

走り出していく後ろ姿を見送っていた


5月の風が勇気をくれた日

僕は生まれて初めて、そして最初で最後のつもりで声をかけた


いつも並んでいる自転車の持ち主として

僕はすでにマナの意識の中に入り込めていたんだ


それから火曜日が来るたび

僕らは西郷山公園のベンチで

クロワッサンを片手にいろんな話をした


大好きな花屋さん

毎月チェックするカードショップ

お気に入りの風景

イチ推しの銭湯 etc...


気がついたのは

僕らは電車にはほぼ乗らないこと

1,000円以上の買い物をめったにしないこと

服はあまりたくさん持っていないということ


二人とも

お金を使うことに

とても臆病だった


だから

唯一の贅沢と言えるのが

休みの日に美味しいパンを食べることだったんだ


※ ※ ※


やがて

僕らは自転車に乗って

一緒に東京の街を巡り、新しいパン屋を目指すようになった


最初のひと漕ぎで、マナの自転車が先に飛び出す

僕は、ポニー・テールの後ろ姿を追いかける


追いつかれそうになると

逃げるように立ち漕ぎをしてペダルを踏み込むマナ


そんなだから

僕らの肺はすぐに酸素不足になって喘ぎだす


頭はだんだん白くなって

なぜだか笑いたくなってくる


坂の頂上に着く頃には

いつも可笑しくて

マナの笑顔に汗が光っていた


公園を見つけると

“休憩”って僕が叫ぶ


二人はベンチに崩れ落ちて大きく肩で息をする

心臓が跳ねている感じがする


夏の終わり

ベンチでマナが初めて僕の腕につかまった時

マナの心臓が踊るように弾んでいるのが伝わってきた


マナの命の鼓動


僕は

絶対に手放したくないものを見つけた


※ ※ ※


夏の間は

早朝から開いているパン屋巡り

それから都営バスの一日乗車券を使って範囲を拡げた


そんな時

バスの小さなシートでくっついていることが自然になって


湘南の海まで贅沢な遠出をした日

浜辺で夕暮れの紫色に包まれながら

初めて

唇を重ねた


※ ※ ※


秋色に染まった駒沢公園

ケヤキの落ち葉で真っ黄色の自由広場

僕らはベンチでもっちり美味しいSORAのパンを食べた


大満足して

うろこ雲の空を見上げているマナに

僕はプロポーズした


早過ぎるとか

そんなことは考えなかった


嬉しかった

マナも同じように考えてくれていたから


その時

僕らはお互いの生い立ちについて

ちゃんと伝え合った


マナは片親だったお母さんの心が安定しなくて

長野の児童養護施設に引き取られた

高校を出ると東京でアルバイトをしてお金を貯め

専門学校に通ってトリマーになった


僕は母を病気で亡くしていた

父は再婚したが、その大阪の家を離れたくて、東京の養成学校に進んだ

システムエンジニアとして働き始めて3年目だった


初めての夜

エアコンのない僕の部屋は、外と変わりなく凍えるように寒かった


マナから流れだした血に

僕は慌てた

電気ポットで沸かしたお湯でタオルを温め

何度もマナを拭うことしかできなかった


※ ※ ※


結婚を決めた僕らは

一緒に住むことを考えるようになった

その方が、二人で貯金もできるから


結局、マナのアパートに

僕も住む形で同棲を始めた


アパートは武蔵小山から5分なのに

家賃2万8千円


道路に面した外階段から、靴を手に持って2階へ登っていく

4畳半にコンロが一つ

風呂はなくて手洗いも共有


小さな冷蔵庫と炊飯器

手持ち鍋が2つにフライパンと食器類

銭湯のセット一式


あとは

カバンの中の仕事道具と身の回り品

マナの持ち物は、それで全部だった


1階の高齢のご夫婦が大家さん

マナはとても可愛がられていた

そして大家さんに僕が住めるよう交渉してくれたのだ


僕は、大家さんの厳しい面接を何とかクリアできたようだった


引っ越しの日

改めてご挨拶をして「婚姻届の証人になってください」とお願いした

区役所に提出した婚姻届には

お二人の少し震えた文字が並んでいた


廊下を挟んで向かい側にある2部屋を使わせてもらった

僕らの新婚生活はそんな風にして始まったんだ


会社に届けを出した時は驚かれたけれど

扶養家族のできた僕は夢中で働いた


エンジニアとして、早く一人前になりたかった

いくつかのプロジェクトに関わらせてもらって

クライアントの事務所に詰めて徹夜をすることも、出張も増えた


マナのところに戻ると必ず

胸に耳を寄せて

マナの心臓の鼓動を聴いた


とくんとくんと、規則正しいリズムを確認して安心する

そして眠りに就く


やがて

マナにも僕の鼓動が欠かせなくなった

交代で、胸に耳を寄せて、おしゃべりをして過ごす


テレビもパソコンもない

音のない静かな部屋で


僕らは互いの鼓動を聴きあって

たくさんの時間を過ごした


※ ※ ※


4年が経った


大家さんのおじいちゃんが

脳梗塞で倒れてしまった


僕たちに子どもができるのを

ずっと待ってくれていたのに


そのまま施設に入ることになって

大家さんのおばあちゃんは

息子さんの家で生活することになった


半年後にはアパートを解体して、土地を売るという


この東京の何処に住もうか


僕らは毎日相談した

休みには自転車に乗って、次の僕らの居場所を探し回った


やっと心に決めた場所は

深沢坂上

掘り出し物のマンションが見つかった


2DKで10.5万円

1階なので狭いけれど庭もある

隣の部屋の大家さんは、やはり高齢のご夫婦だった


下見の時に、お話しをする機会があった

マナはあっという間に好かれてしまったようだった


不動産店の担当の人が

あそこは人気なのに、なかなか決まらなかったんですよ

お二人の印象が良かったみたいです、と契約の時に教えてくれた


※ ※ ※


深沢坂上は、どの駅にも距離がある

けれど

駒沢公園が近くて

砧緑地にも、馬事公苑にも、世田谷公園にも、等々力渓谷にもバスで向かえる


バスが必要になったのは

マナが自転車に乗れなくなったからだ


命の到来をしめす

その紅い線がくっきりと浮かび上がった時

僕らは飛び上がって、抱き合った


つわりは辛い

けれど嬉しいというマナ


4畳半の空間しか知らなかった僕たちは

最初のうち

隅っこでかたまっていた


けれど

新しい家での生活に少しずつなじんでいる


初めて買ったベッドで

こうして幸せそうに眠っているマナ


僕はいつまでも見ていたい


※ ※ ※


闇はすっかり追い払われた


眩しい朝が始まっていく

鳥のさえずり


マナの睫毛が揺れる


“おかえりなさい”


マナの頬に触れる


“おはよう

検査は

どうだった?”


“元気だって

まだ小さいの


それなのに

エコーでね

心臓が点滅するように動いてるの


命が生まれた時から

もう

心臓は動いているのね”


マナのお腹に耳を寄せる

海の中の音がする


太古の昔から

とくんとくんと、心臓は波打ち続けてきた


お父さんの心臓とお母さんの心臓が響きあって

新しい鼓動が生まれる


この東京で

僕はマナと出逢った


毎日、何百人、何千人と

行き交い、すれ違う人々


その中から

たった一人の特別な人とつながる


それは

二人の心臓が響き合うからだろう


とくんとくんと

高く低く繰り返されるリズム


二人の波形が共鳴し、重なり、一つになる

そして

君が生まれた


“今ね

小さな

小さな

心臓の音が

聞こえたよ”


“ふふっ”

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