モンスーンコーヒー
久しぶりにステンドグラスの嵌ったその古ぼけたドアを開け、薄暗い店内に足を踏み入れると、リンドウのランプがひとりでに点く。カウンターの暗がりの中にマシューの姿が浮かび上がる。
「いらっしゃいませ」
「………ゴジラ観た?」
「ラドンが可愛らしゅうございました」
私とマシューはお互いにうんうんと頷くと、それ以上映画の話はしなかった。
藤堂マキナは多忙であった。本業で大きな仕事を任され、同僚も立てつづけに突発的業務が入ったために助けを求められず、てっぺんを回ることがしばしばあった。映画は隙間にねじ込んだ唯一の息抜きだった。
「なんとなく……アジアのコーヒーが飲みたいな」
「ございますよ」
暫くすると青い縁取りのされた白いコーヒーカップとソーサーにブラックコーヒーが注がれて出された。
カップを手に取ると、ソーサーに描かれたインド象の絵柄が姿を現した。
「あら、チャーミングね」
「古いノリタケの物です」
口に含んだコーヒーはかなりの苦味があった。
「すごい苦いけど酸味はほとんどないのね。これは、ソーサーの柄から考えて、インドのもの?何か加工しているの?」
「その昔、インドのコーヒー豆はヨーロッパに運ばれる過程で貿易風に吹かれて変色し、独特の風味になりました。これをモンスーンコーヒーと言います。交通網の発達により一時は姿を消しましたが、欧州の人々はその味を忘れられませんでした。わざわざ船の上に乗せて貿易風にさらすことで、当時の風味を再現することに成功したのです」
マシューは人差し指と親指でコーヒー豆を摘んでいる。そのコーヒー豆は黄金色に輝いていた。
マシューのインドコーヒーにまつわる薀蓄は続く。インドコーヒーの歴史は長く、十七世紀後半に遡る。ムガル帝国のイスラム僧侶ババ・ブーダンはイエメンで厳重に警備され秘匿されていたコーヒーの苗木を盗み出し、インドに持ち帰って栽培することに成功した。ババ・ブーダンはインドコーヒーの父として、彼の名を冠した丘があるという。インド人の独特の倫理観には中々ギョッとさせられるものがある。
「この流れだし、インドの話を続けてもらおうかな」
「では……」




