5杯目 吟遊詩人と粉挽き
うららかな春の陽が青く萌える草原に差し込んでいる。穏やかな風が吹き抜けていく。水車の勢いよく回る音に小鳥の歌が合わさって空に溶けていく。この美しい風景の中では行き倒れの男もさして目立たないようだ。
竪琴を持ったその男は、珍奇な色の上着と、民族の伝統を匂わせるフェルトの帽子を被ったまま、水車小屋のど真ん前でのびていた。
「もし、大丈夫だべか、お兄さん」
そう野太い声をかけながら行き倒れの男を揺さぶるのは、腕周りが竪琴を持った男と一緒と言って差し支えない程の大男だった。筋骨たくましく、袖をめくったその腕は毛むくじゃら。小さい黒目がちの穏やかな瞳を見なければ、喰人鬼だと思われても仕方がない。
行き倒れの男はうわ言のようにつぶやいた。
「……み、みず」
「よっしゃ、ちょっと待っててくんろ」
しばらくすると、行き倒れの男は目をつぶったまま水を飲まされていた。口に硬い器がぐいぐいと押し付けられる感覚がするので、ようやく男は目を覚ました。
「気がついただか!よかった。足りなかったら、もういっぺん汲んでくるだよ、遠慮せず言ってくんろ」
大男の持っている器を見て、行き倒れの男は鼻から水を吹き出した。
大男が石臼を抱えていたからだ。
「し、失敬。助けてくれてありがとう。君は……それで水を汲んできてくれたのか?」
「ああ、いっぺんに運べるんで便利だあ」
はにかむ大男を見て、行き倒れの男は目を輝かせる。
「素晴らしい!世界は驚きに満ちている。この感激を曲にしよう」
男は即興で竪琴を奏でた。大男は音楽らしい音楽に生まれてこのかた触れたことがないので、それが良い出来なのか悪い出来なのか判別できなかったが、演奏が終わるとなんだか嬉しくなってバチバチと大きな音をたてて拍手した。
「恩人よ、名前を聞いていなかったな。わが名はマーチャーシュ。君の名はなんと言うのかな」
「おらぁキニジっていうだ。粉挽きをしてるだ」
それから二人は他愛もない話をした。と言ってもマーチャーシュが聞き役に徹し、キニジの話を引き出すような形だった。キニジは村一番の力持ちで、暴れ牛を力づくで止めようとして絞め殺してしまったり、相撲大会で誤って家の壁をぶち抜いてしまったり、武勇伝だか失敗談だかわからない話をいっぱい持っていた。会話はいつしかプライベートな内容に踏み込んでいった。
マーチャーシュは巧みにキニジから亡くなった家族のこと、幼馴染の勝ち気な娘に惚れていることまでも聞き出した。
「でも……ダメだぁ。相手は庄屋さまの娘。びんぼうなオラでは釣り合わないだよ」
マーチャーシュは身を乗り出し、キニジの肩を掴んだ。
「そんな事はない。君はすごい才能を持っている。簡単にあきらめてはいけない」
「この国では、粉挽きの子に生まれたら、一生粉挽きで終わるだよ。力自慢なんか、なんの役にも立たないだ。からかわないでくんろ」
マーチャーシュは立ち上がった。その目には才気の炎が燃え上がっている。
「この国は、これからそうではなくなる。このマーチャーシュが王位につくのだからな!」
マーチャーシュ1世は、ハンガリー王国にルネサンス期をもたらし、数々の対外戦争に勝利した名君である。
彼は王子であった頃、吟遊詩人に扮して各地を旅し、代官や僧侶の不正を暴いたという。
対外戦争での華々しい勝利を支えたのが、粉挽きから将軍に成り上がった、豪傑キニジ・パールである。二本の大剣を軽々と振り回して戦場を駆け巡るその姿は、トルコ兵やワラキア兵から悪鬼のごとく恐れられた。
キニジが恐れるもの、それは、若い頃から連れ添った勝ち気な妻だけだったという。