愛が分からない話
楽しんでいただければ幸いです。
一応前作と同じ国が舞台ですが、彼らとは無関係です。
エミリア・ディー・ガーネットのこれまでの人生は、ほとんどが王妃教育で埋まっていた。
六家ある侯爵家、その筆頭のガーネット侯爵。長女として生まれたエミリアは、わずか三歳で王太子と婚約した。
そこからは両親から引き離され教育、教育、教育。
楽しみは王妃殿下とのお茶会と、年四回の実家への帰宅。……そのような生活をしていれば、感情の薄い人間が出来てもおかしくないだろう。
王妃はエミリアの教育環境に苦言を呈していたようだが、どういう訳か改善することは無かった。
最終的に、王妃教育より王子の教育に力を入れればよかったのにと散々罵倒されることになるのだが。
「国の為にと、様々なことを学んだわ。地方の特産物や、他国の文化。人の顔を読む術も、表情を消す方法も。いずれ王を支え、国母になるのだからと。……ただ、婚約者の愛し方は一切教えられなかったわね」
ガーネット家の庭を眺めながら、淡々とこれまでのことを振り返る。
人生で初めて、エミリアは実家に一年以上滞在していた。いや、これからもずっといれば良いなんて弟は言っている。
エミリアと婚約していた王太子が廃され、婚約が白紙に戻ったからだ。いや、最初は婚約破棄だったか。
王太子が王立の学園を卒業するので祝いに出向いたら、その卒業式で突然破棄を宣言された。王妃に相応しくないだか、愛が感じられないだか言っていた気がする。エミリアには訳が分からなかった。
王妃に相応しい教育をしていたのは王家で、王太子との交流をほぼさせなかったのも王家なのだ。今更真逆のことを言われても困る。
ただ、これに怒り狂ったのが父であるガーネット侯爵だ。さんざん王妃教育に娘を縛り付けておいて、肝心の王太子がただの馬鹿だったのである。別の王子が王太子となっても、娘を嫁がせることは無いと宣言した。
その後、どういう話し合いが行われたのかはわからないが、気が付けばエミリアは曾祖母の実家だったジルコン侯爵家を復興させ、女侯爵になることが決まっていた。王妃教育で培った知識は、侯爵で役立つらしい。
「でも、この一年で分かったことがあるわ。殿下の仰っていたことも一理あったのよ。夫婦には信頼関係が必要だった。それを殿下は愛と呼んだ。私の教わったものには、欠落していたけれど」
愛とはどんなものかしら。
侍女に聞けば、巷で流行りの恋愛小説をいくつか持ってきてくれた。無論、傷心であろうエミリアを気遣ってハッピーエンドばかりである。
愛し愛される男女。ちょっとした困難を乗り越えて、さらに結ばれる二人。
全て読んで、エミリアは自分には無理だったと悟った。王太子と愛し愛されるなど、無理だ。根本が違いすぎた。
せめて次に決まる夫とは、何かしらの信頼関係が結べれば良い――そう思っていた。
「そう、だから。……こんな展開なんて想像して無かったのよ」
共に庭を歩く男に、ようやくそれを告げた。
エミリアの結婚相手は好きに決めて良い。――その権利を王家からぶん取ってきた父親の意向に従うつもりでいた。
しかし、ガーネット侯爵は彼女に、希望があるか尋ねてきた。
ガーネット家に益がある者、もしくはかつてのジルコン侯爵家の縁者がいれば円満なのではと言ったが、首を振られた。
『エミリア。国の事も家の事も関係なく、お前の希望をきいているんだよ。お前の好きに決めていいんだ』
そう言われて大いに戸惑ってしまった。エミリアにとって、自分の意見というのは「次期王妃としての意見」であった。国益を剥がした希望など、考えたことが無かったのである。
ただの侯爵令嬢になった今とて、利害が一致する相手なら信頼関係を結べやすそうだ、くらいにしか思っていなかった。
初めて顔に困惑を出した娘を哀れに思ったのだろう。ガーネット侯爵は、言い方を変えた。
『なら――血筋も家柄も情勢も関係なく、ただひとりを選べと言われたら、誰にする?』
そう問われた瞬間、何故かエミリアは部屋の隅にいた――ひとつ年下の従僕に目を向けてしまったのである。
王宮暮らしだったエミリアがほとんど話したこともない、いずれ弟の執事になるであろう彼。
すぐに視線を逸らしたが、父はその視線の動きを見逃さなかった。
そして本日――エミリアとその従僕の庭散歩が実現してしまったのである。
「貴方が好きな訳ではないの。本当にごめんなさい」
従僕にとっても大変迷惑だっただろうと思い謝罪したのだが、彼は首を振った。
「いいえ、お嬢様。大変光栄です。何しろわたしは、お嬢様が好きですから」
「――は?」
「よく視線が合うな、と思われませんでしたか。暇さえあればお嬢様を見ていましたので、ご不快にならないかとヒヤヒヤしたものです」
この一年、お姿を見ているだけで本当に幸せでした、と。
恥ずかしげもなく言い切った彼が、よくわからない。
「もし、お嬢様のご不快でなければ。他に誰も居ないのならば。わたしを御傍においていただけませんか?」
「……でも貴方、利も何もないじゃない」
「お嬢様の御傍にいられれば、それだけで幸せですが」
「……つまり、私を愛してるってこと? 愛しているから、利害は関係ないと?」
「はい」
「困るわ。だって、そしたら私、貴方に愛しか返せないじゃない」
夫婦には信頼関係が必要だ。
愛がわからないから、利害を一致させたかったのに。この男から来るものが愛では、エミリアはそれを返さなければならなくなる。
「私にそれを渡せる自信がないわ。貴方だってわかっているでしょう。これから私は侯爵になるし、きっと仕事を優先するわ。ジルコン侯爵として恥にならないよう、虚勢をはるのが精いっぱいかもしれない。本当に、貴方を見たのは無意識だったのよ。どうして貴方を見たかも分からない。その程度の感情しか持ってないのよ。お父様が許しても、他の貴族たちから散々に言われるかもしれない。私もそれを庇わないかもしれない。……それでも貴方、私の隣に立つ気になる?」
下に向けていた視線を彼に戻す――エミリアは思わず息を呑んだ。
彼は、ただひたすらに優しい目でエミリアを見ていた。
「充分です」
跪き、エミリアの手を取る。
「充分です、お嬢様。『血筋も家柄も情勢も関係なく、選ぶとしたら』。それにわたしを選んで下さった。例え無意識だとしても」
「……愛し愛されたいと思うのが普通ではないの?」
「己と同じだけの想いを相手に求めるのを、愛と呼ぶには傲慢でしょう」
――彼の愛は、大きすぎた。
大きすぎてエミリアには上手く見えないほどに。
しかし彼はその愛に返すのが、一瞬の視線だけで良いという。
エミリアにはわからない。
「もし、お嫌でなければ。隣に立つのがわたしでも構わないと思っていただけるのであれば。わたしはそれだけで、充分です」
わからないが、そう遠くない未来に。
彼が隣で良かったと。
彼が隣にいるだけで充分だと思える日が、やってくる気がした。