13. わたしは昨日も今日も人間だった
舞台を降りたイフェリアは、はじめて人前で自分の魔法を見せたという高揚感に心が浮き立っていた。自分の魔法が他人を喜ばせた。他人に認められた。そのことが彼女の頬を緩ませる。
同時にあれでよかったのかという不安を感じていた。どちらにせよ一歩を踏み出した。引き返すことはできない。
「姉さん、終わったよ。お客さんはみんな拍手してくれてた」
寮に戻ると部屋で待っていた姉に報告する。話している間、特に表情を変えることもなく無言であった。返事がないことを不安に思い、もう一度口を開きかけた。
「……それで、あんたはわたしに何ていってもらいたいの」
低い声に萎縮するイフェリアが見たのは、怒りに顔をゆがめながら手を振り上げる姉の姿だった。
頬に受けた衝撃で床に倒れこむ。痛みと恐怖でしびれる頭が靴裏で踏みにじられる。
「あんた、なにしてんの! 杖もなしに魔法使って、 あんなのは魔法じゃないって思われるでしょ。どうしてそんなこともわからないのよ!」
「……見てたの?」
「ええ、誰にも分からないようにフードを被って目立たない場所から見てたわ。ろくでもないことしないかと心配していたけれど、それ以上のことをしてくれたわね!」
顔を真っ赤にして踏みつける姉の顔はいままで以上に恐ろしかった。ごめんなさいと繰り返し彼女の怒りが収まるのを待った。
何度も脚を踏みおろし息を切らせる。ベッドに身体を投げ出す柔らかい音がした。
「あんたのせいでつかれたわ。お水もってきてちょうだい。夜から舞踏会があるっていうのに、全部あんたのせいよ」
「……はい」
痛む体を起こして、姉の気が変わらないうちにと急ぐ。
扉をゆっくりと閉めて姉の姿が見えなくなると、痛みに顔をしかめた。
「―――イフェリア」
聞こえた声にゆっくりと顔をあげると、彼女の顔が氷りつく。
「ミディウム……くん……なんで……」
混乱する彼女の頭の中で、彼がここにいる理由や聞かれたことへの言い訳を考える。
「いまのは……いや、それよりもその傷を手当しないと」
「―――っ!」
気遣うように伸ばしてきた残酷な手を払い、イフェリアは走り出した。
それから、
時間を置いて戻ると彼の姿はなくなっていた。姉の姿も部屋の中にいなかった。
【くくくっ、ばれちまったみたいだな。あのお坊ちゃん、間違いなくばっちり全部聞いていたって顔だったぜ】
赤い日差しで満たされた部屋の中、水差しをもったまま立ち尽くすイフェリアの耳に楽しげな声が入ってくる。嗜虐的な声が絶望を加速させ、彼女の心を闇へと突き落とそうとする。
【だけどよぉ、あいつは以前から薄々感づいてたんだろうな。なのに何もしなかった】
「……あの人はそんな人じゃない。図書室でだって助けてくれた」
【助けてくれたのはあれっきりだろ。ただの気まぐれだよ。婚約者にいい顔したかったんだろうなぁ】
「ちがう、ちがう、うるさい……!」
それ以上の言葉に耐えられず、イフェリアは耳を両手でふさいでうずくまる。それでも自分の中の声から逃げることはできない。思考は薄暗い暗闇へと落ち込み、底に埋めていた憤怒と憎悪を掘り起こしていく。
羽ばたき音といっしょに肩にとまった白鳩が彼女に囁く。
【ちがわないさぁ。かわいそうな、イフェリア。誰にも相手をされず、誰にも求められない】
追い詰められたイフェリアの頭に唯一の友人の顔が浮かんだのは自然なことであった。普段の彼女からは想像できないほど、彼女は勢いよく立ち上がり駆け出した。
白鳩は激しく動く肩から羽ばたかせながら床に降りた。部屋に残り、飛び出していく背中をただ見送った。
乱暴な足音に生徒は驚愕の表情で道の端によけていく。少女は走る。その先に希望があると信じて。
スフィアに会うことしか頭になかった。この濁った不快感をぬぐい取ってくれるのは彼女しかいないと思った。きっと、保健室に行けば笑顔で迎え入れてくれる。ぶきっらぼうな口調でなにがあったのかと聞いてくれるはずだ。
乱暴に開かれた扉に養護教諭が驚いた顔でイフェリアを見る。
「……スフィア。ねえ、どこ? 返事してよ……ねえ、ねえったら……やだよ、やだぁ……」
ぶつぶつと呟きながらベッドのシーツをはいでいく女子生徒を、養護教諭は不気味そうに見ていた。
不意に、その動きが停止する。
混乱する頭で彼女の部屋を訪ねればいいんだという考えにようやく思い至った。ベッドから身体を離し出口に足を向けようとする。しかし―――
「なんで……?」
何も思い出せない。
彼女の所属するクラスは?
