<第一章 地球の異変>1
ある夏の日の十五時。
四礼樹夏杷は、青山霊園の中を歩いていた。
目当ての墓までは、まだ少しある。この霊園はかなり広く、端から端まで歩くのは一苦労だった。特に、この日のような真夏日は。
いつ見ても、ここまで形も大きさも様々な墓石の群れは見ごたえがあった。この多様性は、国内でも随一ではないだろうか、と来る度に思う。
夏杷が目指すのは、特に飾り気のない、直方体のありふれた墓石だ。
ようやく目的地にたどり着き、霊園の入り口の店で借りてきた柄杓で墓石に水をかけてやる。
十九歳の大学の夏休みに、一人で墓参りをしているとは、
(少なくとも、去年の今頃は想像もしてなかったな)
胸中で呟きながら、微苦笑する。
花を生けていると、すぐ右手にある茂みから物音が聞こえた。この霊園はカラスが多い。もしくは、猫か。夏杷は汗のにじんだ長く黒い髪を指先でさばきながら、そちらに目をやった。
危うく、悲鳴を漏らすところだった。いや、充分声を上げていい状況でもあったのだが。
茂みの中から姿を現したのは、見知らぬ男だった。ボロボロの黒いカッターシャツとジーンズというみすぼらしい出で立ちで、やや長い黒髪で目元が隠れている。
変質者? こんな真昼に、堂々と?
夏杷はとっさに両腕を自分の体に引き寄せた。ただ、身なりが汚れているというだけで、今のところはそれ以上に怪しむべき要素は見当たらない。
二人間には、三メートルほどの距離がある。
(あまり刺激しないようにして、離れればいい……のかな?)
下手にスマートフォンなど出せば、激昂されるかもしれない。向こうは立っているだけなのに、なぜこちらが一方的に怯えなくてはならないのかと思うとやや釈然としないものはあったが、ひとまずは無事にこの場を済ませられればそれでいいだろう――と夏杷は胸算用する。
しかし、
「あの」
と男が話しかけてきた。おや、声が随分若いな、と夏杷は思う。
「は、はいっ!?」
「今……何時ですか」
今、何時か。何だこの質問は。まともに答えていいものか。何か、防犯上決して答えてはいけないような、そんな応答事例をSNSか何かで見たような気もする。見なかったような気もする。
「午後の、三時……くらいです、けど」
結局は、素直に答えてしまった。
「そうか……。あの」
「はい!?」
「ごめんなさい。怖がらせるつもりじゃ、なかったんです」
男は――この時ようやく、彼がまだ少年であることに夏杷は気付いた――ぺこりと頭を下げた。
「行かなきゃ。休み過ぎた。そうだよ、こんなところで……」
「……どこへ、ですか?」
夏杷は、反射的に訊いていた。少年の物腰から、特に危なそうな様子はなかったせいもある。
「どこへ? ……そうですね、俺は――」
少年が顔を上げた。初めて目元が露わになる。
「――俺は、ドラゴンのいる大陸へ」
一瞬、彼が何と言ったのか、夏杷には分からなかった。しかしあまりにはっきりとした口調に、聞き間違いではないのだと、遅れて悟る。
(ドラゴン? ドラゴンて言ったの、今?)
「地球にいる場合じゃないんです。俺は、ドラゴンたちに会いに行かないと。あいつら、俺がいないとだめなんですよ。人間を嫌いってわけじゃないのに、一緒に生きられない。それならそれでいいんです。でも、……時々傷つけ合うのは、悲しいでしょう」
「あの、違ったらごめんなさい。お酒を飲んでたり、する?」
そうでなければ、まさか薬物だろうか。夏杷の背中に、気温とは無関係の冷たい汗が流れた。
「酒……はは、そうだ、スノウの奴が好きだったな、人間は好かないけど酒は別だなんて言って、あいつ……ははは」
(どうしよう。こんな時、何をしてあげればいいんだろう)
すぐにその場を離れてもよかった。だが夏杷は、表面的な異様さの奥に、少年の抑圧された感情を感じ取っていた。
(なんだろう、この感じ。……この人は、……傷ついている? それも、ひどく)
「あの、君、少し」
夏杷がそう言いかけた瞬間だった。また前髪に隠れていた少年の目が、爛と光った。
「何だと!?」
「ええっ!?」
少年が激昂している。そして一足飛びに、夏杷に飛びかかってきた。
やっぱり、おかしい人だった。少しでも関わろうとしたことを夏杷は後悔した。しかし恐怖で身をすくませた夏杷のすぐ隣を、少年は風のように駆け抜けた。そして。
「くらええええッ!」
少年が、地面を激しく踏みつけた。ぶし、という不愉快な音が夏杷の耳にも届く。
「……え?」
「見てください、危ないところでした! ここにも、敵の眷族が! 俺とドラゴンが友達と言っても、俺の敵であるドラゴンも沢山いるんですからね! 俺の友達は、ドラゴンの中でも霊域十二竜だけですし!」
そう言いながら少年がつまみ上げたのは、一匹のトカゲだった。体が、今踏まれたせいで大方潰れている。
「ああ。なるほど。そうかもしれないね。うん。それじゃ、私……」
妙な関心を持たずとにかく退散しようと、夏杷がきびすを返しかけた時、その視界におかしなものが映った。
見間違いではないか、と夏杷は目をこする。しかし。
「火を……吹いてる……?」