チコリカフェオレ
私がイツワ珈琲の店をくぐった時、その男は四角いケーキのような物を頬張っていた。初めての先客。オリーブ色のMー65フィールドジャケット、リーのデニム、レッドウィングの赤茶けたブーツ、ソフトモヒカンの頭。それは見たことのある、一時は毎日顔を合わせた男だった。
「ほう、インスマウスもこの店に来ていたとはな。世界とは狭いものだ」
「相変わらず感じの悪い男だな、嵯峨野。そのアダ名で呼ぶのはやめろ」
大学時代、同じゼミだった男、嵯峨野裕也。ライトノベル作家を目指すと言って、三年の夏からゼミに来なくなり、ぷっつりと消息を絶っていた。
私はすっと隣の席に座り、目を合わせずに話した。
「まだ、小説のほうは続けているの?」
「とうの昔に諦めた。新人賞取って、二作出して、売れずにそれっきりさ」
「……ごめん」
嵯峨野はカウンターの上にいくつかの本を並べている。
「趣味の方は続けている。副業として成立するほどにな」
嵯峨野は新古書店を回って貴重な本を見つけ、目利きの古書店に高値で売り飛ばす所謂“せどり”を趣味にしていた。
「これ、ずいぶんお洒落な絵本だね」
「そいつはついでで買ったんだ。状態は良いがさして貴重なものでもない」
私はその絵本、「長靴をはいた猫」を夢中でめくった。タロットカードのような絵柄と不思議な物語が実によくマッチしている。絵を手がけたのはウォルター・クレインという人物らしい。
「人の物をべたべたと……そんなにほしけりゃくれてやる。あばよ」
黒いポーターの鞄に他の本を詰めると、嵯峨野は代金を支払ってそそくさと出て行ってしまった。
私はチラとマシューを見上げた。彼はいささか驚いた様子だった。
「どうしたの?」
「他のお客様が嵯峨野さんの本に興味を示されるのは良くある事ですが、タダで譲るのを見るのは初めてです」
「ふーん、じゃあ私はラッキーだったんだね」
私は人喰い鬼の王様の城に猫が訪ねてくるところで、ページを繰る手を止めた。人喰い鬼は金色の魚鱗甲を身に着けていた。
「ねえ、あいつが注文してたのって何?」
「説明が中々難しいメニューでして、お作りしましょうか」
私は嵯峨野が頼んだメニューを作ってもらうことにした。
やがて出てきたのは四角いドーナッツと、妙な香りのするカフェオレだった。
「ニューオリンズの名物、ベニエとチコリフレーバーのカフェオレです」
ベニエとやらには死ぬほど粉砂糖がかかっている。一口食べてみると想像よりもふかふかした生地で、油っこさはあまりない。
カフェオレはというと、どことなくシナモンに似た後味と香りがするが、こちらも飲みやすい。
「あ、チコリってノンカフェインのコーヒーもどきみたいなやつだっけ?」
「チコリは根に独特の香りを持つ植物です。確かにチコリからコーヒーに似た飲料を作ることも出来ます。フランスではかなり一般的な飲み物ですが、こちらはあくまでコーヒー豆に炒ったチコリで香りづけをした物を使っています」
私は「いつもの」を頼むのも忘れてしばしベニエをぱくついていた。
「ベニエを扱う米国のコーヒーチェーンが以前日本にも展開していましたが、競争に負けて撤退しました。今ではこの店のような個人経営でしか食べられません」
マシューはこのメニューに個人的な思い入れがあるのか、少し寂しそうな顔をしていた。
「アメリカかぁ、アメリカの話もいつか聞きたいけれど、今日はヨーロッパの気分かも」
「ヨーロッパ……少しメジャーどころを外して中欧などどうでしょう」