入学した時期は?
彼女の出身地は?
『スフィア』という名前をしばらく頭の中で反芻していたが記憶に蘇るものが何もなかった。
いつも楽しそうにしゃべって、自分もこうやって生きられたらよかったとそう思わせてくれる友達。
「あの……スフィアという女子生徒がよくここに来ていたはずなのですが、知りませんか……?」
視線も定まらず尋常ではない様子の彼女を警戒しながら答えようとする。
【―――あーあ、本当におまえは救いようがねえなあ】
頭の中で誰かの声が聞こえた。
混乱と恐怖でしびれていた頭が急に現実に引き戻されると、激しい後悔が襲ってきた。
ゆっくりと言葉を紡いでいく唇を見ながらどくん、と心臓が大きく脈打つ。痛いぐらいに血流が早まり、全身が不安でいっぱいになる。
訊きたくない。聴きたくない。聞きたくない。ききたくない。キキタクナイ。キキタクナイ。キキタクナイ。キキタクナイ。キキタクナイ。キキタクナイ。キキタクナイ。キキタクナイ。キキタクナイ。キキタクナイ。
口にしてはいけない疑問をした後悔で身体中が警鐘を鳴らしていた。しかし、現実の声を掻き消すことはできず、やけにはっきりとイフェリアの耳に聞こえた。
「そんな生徒はいない」
一人になったイフェリアはどうやって自分が寮の部屋に戻ってきたかを覚えていなかった。
薄暗い中で立ち尽くす彼女はぼんやりとした目で部屋を見渡した。
寝心地の良さそうな姉のベッド。物置き場にされた自分のベッド。姉の机にはきれいに背をそろえられた教本がきっちりと並んでいる。自分の机には破かれ落書きをされた教本がばらまかれている。
見慣れたはずの部屋だった。だけど、いびつに歪んだ景色だった。
いままでの生活が夢のようにぼやけて見える。スフィアの顔を思い出そうとするが、それももうはっきりと頭の中に描くことができなくなっていた。
【おかえり、だな】
夕闇の赤から夜の闇へと沈む部屋の中央に立つ小さな影。音もなく現れた白鳩が出迎えた。
「……ねぇ、スフィアがどこにもいないの」
【イフェリアちゃんよぉ、おまえはおもしろいな。もう全部わかっているはずだろ。だから、見えなくなった、いなくなった。儀式はもういらない】
「儀式……」
【あの保健室に誰もいない時間に行くこと。日常と非日常を区切るための儀式。おまえがほしがったおまえを肯定して後押ししてくれる存在を呼び出す魔法だ】
イフェリアはようやく自分がどうしようもなく孤独なのだと理解した。
もう認めてしまおう、誰も自分を愛してくれない。親も姉も、同級生も、教師も、……もちろん彼も。
世界は自分に優しくしてくれない、
世界は自分を愛してくれない。
なのに、どうしてこんなにも我慢する必要があるのだろうか。
ダメだ……。以前はどうやって自分の心に蓋をしていたのかわからない。こんなのは嫌だ。つらい。苦しい。気持ち悪い。なにも見たくない感じたくない。
【これからお城で舞踏会が開かれる。誰よりもきれいなドレスと立派な馬車も用意してやろう。そうすれば、みんながオマエを意識して無視できないって理解する】
痛みと哀しみに濁った意識に、その声は優しく染みこむ。
「ほんとに……?」
【ああ、もちろんだ。みんながおまえに注目してくれるだろうなぁ。ただし、その効果は日をまたぐまでだ。零時の鐘が鳴るまでに帰ってくるんだよ】
白鳩の紅い瞳に髪を乱れさせ涙を目をためたみじめな己の姿が映る。瞳の中の彼女はすがるように手を伸ばす。
もう心配はいらない。大丈夫だ。さあ日常を終わらせよう。これは当然の権利だ。怯える必要なんてどこにもない。
さあ、魔法の呪文を唱えよう。
【……狂い咲け】




