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『歴史喫茶 イツワ珈琲』  作者: 称好軒梅庵
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4杯目 忠義の刃

 一八一四年四月十三日、私はフォンテーヌブロウ宮に出頭を求められた。皇帝ナポレオンの調印した退位文書を受け取り、パリに運ぶためだ。栄光の日々が終わろうとしていた。勇敢だった仲間達はもういない。こぞって新政権の元勲達に挨拶回りをしているのだろう。陛下から“勇者の中の勇者”とまで絶賛されたあのネイ元帥さえも、連絡すらつかない。変わり身の早さに絶句させられる。

 馬車から湖畔を眺めるとフォンテーヌブロウ宮が映りこんでいる。青い屋根と赤い煙突がコントラストを成している。美しいが、静かでどこか物悲しくもあった。

 宮殿に到着して部屋に入る。陛下は椅子に座り、右手を懐に入れて夢想に耽っているようなただならぬ様子であった。マレとアルマン・コレンクールが傍らにいるが、彼らの事も思考の外にあるようだ。


「陛下、エティエンヌ・マクドナル元帥が参られました。元帥は急ぎパリに向かわねばなりません」


 コレンクールは弟をロシア遠征で喪っている。実に華々しい散り際だったが、戦争自体が負け戦では浮かばれまい。その表情には余裕がなかった。

陛下は夢から覚めたような顔をして、こちらを見ている。


「お加減がよくないのですか」


 陛下は二三度瞬きした。


「……そうだ。どうも昨日の晩から調子が悪い」


 陛下はそう言うと再び夢想に耽るような表情に戻ってしまった。我々三人はしばらく待っていたが、ついにコレンクールが痺れを切らした。


「陛下!マクドナル元帥が待機しています。調印文書をお渡し下さい。二十四時間以内にパリで手交せねばならないのです」


 陛下はすっくと立ち上がり、文書を手に取った。いくらか生気を取り戻した様子だ。しかし、その表情はいかにも悲しげであった。


「二十六人も元帥がいて、残っているのは君か。君だけか」


「陛下、残念ながら私だけです。すいません」


 言いたいことはわかる。私は元帥に名を連ねてはいるが、お覚えめでたいほうではなかった。顔も武勲も印象が薄く、直接褒められたこともない。元帥に叙せられたヴァグラムの戦いの褒章文でさえ、手放しの賞賛はなかった。戦勝祝賀会の席で、君はずいぶんモテるらしいな、等と身に覚えのない話をされたこともある。誰か他の元帥と間違われたのだ。

 陛下は、じっと私を見つめて言った。


「マクドナル。私は君を誤解していた。そう仕向ける邪な者達がいたのだ。私は自分を捨てて窮地に陥れた不届き者にばかり恩恵を施し、君を省みることがなかった。しかし、私が感謝を向けなかった君だけがこうして忠誠を尽くしてくれた。つくづく私は馬鹿だった。私は…私は……こうして君への感謝を言葉でしか表せないことを遺憾に思う」


 陛下は調印文書を私に渡すと、待て、といきなり叫び、寝室に入った。金属音が響き、扉を開けた陛下は一振りの新月刀シャムシールを携えていた。鞘と絵に細密な彫金が施され、柄頭にはトルコ石の目が埋め込まれた獅子がいる。刀を抜くと白黒の見事な刃紋が煌めいた。名刀であることは馬鹿でもわかる。


「これも一緒に持って行ってくれ。ピラミッド会戦でエジプトのパシャから奪いとった戦利品だ」


「そんな貴重な物を私なんかに……いただけません」


「私が持っていても、もう使うことはない。もはや天下の事は去ってしまったのだ。最後の命令だと思って、受け取ってくれ」


 私は涙を堪えることが出来なかった。

 陛下がエルバ島に流されて後、私はルイ十八世とその宮廷に降った。以前、陛下はルイ十八世について“ルイ十六世から実直さを引き、機知を足した人物”と評していた。

 ルイ十八世はその通りの機知を発揮し、陛下に対する恨みよりも軍事上の必要性を優先した。私は他の元帥と同様に、元帥とタラント公の地位を保たれたのである。


 もう使うことはないという言葉とは裏腹に、やがてナポレオンはエルバ島を脱出し、パリを再度占拠した。後世に言う“百日天下”である。

 一度ナポレオンを捨てた元帥達は、今度はすぐにルイ十八世を放り捨てた。ネイ元帥は「必ずやナポレオンを檻に入れて御覧にいれる」等とルイ十八世に豪語しておきながら、その足でそのまま寝返った。しかし、これらの馳せ参じた元帥達の中にマクドナルの姿はなかった。


「陛下が戻られたというのに、マクドナルの奴め!まったく不届き千万ですな」


「ネイ、人にはそれぞれ重んじるものがあるのだ。私は彼を恨まない。もちろん、私が敗れたら即座に見限った連中の事もな。厚かましくも戻ってきてくれて、心から感謝しているよ」


 ぎろりと剥いたナポレオンの目には、欧州を、そして世界を席巻した炎が蘇っていた。


「はははは、陛下の懐はセーヌ河のように深い!流石です」


 ベルギーのヘントに亡命するルイ十八世、その護衛の列にマクドナルの姿があった。


「一度はルイ王の禄をんだのだ。二心を抱くは騎士の名折れよ」


 それでも叶うならば、いつか陛下にご恩返しがしたい。

私は新月刀シャムシールの柄を掴んだ。獅子の眼窩に嵌めこまれたトルコ石が、陽を浴びて罅上の蛍光を発していた。


 百日天下はその名の通り、すぐに終焉を迎えた。ナポレオンの炎は再び世界を焼く事は出来なかった。


 ナポレオン三世の時代、ルイ・マリー・マクドナルという男がその治世を支えた。彼は父から受け継いだ新月刀を佩用していたと伝わっている。

 マシューはトルコ・コーヒーを飲んだ後のお楽しみを披露してくれた。飲み終わったコーヒーカップをひっくり返し、受け皿の上に載せる。


「こうしてしばらく置くと、珈琲の粉がカップの底に乾燥して残ります。その模様で占いをするのです。下半分が過去のこと、上半分が未来のことを現します」


 頃合いを見て私達二人はカップの底を覗きこんだ。下半分にはドームのような模様が残っている。釣鐘型は良い知らせを現すと言う。友人が結婚するのがそうといえばそうか。上半分の模様は何とも表現しがたいが、強いて言えば千葉県の形に似ていた。


「千葉県といえば、犬の形によく似ていると言われますね。犬の形は信頼できる友人、パートナーを示すとされています」


「昨日あった友達以外でそんなんいたっけかな」


 私はしばらくカップの底のちばけんを眺めていた。

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