陽子さんのしあわせ
で・・・・。
陽子さんの住むあたりを、ツーリングマップで見ると。
東京、と言っても西多摩だから、距離はそんなに今と変わらないようだった(笑)。
陽子さんは、半島の先の方に住んでいるので、そこから東京は遠い。
電車で二時間半くらいだろうか。
でも、僕の住む街からだとどちらもそんなに変わらない。
SR400で行けば、2時間くらいだろうか。
その事を、手紙に書いた。
「地図で見ると、距離は僕の所からだと今と変わらないから。
時々行けるよ。電車だとむしろ近いと思う。」
幹線の方が早いのだ。線路が真っ直ぐで、スピードも出る。
オートバイなら高速道路、と言う手もあった。
僕は空想した。
SR400に乗って、夜の高速をひとり走る。
軽快なビート。ヘッドライトの光が、天の川のようで・・・。
陽子さんから手紙の返事が来て「ほんとね。地図を良くみれば良かった。
きっとよ、きっと来てね。」と。簡潔な内容。
引越しの準備とか、いろいろ忙しいのだろう。
3月で、4月から学校、となると。
昼間学校。
夕方からスーパーで仕事。
「僕と同じだなぁ」なんて思う。
それでも正社員並みの給料(70%とは言え、バイトの時給とは比較にならない)
が貰えるのだから、いい会社である。
因みに、この時代、大手企業にはよくある話だったが
貰える人はほんの少しの、特に優秀な人だけだったから
「陽子さんは優秀、なのかな」なんて思ったりもした。
絵は見たことないけれど。
陽子さんが東京に行く前に、会いに行こうかとも思ったけど
それならば後でもいいか、とも思ったりして(笑)。
でもまあ、家族と離れて暮すのは、それなりに淋しいとは思う。
会社の女子寮なら、友達と隣同士、なんて。
そういうのだと、楽しいかもしれないな・・・なんて思う。
そのうちに、3月も半ば過ぎになり、春休み。
ノリちゃんは、中型免許(当時はそう言っていた。自動二輪中型限定免許)を
教習所に取りに行っていたが
私立の学校のように、風紀の先生が
教習所で見張る、なんて事も無かった。
警察に言って、免許取得者を調べるなんて事もあったらしい。
でも、県立北高はのんびりしていて、そういう事は無かった。
工業高専は、今でもバイク通学OKだったし
定時制に至っては、車もOK。
その頃、SR400が発売された。
モーターショーモデルそのままだった。
メッキのダウンマフラーは長く、面白い事に
サブチャンバーがついていた。
この頃流行っていて、ホーク2などは
エンジンの真下が、全部そのサブチャンバで
そこに排気管を入れ、チャンバーから出る排気をマフラーに出していた。
それで、ばさばさばさ・・・と言う、面白い排気音になって。
ホークだから、鷹の羽ばたきなのかな、なんて僕は思った。
「そのうちに、試乗させてもらおう」
当時は、新車が出ると試乗車があって
公道で試乗させて貰えた。
のんびりしている田舎だから、と言うのもある。
SR、いいなぁ。
値段は31万円で、登録すると
38万くらいになるから・・・・。
もう少し、お金を貯めないとダメかな。なんて思い
僕は、アルバイトを頑張ることにした。
ノリちゃんと同じバイト先の、ちゃんこ鍋屋さんに欠員が出たので
入れてもらえた。
夕方からのバイトで、だいたい4時から5時に入って。
夜は9時まで働けたから、結構な収入になる。
時給は600円だったと思う。当時としては結構な金額で
ふつうは450円から500円くらいだった。
600×5=3000円×25=7万円だから
高卒の事務職初任給くらい。
それだけ、この店が人を大切にしていたのだろうし
また、流行っている店だったのだろう。
挨拶に行くと、店長さんはしゃきっとした35歳くらいの人で
箱型のスカイラインGT-Rのハードトップに乗っていた。
髪はパーマでオールバック。
「はい。がんばって。ノリちゃんと同じ高校だね。」と、にっこり。
後々、この店長さんが人気があり
北高生がバイトに沢山来るようになる。
僕は、幸いこのお店のすぐそばに住んでいて
歩いてこれる。
それもとても魅力だった。
調理場の板前さんは、角刈りで、背は低いけど
敏捷、鋭い目で
いかにも職人、と言う感じの人だったが
口うるさい人ではなく、それも好感だった。
フロアーは、朗らかなおばさんが多くて
とっても楽しい雰囲気だった。
「しっかりバイトすれば、一年くらいでSR400買えるかな」
そんな風に思った。
と言うのは、父の病気があるので
僕らの給料で父を養わなくてはならないし
病院代も掛かる。
7万円全部は、とても自分のためには使えない。
そんな時、陽子さんを思い出した。
彼女も、家計を助ける為に働いているのだ。