3. あなたのいない間の痛みさえ愛していたい
一週間後また屋敷は緊張していた。
イフェリアが庭木の陰から覗いていると、父親である男爵がしきりに恐縮した様子で頭を下げていた。
相手の格好も使用人のものであったが、家で一番偉いはずの父が頭を下げていた。不思議に思いながらも見つからないうちにいつもの屋敷の裏に引っ込む。
しばらくして、なんとなく来るような気がして振り向くとそこに彼がいた。
「ごめん、家の中騒がせてるよね。わがままいってキミの家にまた来ちゃった」
家の方は歓迎のためにいそがしいようだったけれど、ここはいつも通り静かだった。
約束通り一緒に魔法の練習をしながら、なぜ彼がここに来るのかを考えていた。彼ははそれほど魔法が好きなのだろうか。
もしも、好きだったのなら彼に謝らなくてはいけない。
「ごめんなさい」
「えっ……?」
急に謝りだしたイフェリアに彼は戸惑う。会うのは二回目であったがそれが彼女の口癖であると理解しはじめていた。
「本当は魔法のことってよくわからないの」
「でも、杖もなしに魔法が編めるなんて王宮で働いてる魔法官でも難しいことだって、父上から聞いてるよ」
「実は……その、よくわからないの。なんとなくできそうだからって思ったらできただけで、あんまり教えたりとかはできなそう」
「そっかぁ」
ミディウムが残念そうな表情をしたのでなんとかしなければと思った。どうしても彼に嫌われたくなかった。焦るイフェリアの前で一冊の分厚い本を取り出した。
「それなら一緒に勉強しよう、それがいいよ。一応もってきたけど役に立ちそうでよかった」
それはスペリアが家庭教師の先生と読んでいたものよりも丁装がしっかりとしたものだった。
文字はスペリアが受けていた授業を窓の外から見ていたおかげで読むことができる。
「ボク一人じゃ、ちんぷんかんぷんだったからさ。一緒に読んでくれるひとがいると心強いよ」
ミディウムはお土産といって来るたびにプレゼントを渡していた。彼女が喜んだのは菓子などの食べ物であったが、それまで以上に引き付けられたように本をじっと見ていた。
あるいは、この少女にとってたったひとつ、魔法だけが興味のあることだったのかもしれない。
「本当に魔法が好きなんだね」
「……うん、楽しい」
迷ったすえに短く答えた一言だった。しかし、ミディウムにとってはそれだけで十分だった。『おもしろい』や『うれしい』などの前向きな言葉が聞けただけでよかった。
二人が肩を寄せ合いながらページをめくっていくと、ミディウムが早いよといって止められる。ところどころ読めない文字があると、彼に教えてもらう。
かわりばんこに教え合いながら、ときどきページをめくろうとする手が重なった。
別れ際、つづきを一緒に読もうといってミディウムから本を預けられた。
一人の夜、こっそりと読み進めると知らないことばかりが新鮮でどんどんと先に読み進んでしまった。彼には内緒にしておこうと思ったが、先のことを教えてあげて驚かせてやりたいとも思った。
夜が更け寒さに耐えるためにイフェリアは台所の隅で丸くなっていた。台所の丸い塊を見て、母がいやなものを見たというように顔をしかめた。
「お母様、最近おもしろいものを見つけたのよ」
スペリアが母の名前を居間の方から呼ぶと、途端にその顔が緩む。母の視線がはずれると、今日は痣をつくらずにすむと胸を撫で下ろす。
暖炉が焚かれた暖かな居間から二人の話し声が聞こえた。
「ねえ、お母様。最近イフェリアが妙な本を読んでいるみたいなの。あの子ったら本を隠し持ってるみたい。そんな本どこから手に入れたのかしらね?」
顔から血の気が引き体温が急激に下がっていくのを感じた。大またで近づいて来る母の足音にイフェリアは体をよりいっそうぎゅっと丸めた。
わき腹にめりこんだ痛みに耐えながら、胸にかかえた本を守るように身体を縮こまらせる。
「隠してるのでしょう。さっさと出しなさい。一体どこから盗んできたの」
母の低い声が上から浴びせられる。
痛みと恐怖に怯えながらなんとか声を出す。いつもは無視されていても、質問されたらちゃんと答えなければいけないのがこの家の決まりだった。
「……これは借りたものです」
「嘘ばっかり。本当にあなたは身体の中が腐っているとしか思えないわ」
「お母様、イフェリアを許してあげて。きっとでき心だったのよ」
「まあ、スペリアは優しい子ね」
母は姉に顔を向けると優しげな笑みを浮かべる。視線を戻すと冷たい表情で見下ろす。
「それに比べてこの子といったらいつもみんなを困らせてばかり」
スペリアは「がんばってね」と小声で口にすると居間から出て行った。使用人たちもいつのまにかいなくなっている。
母と二人でのこされた部屋で静寂がイフェリアの小さな体にのしかかる。
「私があなたを困らせたことがあったかしら。そりゃあぶつぐらいはあったけれど、それは全部あなたのためなのよ」
「おねがいします。これだけはダメなんです……」
母の手がさわりさわりと首筋をなでてからきゅっと巻きつく。声も出せず、息苦しさから逃げようと本を抱えていた手を離してしまった。
気絶は一瞬であったが、イフェリアの意識が戻ると母の手にあの本が握られていた。
「……返してください。それは友達のものなんです」
「あなたにそんな相手いないでしょう! まったく呆れた子ね。屋敷の書棚から勝手に持ち出したのね。これはあなたなんかが触っていいものじゃありません!」
伸ばした手を足で蹴り飛ばされ、腹を踏みつけられる。イフェリアはうめきながら手を伸ばそうとするが、それはより一層母を怒らせる結果となった。
「どうして双子でここまで差がついてたのかしら。あなたのしゃべりかたから歩き方まで全部いらいらする!」
本を没収すると母は台所から消えていった。くらくらする頭がずきずきと痛み、胸の鼓動が早くなっていた。
イフェリアは床に倒れたままミディウムに謝りつづけた。